第2話「氷と、少女」
───ああ。
やはり俺は、一度死んでいる。
それは、疑いようのない事実だ。
……少なくとも、俺の記憶に従う限りでは。
胡蝶の夢? 地球5分前説? 水槽の中の脳?
そんな言葉が俺の頭をよぎったが、下らない連想ゲームは目の前の状況を解決するための情報にはなり得なかった。
(とにかく……ここはどこなんだ)
あの世でもなければ、俺が死んだ場所でもない。
しかし、俺はたしかに生きている。
であれば、ここでじっとしているわけにもいかない。
兎にも角にも、現状の把握が第一だろう。
何気なく後ろ───俺がさきほどまで眠っていた場所を見ると、何かの石碑や石柱のようなものが並んでいた。
どうやら俺は、その石柱の一つにもたれかかって寝ていたらしい。
そいつは、俺の身長の倍ほどはあるだろうか。
どうやら山道の両端にも、それと同じような柱が屹立しているようだった。
(……人の手が入った、モノ?)
少なくとも何かしらの意味をもって作られたであろう、人工物。
俺にほんの少しの安心感を与えたそれらが並ぶ先には、さらに巨大な建造物が存在していた。
(祭壇……って、ヤツか?)
立ち並ぶ石柱に囲まれて鎮座していたのは、階段付きの祭壇らしき何か。
総じて、小規模な遺跡。とでも形容すべき場所だろうか。
とにかく、木々に包まれ鬱蒼とした山の中において、この空間だけがぽっかりと開き陽光を浴びていたのだった。
(……はぁ)
正直言って、あまりに突然の出来事に頭の整理が追いつかないというのが本音だった。
たぶん、寝起きだというのもあるのだろう。
しかし幸い、身体のどこにも痛みはない。
ひとまず俺は思考が回り始めるまで、しばらくの間その祭壇を眺めていたのだった。
───すると突然、その景色に変化があった。
こつ、こつ、と足音を立て。
ひとりの人間が祭壇を降りてきたのだ。
最初に感じたのは、安堵。
ああ、よかった。
少なくともここは、危惧していたような地獄ではないらしい。
「お目覚めかしら?」
初めて聞く、女性の声。
透き通る音の持ち主はそれだけ言って、一歩ずつゆっくりと階段を下る。
そのたびに、上品な装飾がなされたローブと艶めいた長い銀髪が揺れ、俺の目を奪った。
「ごきげんよう、ミスター。
お加減はいかが?」
そして俺と同じ高さに降り立ったとき、銀髪の女性はふわりと笑って言った。
「……あ、ああ」
正直、見惚れていたのもある。
しかし、突然だ。
明らかに外国人と思われる女性が、話しかけてきたのだから。
しかも、俺のわかる言語で。
その事実を脳が理解できず、返答が遅れたのだろう。
彼女は俺の生返事を訝しんだのか、やや眉をひそめた。
「あら……貴方、言葉はわかる?」
「あ、ああ……すまん。
わかる、大丈夫だ。大丈夫」
自分に言い聞かせるように、なんとか喉を震わせる。
しかし、会話というのは脳を強く覚醒させる効果があるようで。
ひとつ声を出すと、ようやく思考が追いついてきた。
「ふぅん……まだ寝ぼけているのかしら?」
「あー……多分。そうかも」
「そう。
じゃあ……怪しいお方。
よければお名前を教えてくださる?」
「え、っと……烏兎だ。
烏兎、凍矢」
「トリド、トーヤ……?
聞かない響きね」
俺より二回りほど背丈の低い女性は、顎に指をあてながら少し怪訝な顔をした。
「……ファーストネームは?」
「凍矢の方だ」
「そう、ならトーヤと呼んで構わないかしら?」
「……『怪しいお方』から遠ざかるなら、なんでも」
とっさに口をついた、意趣返し。
それを彼女が理解するまで、二秒ほど。
彼女は少し目を丸くした後、心底愉快そうに破顔した。
「ふふ。
そう……そうよね、ごめんなさい。
じゃあ、トーヤ。
トーヤはどうして、こんなところで寝ていたの?」
「どうしても何も……俺が訊きたいぐらいだよ。
目が覚めたら知らない場所で、気付けば君が目の前にいた。
……突然すぎて、何がなんやらだ」
「あらあら、迷子?
