第4話「扉と、尻尾」
目指していたものは、いつの間にか月から街頭へと変わっていた。
そしてその光が、月よりも大きくなったとき。
俺たちを石畳の道が迎えてくれた。
「ここがクロキア。綺麗な所でしょう?」
足音が高くなるにつれ、木々は姿を消し。
石造りの家々が、周りの景色に混ざり始めていた。
街灯と思しき柱の先には、見たことのない赤い石が取り付けられている。
それらがぼんやりとした光を放ち、俺たちの足元を照らしてくれているようだった。
「正確にはさっきの森や山もクロキアの領土なのだけれど……やっとこのあたりから、街と呼んでいい場所になるわね」
「……静かだな」
「もう夜だもの。
酒場ぐらいしか空いてないんじゃないかしら?」
「そりゃそうか」
街の中心に近づいているのか、ますます街頭と家屋が増えてくる。
あたりからは、木々や動物はおろか虫の声すら聞こえない。
ここまできてようやく、安全な場所についたという実感が出てきた。
(これが、この世界の街か……)
赤い石が、この世界の人々の生活を照らす。
硬い石畳で舗装された道。
レンガのようなもので作られた家々。
いかにもといった伝統的な西洋の街並みは、改めて異世界に来たという事実を俺に刻み付けた。
俺はこれから、この世界で生きていかなければならないのだ。
不安も期待も、存在する。
が。
(今はそれよりも、腹が減ったな……)
ぐぅ、と腹の虫が声をあげた。
どうやら異世界に来ても、食うものは食わないと生きていけないらしい。
人間の身体というのは、現金だ。
「で、どこに案内してくれるんだ?」
「まずは、貴方にお礼をしなくてはね。
私のお家に行きましょうか。
ここまでずっと歩いて、疲れたでしょう?」
「ああ。
ついでに、飯も用意してくれると助かるんだが……」
「ふふ、素直でよろしい。
じゃあもう少し歩くけれど、我慢はできる?」
「我慢できなくなるまでは我慢できるぜ」
「あらあら。
じゃあ、貴方がまた別の世界に行ってしまわないように気を付けないとね?」
バカな言葉を投げあって歩くこと十数分。
景色は徐々に変化していた。
さきほどまでの住宅地を過ぎ去り、今度は白く大きな建物が目立つようになっていた。
かと思えば、噴水のある広場や、砂地のグラウンドのような場所もあるようだった。
どうやら、このあたりは公共の場所らしい。
そこからさらに、階段をいくつも上り。
気付けば俺たちは、街が一望できる土地に立っていた。
「ふぅ……。
ずいぶん登ったな」
「ええ、もうすぐよ」
「もうすぐ、つっても……ホントにこんなとこに住んでんのか?
住宅街からは、遠ざかってる気がするんだが」
「そうね」
ぼやきながらついていくことさらに数分。
ついに、彼女の足が向かう先に存在する建物はたった一つだけになってしまった。
「着いたわ、ここよ」
それは、この街に着いた時からすでに見えていたほど巨大な───
「宮殿……っていうか、城?」
俺が戸惑っている間に、サフィーアは見張りと思われる兵士に声をかけた。
すると、兵士は手早く近くにあった鎖を引く。
彼が鎖を引くたびに門は大げさな音を立て、やがてその城門が口を開けた。
「何をしているの、早くいらっしゃい」
(城に住んでるってことは……いや、まさかな)
嫌な予感がしたが、俺は言われるがままに赤い絨毯を踏み、入城する。
(うむ。
まだ判断するのは早い。もしかしたらメイドとか、そういうのかもしれんしな)
門が閉まる音を背に、荘厳な城内を進む。
大理石の床、白い甲冑を着た警備兵たち。
触れるのも憚られるような白磁の工芸品に、アンティークの数々。
そして。
それらに一瞥もくれず、我が物顔で歩くサフィーア。
彼女の背中を追う間、俺は言葉を発せずにいた。
この世界に来たときとは違う方向での、圧倒的な疎外感があったからだ。
そして挙動不審にならないよう必死についていくことさらに数分、俺たちはひとつの大きな扉の前に辿り着いた。
「お待たせ。
この先が、私の普段いる場所よ」
(この先だって?
こんな城の、それもここまでバカでかい扉の先にいるヤツなんて……なんかのラスボスか、もしくは───)
「……なあ、念のため一つ聞いてもいいか?
サフィーアって……」
「ふふ……さあ、入りましょう」
サフィーアは俺の言葉を遮り、笑みを浮かべる。
扉は思いのほか軽いらしく、彼女が片手で押すだけで音もなく開いた。
───次に俺たちを迎え入れたのは、吹き抜けのだだっ広い空間だった。
上にも奥にも長いホール、と言った方が良いだろうか。
人を集めれば、何か催し物でもできそうな広さだ。
その中央に鎮座する『玉座』を、どけることができれば。の話だが。
扉が開き切ると、兵士の中でも一際重厚な鎧を着た男がサフィーアに話しかけてきた。
「よくぞご無事で、我が王」
二人は歩みを止めず、会話を続ける。
「ご苦労様、ヴェルニグ。
騎士団長様は今日も大袈裟ね」
「本日は、ヤクーツ区とベスチア区の者が謁見に」
「急な要件?」
「いえ。
明日、お伝えいたしましょうか」
「そうして頂戴」
「は。
……して、あの怪しい男はいかがいたしましょう」
怪しい男というのは、どうやら俺のことらしい。
その証拠に、俺は入り口の兵士に槍を突き付けられたまま動けないでいた。
「彼は私の客人よ。
無礼な真似はおやめなさい」
「この妙な服装の男がですか?
