第1話「雪と、時」
───物心ついた頃から、自分はどこか社会に馴染めていない気がしていた。
漠然とそんな感覚を持つ俺にとって、睡眠とは至上の幸福であり、現実から逃避するための手段でもあった。
熱い風呂からあがって、冷房の効いた部屋の中で、暖かい布団をかぶって寝る。
これほどの幸せが、他にあるだろうか。
別に、生きるのが苦手なわけじゃない。
勉強も、バイトも、人間関係も。どれもそこそこ上手くやれている。
むしろ平均的な人間よりは得意な方だとさえ思う。
しかし、得手不得手と好き嫌いは別の話だ。
どこぞの偉人が作ったであろう諺に、『下手の横好き』というものがあるように。
そして、その逆もまた然りだろう。
たとえ得意でも、好きになれないモノはあるものだ。
例えば、パズルゲームは得意だが、普段好んで遊ぶのはRPGの方だとか。
まぁ、ゲームに例えるのはどうかと思うが……ともかく、俺にとって現実はそれと同じ類のものだった。
そんなことを考えながら、俺───烏兎凍矢は、今日も今日とて大学とバイトというクソゲーを消化し、帰路についていた。
スマホの時計は、すでに午後9時を示している。
(帰って、寝よう)
今日は珍しくバイトが長引き、少し体力的にきている部分がある。
俺は自宅のベッドの感触に思いを馳せ、ペダルをこぎ始めた。
(たしか、明日の講義は昼からだったか……)
今から帰れば、飯を食って風呂に入っても10時頃といったところか。
だとすれば、12時間近くは寝られる計算になる。
ああ、最高だ。
寝てやろうじゃないか、12時間。
謎の覚悟を決めた俺の前には、白く冷たい道が続いていた。
……積雪など、何年ぶりだろうか?
こんな日に暖かい布団に潜れば、さぞ心地の良いことだろう。
さらに、布団に加えてアイスもあればどうだろうか。
うむ、我ながらグッドアイデアだ。
もしかすると、俺は天才なのかもしれない。
などと、疲れた頭が今日という一日をやり切った自分を褒め続ける。
自画自賛は、無限のパワーを生み出す永久機関なのかもしれない。
よし、そうと決まればコンビニに寄ろう。今日はチョコモナカの気分だ。
と考えたところで、帰路で最後となるコンビニを通り過ぎていたことに気付く。
(しょうがない、裏道を使うか……)
たしか次の角を曲がった少し先に、もう一つコンビニがあったはずだ。
しかしその道は、地元の人間しか使わないような、見通しの悪い山間の道路。
自転車で通るのは避けていたが……今日ばかりは仕方がないだろう。
そう思い、曲がり角でハンドルを左に切る。
下り坂に入って少しすると、歩道が無くなった。
車道もさほど広くないようだったので、俺はできる限り自転車を左側に寄せることにした。
少し勢いがついたところでペダルを漕ぐのをやめ、しばらくの間勾配に身を任せる。
風を切る頬が冷たい。が、これもアイスのため。我慢だ。
ブレーキもほどほどに進んでいると、徐々に街灯が少なくなってきた。
およそ10メートル先も見えないほどの、暗闇。
自転車のライトでは、やや心許ない明るさだ。
しかし今日に限っては、それが妙な雰囲気を演出していた。
空気は冷たく、透明で。
頭上には、月も星も無く。
薄雪と夜陰が織りなすモノクロームの中、道脇で雪化粧をした木々だけがわずかな光を反射している。
幻想的───とまでは言わないが、俺の目の前には確かな非日常が広がっていた。
いつもの日々、家に帰るという何も変わらない行為の中。
天候と選ぶ道が違うだけで、目の前の景色はまるで知らない土地に迷い込んだように表情を変えた。
いつの間にか。
道が見えないという恐怖は、少しの期待に変わっていた。
この曲がりくねった下り坂は、俺をどこへ導いてくれるのだろうか。
柄にもなく、そんなことを想像していた矢先。
「しまっ───」
目の前に、突然ガードレールが現れた。
いや、正確には突然ではない。
急なカーブに、俺が気付けなかっただけだ。
(まずいっ……!!)
視線の先には、底の見えない崖。
このままでは。
(───ぶつかるっ!!)
そう、思った瞬間。
脳裏に、ピリリと電流が走ったような感覚。
その刺激と同時に、突如視界がクリアになった。
『ゾーン』
そう、呼ばれるのだろうか。
極限状態に陥った人間に起こると言われている、不可思議な現象。
自分以外の世界全てが、速度を失ってゆき。
思考だけがその速さを超え、脳内を駆け巡った。
目を離したから?
道が暗かったから?
違う。
なんとかしなくては。
このままじゃ、ガードレールにぶつかる。
ハンドルを切る?
ぶつかったら?
間に合う?
落ちる
スリップする可能性は?
かなりの高さだ
右手はポケット
底が見えない
止まれ
もう間に合わない
落ちたら
止まれ!!!
落ちたら
落ちたら──────
『死』?
その一文字が浮かんだ瞬間、世界はその結果に向かい動き出した。
突如として速度を取り戻す、現実。
動かない身体、加速を続けるタイヤ。
どれだけ願えど、止まることはない。
そして無慈悲に訪れる、ガードレールからの衝撃。
手は自転車から離れ、視界はありない方向に一回転し。
深い谷に落ちていく、浮遊感。
───空を飛ぶって、こんな感じだったのか。
それだけが、意識を失う前の最後の感覚だった。
────
───
──
─
どこまで落ちたのかもわからない、暗い樹海の中。
俺は、僅かに意識を取り戻す。
手足は動かず、頭も上がらない。
瞼だけがかろうじて動き、視界をこじ開けると。
腹の真ん中から突き出た、赤黒い木の腕が目に入った。
ああ。
俺は、死ぬんだな。
それだけが、ハッキリとわかった。
何が『止まれ』だ。
先ほどの感覚は、ゾーンなどではない。
ただの、走馬灯だ。
なぜ今日に限って、違う道を選んでしまったのか。
なぜ、もう少しばかりの注意を払えなかったのか。
しかし、どれだけ後悔をしようと止まることはなかった。
時間も、血も。
ただ冷酷に流れゆくそれらは、俺の無力を証明するかのようで。
時に流されるだけの人間が、それを止められるわけがないという当たり前の事実を、俺に認めさせた。
(……寒い)
乾いた空気と同じくらいに、自分の身体が冷たくなっているのがわかる。
(でも、なんか暖けえ気もする……)
きっとそれは、身体を濡らす自分の血。
しかしその温度は、自らが失った熱に他ならない。
(ああ……)
(なんか、眠てえな……)
自らの意思か、それともただの物理現象か。
俺の瞼は、ゆっくりと落ちていくのだった。




