第19話「想いと、醸造酒」
その夜。
夕飯を済ませた後、俺はサフィーアに呼び出されていた。
言われた通りこの宿で一番大きい部屋の扉をノックし、軽く呼びかける。
「サフィーア、来たぜ」
「ええ。
入ってらっしゃい」
扉を開けると共に、果物のような甘い香りが鼻をくすぐった。
「おいで、トーヤ」
微笑むサフィーアに手招きされ、中央のテーブルに向かう。
「よっ、と。
……ご機嫌だな、サフィーア」
「そう見える?」
「ああ。
昼間の真面目な顔が嘘みてえだ」
「ふふ……そうね。
あの服も、ミーチカの鞄に仕舞ったんだもの。
今日はもう、王様はおしまい」
「そうか。
で、そのミラーヤは?」
「あっちよ」
指が差された先は、サフィーアの背後。
そこには、大きなベッドに沈んで寝息を立てるミラーヤの姿があった。
「なんだ、もう寝たのか」
「ええ。
これを飲ませたら、一口で寝てしまったわ」
サフィーアはテーブルの上のグラスを指先で持ち上げ、軽く揺らした。
「それ……ワインか?」
「ええ。
とってもいい香りがするでしょう?」
なるほど。
この部屋に入ったときの匂いの原因は、これだったようだ。
「どっからそんなモノを……。
まさか、城から持ってきたわけじゃないだろうな」
「城から、と言われれば……そうとも言えるわね。
足元、ご覧なさいな」
「ん?」
テーブルの下を見ると、氷水に浸された二本のボトルが見えた。
俺の腕よりもやや太いぐらいの、ガラスのボトル。
このシルエットには、見覚えがあった。
「デファンスの言ってた秘蔵の品って……そういうことだったのか」
「粋な計らいよね。気に入っちゃったわ」
「いや……この見た目の三人に酒を渡すのはどうかと思うぜ。
しかも二本も……」
客観的に見て、俺たちはデファンスやブランシュほど大人びて見えないはずだ。
最悪、俺やミラーヤはいいとしてもだ。
サフィーアに関しては、事情を知らなければどう見ても未成年にしか見えないのだから。
「いいじゃない。
事実、私は飲めるんだから」
「まぁ、そうかもしれないが……」
「それで、トーヤ。
貴方は?」
サフィーアが、挑発的な笑みを浮かべてこちらを見据えた。
飲めるかどうか、ということだろう。
「はぁ……。
たとえ未成年だって言っても、断らせないんだろ?」
「ふふ……よくわかってるじゃない」
足元からボトルを一本引っ張り上げ、手前にあったグラスに注ぐ。
「先に言っておくが、マナーも何も知らねぇぞ」
「ええ、結構よ。
お酒は、楽しむのが第一だもの」
「ま、それはそうなんだろうが……その見た目で言われると、どうもな」
俺がグラスを持ち上げると、サフィーアも顔のあたりまで合わせる。
目だけで乾杯を済ませ、同時に口をつける。
「きっつ……」
鼻に抜ける、甘い果実の香り。
そして喉には、キツいアルコールの感覚が焼き付いた。
「ふふ……可愛い」
「……堂々と飲める歳になったばかりなんだよ。
少なくとも、サフィーアから見ればな」
もちろん酒を飲んだことがないわけではないが……かといって、ワインを飲み慣れているわけでもない。
それでも、これがワインの中でも相当に度数の高いものだろうということだけは理解ができた。
「しっかし……これをミラーヤに飲ませたのか」
「ええ」
もう一度グラスを持ち上げ、香りを確かめる。
味と同様、匂いも嗅ぐだけで酔ってしまいそうなほどに濃厚だった。
「私が口をつけるものは全部、あの子を通してからだもの」
「……毒見役、だったな。本職は」
「ええ。
別に、いまさら私に毒を盛るような物好きなんていないのだけれど。
……ほとんど、長年の癖みたいなものね」
思い返してみれば、西の街での外食の時も。
それから、今日デファンスの執務室で出された水などもそうだった。
サフィーアの前に出てきたものには、必ず先にミラーヤが口をつけている。
デファンスから提案された夕飯を断ったのも、それが理由……ということだろうか。
「獣人は、色んな感覚が鋭いんだったよな」
「そうよ。
だからこそ、ワインの一口で潰れてしまったのだけれど」
「じゃあ、それをわかってて飲ませたのかよ……」
「折角もらったんだもの、勿体ないじゃない?」
「まぁ、そう言われればそうかもだが……」
その答えに、サフィーアはまた微笑んで続ける。
「それに、もう一つ理由があってね」
「なんだ?」
「……貴方と、二人きりになりたくて」
その一言に、思わずドキリとする。
こちらを見つめるサフィーアの笑顔は、いつになく艶めかしいように感じた。
「……」
俺はサフィーアのことを、もう一度だけちらりと見る。
……相変わらず、彼女の考えは読めない。
そんな数秒の逡巡を経て、きっと考えてもわからないのだろうと結論づけた俺は、誤魔化すようにグラスを呷った。
少なくとも、動揺したことをからかわれるよりはマシだろう。
「あら、いい飲みっぷり」
空になったそれを乱雑にテーブルに置くと、サフィーアが次を注いだ。
よく見ると、ボトルはすでに四半分ほど開いており。
彼女の頬も、どこか赤みを帯びている。
つまりは、そういうことなのだろう。
「……同じ場所に、立ってやるさ」
「そう。
嬉しいわ」
そう言って、サフィーアも自分のグラスに口を付け、僅かに残すように飲み干す。
こちらも仕返しと言わんばかりにテーブルの上のボトルをひったくり、半分ほど注いでやった。
「ふふ……楽しい」
そんなやり取りに付き合うサフィーアは、心底楽しそうに笑っていた。
「……何がだよ」
「全部よ。
……貴方が来てから、初めてのことばかりだもの」
「そうかい。
ウチの王様の退屈が紛れてるなら、何よりだな」
「トーヤは、どう?