それとも誘拐かしら」
「少し違う気もするが……まあ、多分そんな感じなんだろうな」
「ふぅん……そう」
俺の曖昧な答えに、彼女は少し考え込んだ。
「不思議。
でも、嘘は言っていないようね」
「……へぇ。
怪しんでるわりには、やけに素直に信じるんだな?」
「ええ。
だって、この山の中よ?
とても野営なんてできそうにない、貴方の服装。
土ひとつ付いていない、変わった形の靴。
どう見ても、自分の足でここに来たとは思えないわ。
貴方の言う通り、何か妙な事情があるのでしょうね」
「……なるほど、たしかに」
彼女の言葉は、的確だ。
それも助けになり、徐々に思考が整理できてきた。
これは夢などではなく、本当に俺は生きているのか。
そうだとしたら、ここはどこで、そもそも今はいつなのか。
出てくるのは、疑問ばかり。
「少し、貴方に興味が湧いたわ。
私でよければ、助けになりましょうか? 大きな迷子さん」
そんな中の、提案。
当然、こちらに断る理由はなかった。
「ああ。
お言葉に甘えて、助かることにするよ」
それでも警戒は解かない彼女に一声かけ、地面に座りなおす。
すると、彼女も後ろの階段に腰かけた。
その大きめのローブのせいか、いざ座ると彼女自身の小柄さが際立った。
背丈で言えば、同い年にも見えるし、小中学生ぐらいにも見える。
少なくとも、見た目には少女と呼んで差し支えないだろう。
もっとも世の中には、学生のように見えてとっくに成人を迎えている……という女性も、少なくはない。その外見だけで判断はできないものだ。
なにより彼女の所作や服装からは、単純な容姿以上の落ち着いた雰囲気を感じる。
「んで……ここ、どこだ?」
「クロキアの、東の森よ」
「黒木亜? どこだそれ。
町か? 何県だ」
「町じゃなくて、国よ。
氷雪の民が住まう、理外の国『クロキア』。
耳にしたことは無くて?」
「サッパリだ、日本じゃないのか?」
「二ホン……?
私は二ホンという地名こそ、聞いたことがないのだけれど」
「おいおい……冗談だろ?」
「冗談ではないわ。
貴方こそクロキアを知らないなんて、おかしいことを言うのね?」
おかしいのはそちらだ……と言いたいのだが、俺は一応クロキアという地名について調べてみることにした。
(スマホ……が、無い)
彼の定位置である右ポケットを探しても、硬い感触は帰ってこなかった。
(自転車から落ちた時に、落としたのか……?)
落胆しかけたところで、思い出す。
「……そうだ、アンタ。
今、いつだ?
西暦何年の、何月何日だ」
そもそも俺は、どれぐらいの間眠っていたのだろうかという疑問。
もし国を跨ぐような規模の誘拐をされていたのであれば、相当の時間が経っているはずだ。
だが、彼女から返ってきたのはまたも理解のできない言葉だった。
「……フォルジア歴1427年。
5月の14日よ」
「……は?
何年だって?」
「1427年。
……まさか、1年以上も眠っていたなんて言わないでしょうね?」
「違う、そこじゃない。
フォルジア歴、ってのは……一体何なんだよ。
もしかしてアンタの国の暦か?
だとしたら、西暦に直してくれると助かるんだが」
「……貴方の国では、西暦という暦を使っていたということ?」
「俺の国も何も、全世界共通の……」
言いかけたところで、彼女が首を横に振った。
日本に続いて、西暦も知らないということらしい。
「どういうことだよ……」
「まるで話が噛み合わないわね……。
お互い嘘を言っていないように思えるのだけれど」
彼女の言う通りだ。
言葉は通じているのに、話が噛み合わないこの感じ。
(……明らかに、不自然だ)
俺も地理に自信があるわけじゃないが、クロキアという国名は一度も聞いたことがない。
ましてや、日本語が通じる国でなんて。
(日本語が、通じる……?
待てよ。
この状況、どっかで見た気が……)
ここに来て。
俺の中で、とある可能性が浮上する。
ひとつ、俺には死ぬ間際の記憶があって。
ふたつ、死んだと思えば、知らない場所で目が覚めて。
みっつ。今目の前には銀髪の美女がいて、不自然に日本語が通じる。
「それで、トーヤはどこから来たの?