まさか……」
「ヴェルニグ。
二度も言わせないでくれる?」
「……申し訳ありません」
ヴェルニグと呼ばれた男は、深々とサフィーアに頭を下げる。
「通せ!」
男の合図で、俺の首元にあった槍が降ろされた。
道が開けたことで、俺もやっと歩みを進めることができる。
未だ鋭い兵士らの視線を受けながらも、どうにか玉座の前───サフィーアの隣まで到着することができた。
「……お許しを、御仁」
ヴェルニグと呼ばれた男が、俺に向かって頭を下げる。
が。
俺は知っている。
これは『なんで自分が』と思いながら謝らされるときの表情だ。
「ごめんなさいね、トーヤ。
平気?」
「……え?
あ、ああ。俺は大丈夫なんだが……」
なんというか、言いたいことは色々あった。
色々あったはずなのだが……いわゆる、正常性バイアスというやつだろうか。
俺の口をついて出たのは極限まで頭の悪い一言だった。
「よしサフィーア、とりあえず飯にしようぜ」
「貴様ァ!!!」
「うお!」
「王に対し、なんたる無礼を……!!」
俺の言葉を聞いた途端、ヴェルニグはこちらの胸倉を勢いよく掴んだ。
「三度目」
が、サフィーアの一言でかろうじて平静を取り戻したようだった。
「くっ……」
「私が、そう呼ばせているの。
この意味がわかる?」
ヴェルニグは深呼吸をすると、ようやく手を放す。
「……承知、いたしました」
「愚直。
貴方の良い所だけれど、悪い所よ」
「……肝に銘じます、我が王」
「そうなさい。
……さて。じゃあ、トーヤ」
「おう」
「食事にしましょうか」
「……おう!」
ヤケクソとは、このことだった。
────
──
玉座の間からドアを二つくぐったところに、俺たちのいる部屋はあった。
大きな横長のテーブルが部屋の面積のほとんどを占める部屋で、全体的に落ち着いた雰囲気が感じられる。
静かだが品のある場所のようで、窓際に置かれている木製の調度品が特に目を引いた。
どうやらここは公の場というよりも、食事などで賓客をもてなすための空間なのだろう。
さきほどまでとは正反対な天井の低さも、どこか俺に安心感を与えてくれた。
そして俺はまたサフィーアと二人。白い布の掛けられたテーブルを挟んで座っていた。
「……えー。
サフィーア様と同じ食卓に座れるなど、我が身に余る光栄の極みでー……」
「もう、貴方までやめてちょうだい。
あれはヴェルニグが大袈裟なだけよ」
俺が心にもない言葉を吐くと、サフィーアは肩をすくめた。
「……でも、本当なんだろ?」
「ええ」
「はぁ……。
まさかこっちにきて初めて出会った人間が、一国の王様だなんてな。
運がいいんだか悪いんだか……」
「改めて、名乗りましょうか」
少し肩の力を抜くと、サフィーアは俺の目を真っすぐに見据える。
軽口を叩きあっていた時とは明らかに異なる、深い眼差し。
その眼は、俺という存在の奥底まで見透かしているようにも思えた。
「私の名前は、『サフィーア・ザモロツェヴナ・プラファドナーヤ』。
正真正銘、理外の国『クロキア』の王よ。
……隠していたわけではないのだけれど」
「ま……見ず知らずの人間に、国王だと名乗るメリットもない。か」
「そういうことよ。
何度も言うけれど、理解が早くて助かるわ」
「そりゃどーも」
「トーヤ。
貴方は本当に、賢い子ね」
「……別に」
王様という立場だ。
彼女はきっと、俺よりも年上なのだろう。
だが、少女然とした見た目の彼女に子供扱いされるのには、やはりどこか違和感があった。
「じゃあ……賢い貴方になら、わかるかしら。
私が貴方をここまで連れてきた理由が」
「え?
そりゃ、山賊みたいな連中から一緒に逃げ切ったから。その礼っつーか……」
「それもあるわ。
でもそれだけじゃ、玉座の奥にまでなんて連れてはこない。
ましてや、警備の子たちを下がらせてまでね」
「それは……」
そういえば、サフィーアはここに来る前に人払いをしていたように見えた。
鎧の連中にも、この部屋の中には入ってこないよう言っていた気がする。
「……私はね、トーヤ。
貴方のことを、気に入ってしまったの。
一人の人間として」
「……っつーと?」
「ここに……王城に来るまで。
貴方は私に対して、ただ一人の人間として接してくれたじゃない?
