第64話「嵐と、天秤」
「ワタツミぃ?」
「はい」
「ガッハッハ!
そんな話、よく知ってんな兄ちゃん!」
「ということは……やっぱり、スタッグさんもご存知なんですね」
「ああ、よーく知ってるとも。
俺の爺さんくらいの世代が言ってた与太話だぜ、そいつぁ」
「与太話……ですか」
ペルエットに来てから初めての、曇り空の下。
いつもの詰所で、俺たちは何度目かの打ち合わせをしていた。
「俺がガキの頃は、海が荒れた時にゃ『ワタツミ様がお怒りだ』なんて教えられたもんだが……。
神様だなんだと言われても、実際の姿なんてだーれも見たこたねぇからよ。
今じゃ、誰も口にすることすらねぇ名前だろうな。
最近の若ぇ漁師なんかは、話自体知らねぇのがほとんどじゃねえか?」
「なるほど……」
「ま、もしご利益があるってえんなら、俺も一度は見てみてぇもんだがな!」
そう言って、スタッグさんは野太い腕を椅子の背に回す。
「……例えばですよ、スタッグさん」
「おん?」
「その正体が、魔獣だったとしたら……どうでしょうか?
大型の、水棲魔獣だったとしたら」
「魔獣……?」
こちらを見る眉根が、訝しむように寄せられる。
「あくまで、仮定の話です。
もしそれが、単体で海難事故をもたらすような力を持っていたとしたら。
昔の方々がそれを見たときに、海の神だと思い込んでしまうような強大なものなら。
……その伝承も、全てがおとぎ話だと切り捨てられるものではない。
そうは、思いませんか?」
「……何が言いてえ」
「今回の大渦。
それを抜け出す際に飛びかかってきた、異質な魚。
そして、リエラが陸で狼の魔獣に襲われたこと。
俺は全部、繋がってると考えてます」
「ワタツミって奴に、か?」
「はい。
どうやらフローエンでは、過去にも急な魔獣の増加が記録されているようです。
それも定期的に、そして各所で同時に、です。
もしかすると、今回もその時期が来ているのかもしれない。
以前にお話しした嫌な気配、渦の原因かもしれない魔獣の群れ。
それも含めて、後ろで何か大きなものが動いているのではないか……と」
「ふむ……なるほどな。
聞く限り、兄ちゃんたちも色々と調べたってことなんだろう。
その話も、推測にしちゃ頷ける話ではあるが……納得するには根拠が弱えな。
眉唾モンだと言っちまえば、それまでに聞こえるぜ」
「仰る通りです。
だからこそ俺たちは、裏付けを取るための調査に出たいと思っているんです。
可能であれば、スタッグさんの協力の下で」
「……ほう」
「魔獣が増加する時は、決まってマナが乱れる。
因果関係において、どちらが先かわかりませんが……互いに影響を及ぼしているのは確実です。
そしてフローエンにおいて最も濃くマナが集中しているのは、海です。
だから海上のマナの変化を記録できれば、その原因を突き止められるかもしれない。
少なくとも、前兆となる動きの観測くらいはできるはずです。
ちょうどこちらには、マナに敏感な獣人の子もいますので」
龍脈のことは伏せつつも、できる限りの説得力を持たせるよう俺は続けた。
「それに……俺はあの日、赤い瞳を見ています。
渦の中からこちらを覗き込む、敵意の塊のような瞳を。
初めは見間違いかとも思っていましたが……今は違います。
アレが本当に魔獣なら、黙って放置しておくわけにはいかない。
だから、お願いできませんか。
俺たちと一緒に、海上の調査を。
ノルネスさんを襲った大渦の原因を突き止めるための、調査をです」
「……赤い瞳、か」
そう呟いて、スタッグさんは目を閉じて考え込んだ。
フローエンの海のことは、フローエンの人間が解決する。
以前に教えてくれたその矜持が、やはり引っかかっているのだろう。
だが今、スタッグさんは『これまでのやり方』と『俺の申し出』を確かに天秤にかけてくれていた。
そして、少しの沈黙の後。
スタッグさんはその目を開き、腕を組みながら改めて俺を見据えた。
「……わかったぜ、兄ちゃん。
アンタらを乗せて、一度海に出ることにしよう」
「スタッグさん……!