そのニホンという所から?」
つまり。
俺の頭がおかしくなったんでなければ、ここは。
「───異世界だ」
「異、世界?」
少女は、豆鉄砲を喰った鳩のような顔で俺の言葉を繰り返す。
「性質の悪いドッキリか、夢じゃないなら……かな」
いわゆる転生。いや、この場合は転移と言うんだったか。
どちらでもいいが……最近、そんなファンタジー作品を耳にした覚えがある。
何はともあれ、その類の現象が起こったのだろう。
他でもない、俺に。
我ながら認めがたい、非論理的な推測なのだが……今この状況はあまりにもそれに酷似していた。
俺は自らの考えを整理するように、少しずつ言葉を作っていく。
「俺は、異世界に来た。
原因はわからないが……そうなんだろう。きっと」
「つまり……貴方は異世界人、ということ?」
「ああ……そうなっちまう、な。
アンタにとってはいきなりで、驚くかもしれないが……。
そもそも俺は、俺のいた世界で一度死んだはずなんだ。
腹に木が突き刺さって、体中の血という血が抜けちまった感覚を覚えてる」
思い出しただけで、少し寒気がする。
死ぬ間際のあの冷たさは、あまり記憶から引き出したくない感覚だ。
「俺は死んだ。それが、最後の記憶なのは間違いない。
そんで、次に目が覚めたら……ここにいたってワケだ。
ここが現実かどうかはわからんが、少なくとも俺の知ってる世界じゃないことは確かだ。
仮に死後の世界だとしても……まぁ、異世界には変わらないか」
「世界を渡った、と言いたいの……?」
「この世界に日本が無いのなら、そうなるな」
もちろん、まだ夢の中だという可能性はある。
しかし夢にしては、あまりにも感覚が明瞭すぎるのだ。
むしろ五感に関しては、以前よりも鋭くなっている気すらした。
「……荒唐無稽。信じられない」
「正直、俺もだ」
彼女は俺の言葉を一蹴した。
が、信じられないのは俺も同じだった。
「でも……貴方が嘘を言っているようにも見えない。
妙な服装や、話しているときの貴方の表情もそうだけれど。
なにより、何かの理由で私を騙したいだけなら、もっとマシな嘘をつくはずだもの」
「そうかも、な。
それに異世界からの転移だなんて、なんかの魔法でも使わないとありえん話だ。信じられんと思う。
ただ、それ以外に説明がつかないのも事実なんだ。
少なくとも、俺には思いつかない」
「転移の、魔法……?」
彼女は、俺の放った言葉にどこか引っかかるようだった。
「そういえば、だけれど。
どこかの国には、遠い場所へ一瞬にして行き来ができる『影渡りの法』があると聞くわ。
貴方はその魔法や、何らかの術で記憶をかき回されてここにたどり着いた。
……そう言った方が、私はまだ納得ができるわね」
「おいおい、そんな話を信じるのか?
魔法が存在するなんて、それこそアンタが言った『荒唐無稽』ってやつだろう」
そう言うと、彼女は眉をひそめて一言。
「貴方……魔法を知らないの?」
「……は?」
彼女の答えに、俺の思考が停止する。
「呆れた。
もしそれが演技なら、見事なものよ。
まさか魔法を知らないだなんて」
「いやいや、知らない……っていうか。
本当にあるのか、魔法ってやつが?」
「ええ、勿論。
……貴方、本当に異世界人なのかも知れないわね?」
彼女の口調から察するに、本当に魔法は存在するらしい。
おまけに『知らないのであればこの世界の人間ではない』と思わせるほど、この世界にとっては普遍的なもののようで。
だとしたら、ここは本当に異世界だ。
魔法とやらが、当たり前に存在する世界。
ここに来て、俺は不安よりも好奇心が上回った。
『魔法が存在する』
その事実に、心を躍らせない者などいないだろう。
───しかしその軽薄な期待は、すぐに裏切られることになる。
「もしかしてアンタも使えるのか、魔法が」
「ええ」
「……見せてくれ、まだ信じられん。
少なくとも俺の世界に、魔法なんてモノは存在しなかった」
彼女は俺の提案に、少し間を置いて答えた。
「そう……そうね、お見せしましょうか。
それで貴方がただの迷子なのか、本当に異世界の人なのかがわかるもの」
そう言って、彼女はどこか納得したように立ち上がる。
そして、たおやかにローブの汚れを払った。
それから息をひとつ吐き、分厚い布の下からゆっくりと手を取り出す。
彼女の真っ白な手のひらが、空を向いた。
……本当に、魔法とやらが見られるのだろうか?