王として、ではなくて」
「そりゃまぁ、王様ってことを知らなかったからな……」
「もちろん、名乗らないのは申し訳ないと思っていたわ。
でも……貴方の前でなら。
私は自分が王だということを忘れて、サフィーアという一人の人間でいられたの。
私が軽口を叩けば、貴方も同じように返してくれて。
皮肉を言えば、鼻で笑い飛ばしてくれる。
……それが、その。とても心地よくて……」
そこまで言って、サフィーアは目を伏せる。
それは、今まで毅然としていた彼女が初めて見せる、物憂げな表情だった。
(……なるほど。
偉い人間特有の、孤独感ってやつなのかね)
「もちろん、それを言い訳にするつもりは無いのだけれど……」
「なるほどな。
ま、理解はしたつもりだよ。
その立場なりに、色々悩みがあるんだろうな。とは」
「トーヤ……。
ありがとう」
「いやまぁ、礼を言われることじゃ……」
「じゃあね、トーヤ。
その上で、お願いがあるのだけれど……」
「ん?」
「その……貴方には、私のことを『王』とは呼んで欲しくないの。
できることなら……今まで通り『サフィーア』と」
「……王様だってことをわかった上で、呼び捨てに。か?
これまた、さっきの騎士様に掴みかかられそうな提案だな」
「ヴェルニグには、私から注意しておくわ。
だから……貴方とはこれからも、身分なんて気にしない関係でいたい。
……ダメかしら?」
彼女の提案に、俺は少し考える。
王様を呼び捨てにするというのは、やはり抵抗があるのだが……それを拒否する理由が無いのも事実だ。
むしろ、国王である彼女との繋がりはこれからの生活においてプラスにしかならないだろう。
そしてなにより。
(……サフィーア様、か。
いまさらそう呼ぶのも、変な話だしな)
サフィーアが見せた不安げな表情は、本当にただひとりの人間としてのもので。
彼女のことをいまさら『王様』として扱い、距離を置くことなど、俺にはできそうもなかった。
「……ま、今から食わせてくれる飯が本当にうまかったら、そうするかな」
「トーヤ……!!」
俺の返答に、サフィーアの笑顔が咲いた。
今までのシニカルな彼女とは正反対の反応に、俺はつい目を背けてしまった。
「あー……うまかったら、だぞ。本当に」
「ええ、ええ。
極上のものを出すと約束するわ」
「その極上のものとやらが、果たして庶民である俺の口に合いますかね……」
俺が嫌味を言っても、サフィーアはご機嫌なままだった。
彼女は俺と同じ皮肉屋なのだろうが、他人に対する感謝はストレートに表現する人間だ。
そこは、育ちの良さというやつだろうか。
嬉しそうにこちらを見つめる彼女の視線に、俺は少し恥ずかしくなってしまった。
だが、彼女の素直な笑顔が見られるのなら、道化になるのも悪くないかもしれない。
そんなことを、少しだけ考えたのだった。
「で、飯はいつくるんだ?
王様ってことは、なんか召使いとかメイドとか……いっぱいいるんだろ?」
「ええ、そうね。
この王城には、そう呼ばれる子たちがたくさん働いているわ」
「ここに来るまで、呼んだ感じはしなかったが」
「大丈夫、私の『優秀なペット』がそろそろ来る頃よ」
「はあ」
サフィーアがそう言った数秒後、食堂の扉が勢いよく開いた。
「フィーニャ!!! 帰ってたんですね!!!」
「ええ、ただいま」
「おかえりなさいおかえりなさいおかえりなさーい!!!」
扉を突き破るかという勢いでサフィーアに抱き着いたのは、彼女よりも少し背の高い女の子だった。
「ご飯、できてますよ! 持ってきましょうか? それとも先に、お風呂に入りますか?」
その明るい茶髪の持ち主は、頭上にある大きな耳をピコピコと動かしながらサフィーアに頬ずりをしている。
「食事を用意してもらえる?
二人分。貴女も食べるなら三人分ね」
「はい、喜んで! 三人分で!!!
……三人分、で?」
そこで女の子は、ようやく俺の存在に気付いたらしい。
「…………」
彼女は目を閉じ、そっとサフィーアを抱きしめていた両手を引く。
背筋を伸ばし、ひとつ深呼吸。
それから優雅な仕草で足を引き、身体を俺の方へ向ける。
最後に両手をエプロンの前で重ねた後、こう言った。
「わたくし、国王専属給仕のミラーヤと申します。
ただいまからお食事をお持ちいたしますが、苦手なものなどはございますでしょうか?」
「いや手遅れだが?」
「ああああ!!!!
またやってしまいましたー!!!!!」
彼女は泣きながら、またもサフィーアに抱き着いた。
「許してください許してください気付かなかったんですー!!!