ありがとうございます。
無茶を言ってしまいますが……ぜひお願いします」
「いや、構わねえ。
……実は俺たちも、この件に関してちょうど行き詰まってたとこなんでな」
「そうだったんですか?」
「ああ。
ノルネスのおやっさんは快復したが、兄ちゃんやリエラちゃん以上の情報は持ってなかった。
海ではあれから危ねえこたあ起きてねぇし、大渦も出やがらねえ。
変わったことと言や、ちょいと魚の獲れる量が少ねえぐらいで……それ以外はほとんど例年通りだ。
だもんで、漁師共もそろそろ気が緩んで来てやがる」
「なるほど……」
喉元過ぎれば、というやつだろうか。
当事者でなかった人たちに潜在的な危険を伝えることの、難しさでもあるのだろう。
「っつうわけでな。
兎にも角にも、このままにしておくわけにゃいかねえ。
だから、改めて協力してもらえるか。
兄ちゃんたちを巻き込むのは申し訳ねえところもあるが……背に腹は代えられねぇ。
それに、俺たちじゃできねえ手段で調査ができるってんなら、ありがてえ限りだ」
「はい、ぜひ。
でしたら、調査は早い方が───」
「ただし、だ」
スタッグさんの声が、俺を遮る。
「すぐには出れねえ。
できたとしても来週か……いや、いつも通りなら二週間後ぐれえだな」
「二週間……?
何か、あるんですか?」
「嵐だ。
デケぇのが近づいてきてやがる」
「……嵐、ですか」
「ああ。
そのせいで、いつ海上に時化が来るかもわからねぇもんでな。
素人を乗せて海に出るには、今は危険すぎる」
「なるほど……。
それは、大丈夫なんですか?
今回の調査を抜きにしたとしても」
「心配はいらねえ。
この時期に嵐が来んのは、毎年のことだ」
「そうだったんですね……」
「おう。
原因だってわかってっからよ。
東からの季節風のせいだ、ってな」
スタッグさんの言う嵐というのは、およそ俺の感覚でいうところの台風に近いのだろう。
もっとも、こちらでは嵐と台風の違い自体存在しないのかもしれないが。
「嵐が止んだら、一気に寒くなる。
寒くなったら、海流が変わる。
海流が変わりゃ獲れる魚も変わって……遠洋に出る季節になる。
言うなりゃ嵐は、俺たち漁師にとって遠洋漁に出る体力を蓄えるための準備期間ってとこだな」
「では……調査はそれが過ぎてから、ということでしょうか」
「ま、そうだな。
嵐の野郎がどっかへ行って……そこから数日、漁師たちには追加で休みを取らせよう。
その間に、俺が兄ちゃんたちを乗せて海に出る。
それで何も問題がなかったら、例年通り遠洋漁を解禁するしかねえだろうな」
「承知しました。
それに間に合うように、準備をしておきます」
「兄ちゃんたちには申し訳ねえが、そうしてくれ。
いつ嵐が来るか、正確にわかりゃいいんだが……自然ってなあ、気まぐれなモンでな」
「いえ、ありがとうございます。
他でもないスタッグさんに船を出していただけるのなら、きっと調査もうまくいくと思います」
「ガッハッハ!
相変わらず、よいしょが上手だな兄ちゃんは。
そこまで乗せられたら、俺も張り切るしかねえってもんよ」
「ぜひお願いします。
場合によっては、危険が伴うかもしれませんが……」
「ま、そんときゃそん時だな。
この海や漁師どもを守るためだってんなら、仕方ねえさ。
……それよか、兄ちゃんたちの方こそ大丈夫なのかい。
俺たち漁師の問題に、そこまで体ぁ張ってくれるってなあ」
「もちろんですよ。
すでに他人事ではないところまで踏み込んでいますし。
それに……」
「あん?」
「前に言った通り。
俺は、うまい魚を食べたいだけですので。
そのためなら、できることは全部やりますよ」
「……ガッハッハ!
ああ、そうだったそうだった。
兄ちゃんは、そういうバカな野郎だったぜ」
「ええ。
こちらは、そのためだけに国境まで跨いでいますから。
ここまできたら、どこまでもバカになってやりますよ」
「たしかにそうだった、忘れてたぜ。
だが……俺ぁ好きだぜ、そういう奴が。
俺と同じように頑固で、一本筋の通ったバカがな」
スタッグさんが腕を挙げたので、こちらも手を差し出す。
すると彼の大きな掌がすくい上げるように俺の手を掴み、強く握りこまれた。
(って言っても……海に出れるのは、だいたい二週間後。か)
それは、ちょうど俺たちがフローエンに来てから一か月ほどとなる頃合いだ。
これも何かの節目だと考え、俺は改めて気を引き締めることに決めた。
───だが。
この日の俺たちの計画は、水底に潜む何かに引き裂かれることになるのだった。
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