俺はその光景を、固唾を飲んで見守るしかなかった。
「……ん」
目を閉じて、数秒。
彼女が呟いたその瞬間。
すぅ、と。
きまぐれな風が吹いた気がした。
……いや、木々もローブも、揺れてはいない。
しかし、何かが彼女に集まるような。
ほんの一瞬だけだが、まるで世界が彼女を中心として認めたような感覚。
そして。
気付いた時には、彼女の手のひらの上に拳大の氷塊が出来ていた。
「……おい、嘘だろ……」
冷や汗が、額を伝う。
それは手品でもマジックでもなんでもない、本当の魔法だった。
彼女は確かに今、『無から氷塊を生成した』のだ。
───初めに感じたのは、畏怖。
その魔法は、俺が想像していたようなポップなものとはまるで違っていて。
人知を超えた、あまりに異質で、不自然な力。
それが、率直な感想だった。
自然が、世界が、物理法則が。
それらが突然牙を剥いて、容赦のない結果だけを目の前に残す。
本当の魔法とは、そういうものだった。
そして、なによりも。
人ひとりがそれを簡単に行使できるという事実が、俺にはどこまでも恐ろしく感じられた。
「ふふ。
納得できない。って顔ね」
俺はきっと、ひどい顔をしていたのだろう。
彼女は手を口に添えてささやかに笑う。
「ああ……その通りだよ」
「面白いわ、貴方」
「そりゃ、どーも……」
すると彼女はおもむろに革の水筒を取り出し、蓋を開けた。
そして開いた水筒をそのままひっくり返し、魔法で作った氷塊に水を浴びせる。
よく見ると、氷塊は器のような形状になっていた。
どうやら彼女は、茶碗ほどの大きさのそれに水を注いだようだ。
「……何、してんだ?」
「はい、これ。
持って頂戴」
促されるがままに立ち上がり、氷の器を受け取る。
(……冷てぇ)
その器は冷たく、ずしりと重い。
氷の塊なのだから、当たり前だ。
当たり前、なのだが。
この世界に来て初めて感じる、その『重さ』が。
ここが俺にとっての新しい現実だということを、ようやく俺に理解させた。
そして、『自分はこれから、この世界で生きていかねばならないのだ』ということも。
「じゃあ……ふたつ」
そんな俺の迷いなどお構いなしに、少女は指を2本立てて続ける。
「まず一つは、今から貴方にしてほしいのは『魔法を行使する』ということ。
そして二つ目は、これで貴方の出自がわかる、ということよ」
「……魔法を、行使する?
俺が?」
「ええ。
魔法にはいくつか種類があって、血筋や生まれた国によって発現する魔法は異なるの。
例えば、私の国『クロキア』の人間ならほぼ間違いなく氷の魔法が発現するわ。
さっきの私みたいな、ね。
だから私たちは、『氷雪の民』と呼ばれる。
他にも生まれによっては、火を熾す魔法や、風を生み出す魔法が使える子もいるわ。
想像はついて?」
「まぁ、ざっくりとは。
……つまり、今から俺がこの氷の器に対して魔法を行使してみて。
それで何が起こるかによって、俺が誰だかを見極めようってことか?」
「ええ。
理解が早くて助かるわ。
器の中の水が凍れば、氷雪系の魔法。氷自体が融けてしまったら、炎熱系の魔法。
わかりやすいでしょう?」
「話はわかった。
だが、俺は魔法なんて使えないぞ」
「いいえ、大丈夫。
貴方の身体からは、しっかりとマナの流れを感じるもの。
その状態で、使えないわけがないわ」
「……いや、そんなこと言われてもだな……」
「貴方はきっと、忘れているだけよ。
貴方の記憶を改竄した誰かの手によって、『自分は魔法も知らない誰かなんだ』と思わされているだけ。
だって、この世界に魔法の使えない人間なんていないんだもの。
一度使ったことがあれば、あとは身体が覚えているものよ」
魔法の使えない人間は、いない?
彼女の言葉は、落ち着かない俺の心に重くのしかかった。
例えば、俺がいま彼女の前で魔法を使ってみようとして。
本当に使えないことがわかったら、どうなる?
ひとまず、俺が異世界人だということは信じてもらえるだろう。
だが俺はこれから、誰もが彼女のように魔法を使える世界で、俺だけが凡人として生きていくのか?
……これは、死んだ俺への罰か何かか?