だからフィーニャ、一ヶ月おやつ抜きだけは……おやつ抜きだけはぁー!!!!」
「ふふ……こういう子よ。
可愛いでしょう?」
「はは……」
少女二人が抱き合っているのはなんともほほえましい光景だが……空腹も相まって、俺は苦笑いしか出せなかったのであった。
────
───
──
─
ミラーヤと名乗った女の子は、一通り泣くと落ち着いたようで。
改めて部屋を出ると、すぐに三人分の食事を持ってきてくれた。
「あれ?
フィーニャ、今日は席が違いますね。
いつもは必ずここに座ってたと思うんですが」
ミラーヤが食事を置こうとしたのは、俺とサフィーアのひとつ隣であるテーブルの端。
いわゆる、上座と呼ばれる場所だった。
「ええ、今日はこちらに座りたい気分なの」
「そうですか! わかりました!」
そう言うと、ミラーヤは慣れた手つきで配膳を始めた。
まずはサフィーアに。そして向かい合う俺に。
最後は、サフィーアの隣に自分の分を。
(……なるほど)
「じゃあ、いただきましょうか」
「はい! いただきま……」
そこまで言って、ミラーヤは硬直する。
「えーっと……。
わたくしは使用人でございますので、王とお客様がお食事を終えられた後に、いただきとうございますです……??」
どうやら、サフィーアからの指示と使用人としての癖が入りまじり混乱しているらしい。
「いいのよ、ミーチカ。
彼は私の友人よ」
「そうなんですか?
フィーニャの友人ということは、わたしの友人ですね!!
ではいただきます!!!」
コロコロと表情を変える、愉快な子だ。
「じゃ俺も。
いただきます」
「ええ、いただきましょう」
食卓に並んだのは、茶色いソースのかかった肉料理と新鮮なサラダ。
そして、とろみのあるスープ。
最後に、バゲット……というのだろうか。
細長いパンが、食卓の真ん中の籠に刺さっている。
祝い事の際に食べるコース料理……とまではいかないが、使われている食器やテーブルクロスから、そこそこに上等なものを出されたのだと伺える。
こういった場に慣れていないこともあり、俺は少し戸惑いを覚えた。
が、躊躇いなくすいすいと料理を口に運ぶミラーヤを見て、安心した。
なるほど、どうやら肩肘を張る必要はないらしい。
俺も彼女に倣い、スープから順に口をつけていくことにした。
「食べながらでいいわ、自己紹介を始めましょうか」
細長いパンは、見た目より柔らかかった。
俺はそれを一切れちぎりながら、サフィーアに目を向ける。
「まず、この子はミラーヤ。
私専属の調理師、とでも言っておこうかしら。
ここに並んでいる料理も、全部彼女の手作りよ」
「えへへ。
そんな立派な肩書ではありませんが……よろしくお願いします」
「私はミーチカと言っているけれど、そのままミラーヤと呼んであげて頂戴。
大きな耳が、愛らしいでしょう?」
そう言って、サフィーアはミラーヤの頭を撫でる。
彼女の頭には犬のような耳が生えており、ミラーヤはくすぐったそうにそれを動かしていた。
「だめですようフィーニャ、毛が料理に落ちてしまいます」
と言いつつ、ミラーヤはとても嬉しそうだ。
「で、こっちはトーヤ。
私の命の恩人よ」
「わあ、そうなんですか!」
「いや、俺の方こそ助けてもらったんだがな」
「ちなみに彼、異世界から来たそうよ」
「いせかい、ですか?」
「ええ、二ホンというところだったかしら?」
「にほん、ですか……。
たしかに、聞いたことがありませんね?」
「魔法が存在しない世界らしいの。
不思議よね」
「ふわー……そうなんですねぇ」
興味があるのか無いのか、はたまた理解が及ばないのか。
ミラーヤは二つ目のバゲットに手を伸ばしていた。
「えっと。
改めまして、ミラーヤです。
よろしくお願いしますね、トーヤさん!」
「よろしく、ミラーヤ」
「最後に、私がサフィーア。
トーヤの友人で、ミーチカのご主人様」
「で、この国の王様と」
俺が水を差すと、サフィーアは頬を膨らませた。
「あらトーヤ、この国の料理はお口に合わなくて?
もうすでに、食いしん坊のミーチカと同じぐらい食べているようだけれど」
「わかったわかった……撤回するよ、サフィーア。
料理はうまいよ。とんでもなくな」
「そう、ならよかったわ」
俺の言葉に、サフィーアはまたふわりと笑う。
「にしても、フィーニャが名前で呼ばれるなんて珍しいですね?
仲良しなのは、とっても良いことですけど……」
「ええ、ミーチカの料理のおかげでね」
「???」
当然だがミラーヤは意味がわかっていないようで、ふわふわの尻尾でクエスチョンマークを作っていた。
「なんか……今更だけど、本当に王様だとは思えないな」
「ふふ、そう?
折角だから、褒め言葉として受け取っておくわね」
「でもでも、執務に向かうフィーニャはとっても格好いいんですよ!