焦りや恐れといった感情は、俺の思考を悪い方へと追い立てた。
氷塊は今も俺の手に重くのしかかり、指先から熱を奪っていく。
震える手は、すぐにでもそれを落としてしまいそうだった。
「とにかく一度、やってみましょう?
それで全部わかるはずよ」
しかし彼女の言う通り、このままじっとしているわけにはいかないのも事実だった。
(やるしか、ないのか……)
どうやら、覚悟を決めるしかないらしい。
(……ああ。
どうせ、一度死んだ身だ。
どうとでもなれ。ってやつだ)
そんな後ろ向きな考えも、覚悟の助けになったらしい。
「……わかった。
で、その魔法とやらはどうやって使うんだ?
そろそろ、手の感覚が無くなっちまいそうだ」
「ごめんなさいね。
じゃあまず……さっき私の魔法を見て、何か気付くことはあった?」
「さっきの魔法を?
まぁ……ただの手品じゃねぇな、とは。
あとはなんかこう、何かが流れてる感じはしたな。
手のひらに向けて、風というか……いや、正確には風じゃなかったんだが……」
「へぇ、驚いたわ。
わからないという割に、かなり的確な言葉を使うのね?」
「当たり、ってことか?」
「ええ。
マナの流れを掴むのは、本来は幼いころから少しずつ養っていく感覚よ。
少なくとも、何も知らずにいきなりできることじゃないわ。
やっぱり貴方、記憶を失う前は普通に魔法を行使していたんじゃないかしら?」
「……そんなわけ」
やはり彼女の中では、俺は記憶を失った異邦人だという説が有力らしい。
「いいわ、自分の魔法がきっかけで記憶が戻るかもしれないもの。
とにかくやってみましょうか」
「……ああ」
俺が手の中の氷塊に視線を向けると、彼女は続ける。
「氷と水の中に、マナが流れているのがわかるかしら?
さっき貴方が言った、風のようなものね」
「流れ……?」
氷に意識を集中させると、確かに風のような何かを感じた。
(……なんだ、これ?)
それが何かはわからない。
だが、確かに感じるのだ。
五感以外の、何かで。
それはまるで、氷の中に糸が張り巡らされているような。
前の世界では決して感じることのなかったそれが、氷塊の内側から伝わってくる。
「……これのことか……?」
「どうやら掴めたみたいね。
マナの流れが掴めたのなら、あとは簡単よ。
それと同じ流れを自分の中から集めて、氷へ向かって吐き出す感覚」
「……もう少し、具体的に頼む」
「想像して。
マナは血液、貴方はそれを世界に送り出す心臓。
世界の呼吸が聞こえたら、マナは貴方を介して魔法になるの。
貴方はただ、手の中の器に意識を集中すればいい」
(……血液……?)
「五感がうるさいなら、目を閉じて」
言われた通り目を閉じ、手のひらに意識を集中させる。
きっと、考えて理解できることではないのだろう。
だから今はただ、手繰り寄せるんだ。
この、不思議な感覚を。
─
──
───ドクン。
(……心臓の鼓動が、邪魔だ)
───ドクン、ドクン。
自我を消し、集中しようと思うほどに、その鼓動はノイズとなる。
───ドクン、ドクン、ドクン。
(なんなんだ、人が集中しようとしているときに限ってこいつは……)
心臓というやつは、こんなに煩かっただろうか?
───ドクン。
(……いや、違う?
これは……)
一定のリズムで鳴り続ける、鼓動。
それを邪魔だと思うのではなく、その流れにこそ意識を移してみることにした。
心臓、鼓動、血液。
糸?
(───そうか!)
その瞬間、氷塊と俺がつながった。
(そうだ。
これは、糸じゃなくて……!)
さっきまで糸だと思っていたものの正体が、ハッキリと掴めた。
それは、血管のようなもので。
氷の中にある心臓と確かにつながっている。
本来ならば、無機物にあるはずのない心臓に。
そして、その中を流れているのは血ではない。
『マナ』だ。
その感覚さえ掴めば、あとは身体が理解した。
氷の中を満たす、確かな流れ。
俺の身体を満たす、確かな力。
彼女がマナと呼んだそれを。
今、手の中に集め───
(出てこいっ!!)