こう、王様―! って感じで。
いちどトーヤさんにも見ていただきたいです!」
「へぇ」
「ありがとうミーチカ。
でも、王様として振舞うのってとっても疲れるのよ」
「それでもわたしは、格好いいフィーニャが好きですよ。
もちろん、ふだんの可愛いフィーニャも大好きですけど!」
「あらあら。
私も貴女のことが大好きよ、ミーチカ」
目の前の二人の距離感は、どう見てもただの雇い主と下人のそれではなかった。
互いにしかわからない、特別な主従関係があるのだろう。
───と。そうしている間に、三人ともが食事を終えた。
「今日もごはんは美味しかったです……!」
ミラーヤは、自分で作ったであろう食事に大満足の様子だ。
「じゃあ、片付けますね。
またご用があればお呼びください」
「いいえ、ミーチカ。
貴女にも少し話があるから、お皿だけ引いたらまた戻ってきて頂戴」
「??
はい……わかりました」
ミラーヤはいまいち合点がいっていない様子だったが、サフィーアの言葉を承諾する。
そしてそのまま、音も立てずに食器類をまとめて部屋を出ていった。
「……どう?
彼女、良いでしょう?」
「ああ、料理の腕は確かだな。
さすがは王様が専属に選ぶだけはあると思うよ。
……少しそそっかしい気もするが」
「ふふ……そこがまた可愛くってね。
それに、あの子を専属に選んだ理由はそれだけじゃないのよ」
「っつーと?」
「見たでしょう、彼女の大きな耳」
「ああ……たしかに、それは気になってた。
本物だとしたら、俺の世界にはいなかったタイプだな」
「もちろん本物よ。
いわゆる『獣人』と呼ばれる子たちね。
こちらの世界でもさほど多くない種族だから、トーヤの感覚は一般的なものと近いと思うわ」
「そうなのか」
「ええ。
歴史的な話は省くけれど……簡単に言えば、彼女たちは身体がとても強いの。
身体能力という意味もあるのだけれど、特に免疫の面でね」
「……毒見役、か」
「察しがいいわね、その通りよ。
私が王である以上、どうしても一線を引く必要があることの一つ。
だからこの城には、彼女専用の厨房があるの。
私のためだけに食材を用意して、私のためだけに料理を作るための、ね」
「なるほどね、王様も大変だ」
「だからあの子は優秀なのよ。
味の変化には私以上に敏感だし、お料理も上手。
それに……彼女は特別なの。
雇った時には、周りに反対されたけれどね」
「獣人だから、ってことか?」
「そうとも言えるわね。
そもそもの話から始めると、あの子を私が拾ってきたところからになるのだけれど……その話は、長くなるからまた今度。
興味があれば、あの子に直接聞かせてもらいなさいな」
「考えとくよ。
それよりもまず、飯の礼を言わないとだ」
「ふふ、そうね。
きっとあの子も喜ぶわ」
そこまで話して、再び扉が開く音がした。
今度は、普通の大きさで。
「戻りました、フィーニャ。
温かい飲み物もお持ちしましたよ!」
「ありがとう」
「トーヤさんも、飲まれますか?」
「ぜひ、いただくよ」
「では、どうぞ」
「さんきゅ」
「はいっ。
……それで、フィーニャ。
お話ってなんですか?」
ミラーヤは肉球のマークが描かれたマグカップを自分の前に置き、席についた。
「これからのこと」
「これから……ですか?」
「ええ、トーヤのね」
突然水を向けられて、少し驚く。
が、俺も話す機会が欲しかったので好都合だった。
「さっき言った通り、彼はこの世界に来たばかりなの。
しばらくはこの城にいてもらおうと思うけれど……色々と考えないとね」
「身の立て方、だな」
そうだ。
こちらに来てからすでに色々なことが起きているので、忘れかけていたのだが。
そもそも俺は、こちらの世界にきてからまだ半日と経っていないのだ。
起きた時には服以外の持ち物は無くなっていたし、この世界の知識もない。
それでも俺は、この世界で生きていかなければならないのだろう。
今日はこの王城に案内されたからいいものの……いくらサフィーアが王様だからといって、いつまでも世話になるわけにはいかない。
かといって、今の俺にあるものといえば。
少しばかり強い身体と、覚えたばかりの魔法だけ。
その二つで、本当に俺は生きていけるのだろうか。
どこまで行っても、その不安は付きまとうものだった。
「そもそも、二人はどこで出会ったんです?」
「東の森よ。
例の祭壇ね」
「あ、龍脈のところですね」
「そう。
今日見に行ったときに、ちょうどトーヤが寝ていたのだけれど……それがたまたま、異世界から来たところだったらしいの」
「わぁ。
ほんとに偶然なんですね……」
「ええ。
それで話し込んでいるうちに、この子が魔法を使えることがわかって。
その後すぐに山賊のような子たちに襲われて、私はトーヤに助けてもらって、どうにかここまで帰ってこられた。
簡単にまとめると、そんな感じね」
「なるほど……。
たしかにトーヤさんなら、それくらいはできそうな気がします」
「……ミーチカ、やっぱり貴方にはわかるの?」
「ええ、もちろんです。
一目見たときに、少なくともクロキアの方ではないとわかりましたから」
「そうなのね……」
そう言って、サフィーアはまた顎に指をあてて考え始めた。
「なんだ?
やっぱ、俺はこの世界じゃ異質なのか」
「いいえ。
貴方の見た目も雰囲気も、この世界の人間とそう変わらないわ。
今話していたのは、この子だからわかること」
「ミラーヤだからわかること……?」
「はい。
トーヤさんからは、なにか特別なものを感じます。
マナの流れというか、色……でしょうか?
とにかく、ひとことでは言えない変わった空気があるんです。
……でも、ほんの少しだけ……フィーニャと似てるかも、です……?」
ミラーヤはさきほどまでとは違う真面目な表情で、俺の目をじっと見つめている。
「その感覚は私にもわからないけれど、これがこの子を重用している理由。
獣人特有の、マナとの特別な繋がりがあるのよ」
わかったような、わからんような。
「うーん……マナとか、魔法とか。
その辺も含めて色々質問させてもらってもいいか?
身の立て方もそうなんだが、なんにせよこの世界の情報が欲しい」
「そうね。
今のうちに、たくさん質問してちょうだい。
トーヤにとっては生きるための情報収集。
私たちにとっては、他の世界のことを聞ける貴重な機会にもなるわ」
出された紅茶を一口すすり、俺は小さいことから乱雑に質問をぶつけていく。
「んじゃ、ハナから不躾な質問なんだが……」
「構わないわ。
なんでも聞いてちょうだい」
「なんつーか、あれだ。
サフィーアから見て、俺はこの世界で生きていけそうだと思うか?」
「ええ、その点は心配いらないでしょうね。
平均以上の身体能力に、よく回る頭。
例えば、その頭の回転を嫌味を言うことに裂かなければ……学者なんかを目指してもいいんじゃないかしら?」
「へぇ……そうきたか。
ま、クロキアの人間が全員サフィーアみたいなヤツじゃなければ、それもできたのかもな。
考えておくとしよう」
俺はサフィーアの放った毒を正面から受け取り、そのまま投げ返す。
売り言葉に買い言葉とは、このことだ。
「あら、聞き捨てならないわね。
貴方がたびたび毒を吐くのは私のせい、と言いたいのかしら?」
「ははは、とんでもない。
サフィーア様のように頭の良いお方ばかりでないなら、俺でも学者が目指せるかも。
という意味しかありませんが」
「あらそう。それはお褒めに預かり光栄ね。
私も、異世界からやってきた人が貴方一人だけで安心したわ。
私だって、戦争はしたくないもの」
「なるほど。
氷の国の王様のクセに火種を撒くのが得意とは、皮肉が効いてるな。
もしかして笑うところか?」
「お、お二人とも!
食後の甘いものでもご用意しましょうか!?」
静かな舌戦を見かねたミラーヤが、気を遣い始めた。
「ほーら。
あんま部下を困らせるなよ、国王様?」
「貴方も頭を冷やしたほうが良いのではなくて?
幸い、この国の王様は氷の魔法が得意なの。
人ひとりを氷漬けにするぐらいなら、10秒もかからないぐらいにね」
「あわ、あわわわ……。
フィーニャと口喧嘩ができる人、初めてみました……」
ミラーヤが半泣きになり始めてしまったので、そろそろおふざけはやめにするべきだろうか。
そう思ったところで、サフィーアと目が合う。
どうやら、同じ意見らしい。
「……この紅茶、美味しいわね」
サフィーアはカップに口をつけ、わざとらしく放つ。
「ああ、飯も絶品だったしな。
ミラーヤの作るものを毎日食べられる人が羨ましいよ」
「そそそ、そうですか!
それはよかったです!? よかったですねフィーニャ!?」
「ちなみにそれは本当よ、トーヤ。
この子の料理を食べられるのは、私とこの子自身の他に、そう多くないもの」
「そうか、そりゃ僥倖ってヤツだな」
「……まだしばらくはご馳走してあげるから、安心なさい」
「そうかい。
恩に着るよ」
それは、額面通りの言葉ではなく。
俺が身を立てるまでは面倒を見てくれる、という意味だろう。
「ま……なんにせよ、最初に見つけてくれたのがサフィーアで良かったよ。本当に」
「なあに、今さら?」
「別に。
他意はないよ」
「……そう。
それで、他の質問は?」
サフィーアはそう言いながら、膝の上でミラーヤの尻尾を撫でていた。
「ん-……そうだな。
とりあえずこの世界の常識とかあれば、教えてほしいってのはあるんだが……」
「たしかに。
この世界の人間になるなら、この世界の『当たり前』を覚えてもらわないとね」
「ああ。
だが、常識は常識と思ってるから常識なんだろ?