空気が、炸裂した。
割れるような音とともに、俺の中から何かが放たれ。
マナの奔流が、暴風となり吹き荒んだ。
少しして、木々のざわめきも止んだ後。
俺の手の中に、さきほどまで存在した水はなくなっていた。
「風魔法。
……じゃ、ないな」
手の上の器に、目を移す。
その中に入っていた水は完全に凍結し、氷の器と一体化していた。
「見事に凍ってんな……。
ってことは、氷魔法か?」
「……驚いたわ。
貴方、クロキアの人間だったの……?」
クロキア。
彼女の出身である、氷の国だったか。
「いや、違うと思うんだが……まぁいいか」
そんなことより今は、『自分も魔法が使えた』という事実に安堵した。
「……そうよね、私もクロキアの人間ならほとんど顔を覚えているもの。
だけど貴方の魔法はどう見ても……」
少し考え込んだあと、彼女が近づいてくる。
「ちょっと、その氷を見せてもらえる?」
「ああ」
氷塊を彼女に手渡した、その瞬間。
「きゃっ!」
それは彼女の手から滑り落ち。
地面に触れると同時に、瞬く間に周りの地面を凍らせた。
「……え?」
彼女が落とした氷塊は、気付けばガラス細工のように砕けていた。
砕けるついでに、その周りの土を白く凍結させながら。
「どういうこと……?」
「いや、俺が聞きたいんだが……」
「貴方の作った、氷。
……氷というより、むしろ……」
彼女はしばらく考え込んだ様子だったが、やがて口を開いた。
「……いえ、いいわ。
どうやら、貴方を異世界人を認めないといけないみたいね。
トーヤ」
「なんだ、急に。
魔法が使えちまったんだが、いいのか」
「ええ。
だって貴方、クロキアの人間じゃないのでしょう?」
「まぁ、な」
「凍結の魔法が使えて、クロキアの人間でもない。
なら、貴方はきっと本当に異世界人なのでしょうね。
それに……」
彼女は少し目を伏せた後、俺に問いかけた。
「それに貴方、きっと行く当てもないのでしょう?」
「あー……それは、たしかに」
「なら、私の国に来なさい。
氷雪系の魔法が使えるなら大丈夫。
理外の国クロキアは、貴方を歓迎しましょう」
彼女の言葉には少しの含みがあったように思えるが……まぁいい。
魔法が使えることは、あくまでスタートラインなのだ。
何よりも俺は、今日からこの世界で生きていかなければならないのだから。
そんな中の彼女の提案は、渡りに船とも言えるものだった。
「じゃあ、よろし───」
「伏せて!!」
少女が叫ぶ。
突如として地を揺らした、轟音。
そして、鈍い金属音。
あまりにも突然の出来事だった。
音源は、俺の背後。
音のした方に振り向くと、そこには広げた両手よりも幅のある、巨大な氷の壁が出来ていた。
「なんだ……!?」
透明な壁の先をよく見ると、ナイフを構えた大男が三人。
身なりから察するに、山賊か何かだろうか。
そこまで見て、ようやく理解が追いつく。
どうやらさきほどの轟音は、氷の壁が接地した音で。
金属音は、男たちが分厚い氷の壁をナイフで切りつけた音だったらしい。
そしてそのナイフの切っ先は、他でもない俺の方へ向いていた。
(殺されそうに、なった……?)
そして、彼女が氷の壁で俺を守ってくれたということだろうか。
透明な壁の向こうからは、およそ尋常ではない視線が俺に向けられていた。
初めて感じる、むき出しの人間の殺意。
咄嗟に、死んだ時の記憶が脳裏に蘇る。
出血。寒気。そして、無力感。
───足が竦む。
「逃げるわよ!」
彼女の声に我を取り戻し、竦んだ足に再び血が通う。
咄嗟に山賊たちから目を背けることで。
俺の足は素早く踵を返し、先に走り出した彼女を追いかけることができた。
『なぜ俺が?』という疑問は後だ。
とにかく今は、走るべきなのだろう。
目の前にあった祭壇の横を抜け、山道を突き進む。
木々の背は高すぎず、道の先が見えるのが救いだった。
「どこに行けばいい!」
彼女に追いつき、問う。
「王都クロキアよ! ついてきて!」
背後に目をやると、男たちは氷の壁を抜けたらしく、真っすぐに俺たちを追いかけてきていた。
どうやら、逃げるしかないらしい。
(二度も死ぬなんて、ごめんだ……!!)
俺の知らない世界の空は、いつの間にか赤く染まり始めていた。