言葉にすると変な感じがするが……とにかく、一口に教えてもらうと言っても手間がかかりそうなんだよな」
「基本的な感覚は大きく外れてはいないようだけれど……どのあたりの認識が違うのか、しらみつぶしに言っていかないとわからないわね。
例えば今、トーヤが違和感を抱いているところや、特に気になっていることはある?」
「魔法と、国の話についてだな」
ミラーヤの顔には『わたしにはお二人が何の話をしているのかわかりません』と書いていた。
「じゃあ、まず国のお話からしましょうか」
そう言うと、サフィーアはゆっくりと話し始めた。
彼女の口から紡がれた言葉は易しく、まるで温かい紅茶に落とした砂糖のように俺の頭に馴染んでいく。
モノを知らない人間に対し、どんな情報を与えれば理解に及ぶのか。
相手の目線でそれを考えながら話すのは難しいと言われるが、サフィーアは苦も無くそれをこなした。
そして、話すこと数十分。
サフィーアの説明をまとめると、こうだ。
まず、ここは『フォルジア』と呼ばれる大陸。
その中でも、ここ『理外の国 クロキア』は北と西を山岳地帯に囲まれた場所にあり、フォルジア大陸の最も南西部に位置する。
他の国と比べて土地は小さいらしく、地方ごとの分割政治をせずとも、国王一人で統治できる程度だそうだ。
そしてサフィーアと出会ったときに説明された通り、クロキアの民は『氷雪の民』と呼ばれることもある。
理由は無論、国民のほぼ全員が氷の魔法を使えるから。
そしてクロキアの近くには、代表して2つの国があるらしい。
まず東に『炎熱の国 フレイミア』。
そこは、炎の魔法を使う『炎熱の民』と呼ばれる者たちが住む土地。
そして南東には『水沫の国 ペルエット』。
こちらは、水の魔法を操る『水沫の民』が治めているそうだ。
少し離れたところに春風の国『フローレスト』や、大規模な森を挟んだ北西には、雷鳴の国『ドネルト』というのもあるらしい。
が……今言った四つの国を含めて、互いの交流はほぼ無いに等しいらしかった。
国家間の交流があまりない、という部分が気になって深堀りしてみたが、そこで妙なことがわかった。
この大陸の国々は、対立しているわけでもないが特別交流もないようで。
そして、それが当たり前。古くから続く、当然の風習のようなものらしいのだ。
普通であれば、国境を挟んで隣にある国同士なら何かしらの交流があるはずと思えるのだが……ことこの世界においては、そうではなかった。
理由はひとつ。
それは、各国の民の体質の問題。
そしてそこには、魔法の話も密接に絡んでいた。
例えばクロキアは、氷雪魔法を使える民族だ。
それゆえか、他国の人間より体温が低く、体力や筋力もやや弱いらしい。
その代わり歳を取るのが遅く、平均寿命は150歳前後だとか。
生物学的に言えば、『代謝が低い』というやつなのだろうか。
サフィーアの体力の低さや小柄な体躯、容姿以上の老獪さ。
それらが血筋によるものなのだと言われれば、納得がいく。
そして問題なのは、この世界の住民は祖国を離れれば離れるほどに、それらの特徴が薄くなるということだ。
端的に言うなら、クロキアの民なら『この国を出ると寿命が縮む』。
つまり国を離れることで、平均的なこの世界の人間と同等のフィジカルを得るが、寿命も平均通りとなるということだ。
極めつけに、国を長く離れれば徐々に魔法を使う力が弱まるとの話で。
そのまま何年も祖国に戻らなければ、最終的に魔法が使えなくなるらしい。
魔法が、使えなくなる。
その事実を聞けば、国交が薄いことにも納得できた。
個人レベルで言えば、わざわざ寿命を縮めてまで他国へ行こうと思わない。
そして国家単位で考えた時には、国防の面で有利になるのだろう。
皆が魔法を使うことができれば、有事の際には国民全員が兵士になり得るようなものなのだから。
交流が薄いと聞いた時は、なんとも閉鎖的な世界だとも思ったが……なるほど、これは思ったより根の深い問題のようだった。
「大変だな、そりゃ……」
「そして、トーヤ。
それは貴方も例に漏れないんじゃないかしら。
この国を出るのは自由だけれど、他国に行くとどんなことが起こるかわからないと考えておいた方がいいわ」
「俺は、この世界にとっちゃ異端な存在だろうからな……。
良い方か悪い方か。どっちに転ぶかもわからんと」
「ええ。
それに国を超えて旅をするなんて、こちらの世界ではよほどの好事家がすることよ。
貴方の世界で、それが一般的だったのかは知らないけれど」
「国を超えての旅、ね。
まぁ、行こうと思えば世界中どこでも行けるような世界ではあったんだが……。
たしかに生まれた国を、故郷を離れるのに大きな理由がいるってのは同じかもな」
「そう。
なら、こっちでも同じじゃなあい?
繰り返すけれど……クロキアは、貴方を歓迎するわ」
その言葉を聞くのは二度目だが、彼女が国王だとわかった今では意味合いが変わってくる。
「ふーむ……」
ここまででサフィーアから教えてもらったことは、俺の中の様々な感情を湧き起こした。
単純な好奇心もあるが……何よりもやはり、不安の方が大きい。
心配しすぎなのかもしれないが、やはりここは異世界なのだということを改めて実感できたからだ。
だが、何もわからないままよりはマシだったというのも事実だろう。
「他には?」
「ん、ああ。
じゃあ……そういえば今日、なんで俺たちは襲われたんだ?
ていうか、あの連中は誰なんだ?」
「私たちを追いかけてきた子たちの話ね。
彼らはきっと、山賊の類よ。どの国にも所属しない、はぐれ者」
「はぐれ者?」
「ええ。
安全な国内や街道を外れれば、今日みたいに危険な目に遭うこともあるわ。
彼らのような人間だけじゃなくて、凶暴な野生動物、時には魔獣に襲われることもあるわね」
「物騒だな……」
「そう?
それで、私たちが狙われた理由はいくつかあるけれど……大きいのは二つね。
一つは貴方がかなりの量のマナを使ったから。
覚えていて? トーヤが最初に魔法を使った後、風が吹いたでしょう?」
「そういえば」
「魔法の素養がなくとも、マナの奔流は誰にでも察知できるもの。
それが彼らをおびき寄せてしまったのでしょうね」
「なるほど……」
「二つ目の理由は、私やトーヤの背格好を見て『狙える』と思ったから。かしら。
少なくともお金になりそうなローブを着た女と、変わった格好の男。彼らにとっては、それで十分だったんじゃない?」
「ふむ……。
ついでに聞くが、サフィーアはなんでそんな危険な場所にいたんだ?
一国の王様が、護衛もつけずに」
「それは……。
そう、ね。当然の疑問よね」
そう言うと、サフィーアは困ったように笑った。
「トーヤには申し訳ないのだけれど……それはまだ秘密にさせてもらえないかしら?
簡単に言えば、あの祭壇のせいなのだけれど……」
「はあ、祭壇が」
「ええ。
でもこれは、トーヤにもきっと関係のあることだから。
話せる時になったら、きちんと話すことを約束しましょう。
だからそれまでは、ね?」
「わかった、詮索はしないでおくよ。
……そもそも賊を呼んじまったのは、俺のせいらしいしな」
「私もそこまでは言わないけれど……。
それじゃあ、おあいこってことにしておこうかしら」
「ういよ」
「ありがとう、トーヤ。
じゃあ……質問はこれでおしまいかしら?」
「そうだな……うーむ」
今日の逃走劇の理由は、だいたいわかった。
そして、この世界の実情も。
だが、それで終わりというわけではない。
俺のこれからも、生きる目的も。それらは未だ、判然としないままだ。
(生きる目的、か……)
「ふわぁ……フィーニャ。
わたし、眠くなってきました」
考え込んでいるうちに、ミラーヤが大きなあくびをする。
「そうね、もうこんな時間だわ。
今日はここでおしまいにしましょうか。
続きはまた明日ね」
「ああ」
たしかに、考えるのは明日でもできるか。
「じゃあトーヤ、貴方の使う寝室を案内するわ」
サフィーアは席を立ち、来た時とは別のドアを開けた。
ミラーヤがそれについていったので、俺も追従する。
「寝室……そうか、ベッドがあるのか」
「当たり前でしょう。
それとも、貴方の世界にはベッドが無かったのかしら?」
「いや……逆だ。
俺は、寝具には少しばかりうるさくてな」
「あらそう。
なら、貴方の好みに叶えば良いのだけれど……」
人間は、人生のおよそ三割以上を布団の上で過ごすという。
つまり寝具というのは、人生で最も触れている時間が長くなる相手と言っていい。
なので、良い寝具は良い睡眠に。良い睡眠は良い人生に直結すると言っても過言ではないのだ。
(そして、ここは王城。
国で一番の施設には、当然国で一番の家具が用意されているに違いない、よな)
さきほどまでの不安はどこへやら。
浮ついた気持ちが、徐々に俺の心を支配しかけていた。
「うむ、こっちでの生活がちょっと楽しみになってきたかもしれん」
「ふふ。
……貴方って、本当に変な子ね」
「ん……そうか?」
「ええ。
だって……貴方のそんな嬉しそうな顔、初めて見るんだもの。
しかもそれが、寝る直前だなんてね」
「……そう、か」
俺は今日一日、そんなに難しい顔をしていたのだろうか。
「わからなくもないわ。
トーヤにとっても私にとっても、今日は色々なことが起こりすぎたものね。
でも、安心なさい。
貴方に使ってもらうのは、この城でも極上の部屋よ」
「……ああ、ありがとう」
元々俺は皮肉屋で、底抜けに明るいタイプというわけではない。
純粋な笑顔を浮かべることは、他人に比べて少ないだろう。
しかし、サフィーアたちから見て俺はどういう人間に見えているのだろうか?
そして。
「はい、この部屋よ。
鍵はこれ。クイーンのマークだから、忘れないようにね」
果たして俺は、『元の世界に帰りたい』と思っているのだろうか?
「じゃあ、おやすみなさい」
「ああ……おやすみ」
自分自身の気持ちに向き合えないでいた俺を、ベッドは優しく眠りへと誘った。
その柔らかな感触を、俺は覚えていない。
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