こっちでの生活は」
サフィーアは俺の皮肉など意に介していないようで、笑顔のまま続けた。
「……まぁ、そこそこ充実してるよ」
「そう。
ならよかったわ」
「逆に……今考えれば、あっちでの生活が楽しくなかった。とも言えるのかもな」
「あら、そうなの……?」
「ま、平凡っつーか刺激がないっつーか。
少なくとも、命懸けで戦うことはない世界だ」
「こっちで生活していたって、そんなことは滅多に起きないわよ。
それこそ、人間同士の命の奪い合いなんて、ね。
特にクロキアは、平和で退屈な時間が流れている方だと思うわ。
昔からずっと、ずーっとね」
「……そうか」
「そう。
だから私、貴方には感謝してるのよ?
フレイミアに行って、色んなものを食べて、見た事のないものを見て。
本当に、初めてのことばかり。
トーヤがいなかったら、こんなことにはならなかったんだもの」
「へぇ……」
「ふふ……なあに?」
「いや。
俺も……サフィーアには感謝してるぜ」
上機嫌な彼女の言葉につられてか、力を抜いた身体からは自然と声が流れ出た。
「こっちに来てから……正直、成り行きで生活してるけどさ。
これから交易をするにしても、ただ飼われるだけにしてもだ。
どちらにせよ、サフィーアの世話になってんだよな。俺は。
こう言っちゃ大袈裟かもしれないけど、この世界のことをなんもわかってない俺が生きてられるのは、サフィーアのおかげだよ。
そもそも、あの日あの場所で。偶然サフィーアと出会ってなければ。
俺は今ごろ、どっかで野垂れ死んでたかもしれないしな。
だからそれについては……本当に感謝してる」
「……あら、まぁ」
「んだよ」
「いいえ。
皮肉屋の貴方から、そんなことを聞けるなんて。と思ってね。
……お酒のおかげかしら?」
「少なくとも今日のことについては、どっかで礼を言おうと思ってたよ。どちらにしろな。
さすがに、そこまでガキじゃねぇつもりだ」
「そう……そう、よね。
……ふふ」
サフィーアは、どこか納得したように笑った。
「あー……ったく。
そうなるから言いたくなかったんだ……」
「ふふふ……いいえ、ごめんなさい。
笑うのは、失礼よね」
言いながらも、サフィーアは嬉しそうな表情のままだった。
「……うん。
でも、安心してトーヤ。
私は決して、トーヤを手放すつもりはないわ。
たとえ今回の貴方の計画が成功しても、失敗しても。そんなの関係ない。
貴方が望む限り、私は出来る限りのことをしてあげるつもりよ。
だって……」
「……だって?」
「……生き物を飼うからには、最後まで責任を持たないと。
でしょう?」
「……そうかい」
苦虫を噛み潰したような俺の表情を見て、サフィーアはまたころころと笑った。
頬を赤く染めて、まるで見た目通りの少女のように。
(はぁ……)
サフィーアが楽しそうにしているのは、きっと良いことなのだろう。
しかし。
人が少し素直になった途端、これだ。
その態度に、俺の心に少しばかりの反抗心が芽生える。
だから俺はここで、彼女にちょっとした仕返しをしてやることにした。
「でもさ……サフィーア」
「なあに? トーヤ」
「なんつーか……ちょっと残念だよ。
やっぱサフィーアにとって俺は、どこまで行ってもペットみたいなモンなんだな。
……俺は、サフィーアのこと……」
そこまで言って、わざとらしく目を伏せ、落ち込んでみせる。
これは、普段の俺なら絶対にしない上に、サフィーアも引っかかるわけがないようなもの。
しかし今のサフィーアにとっては、そんな三文芝居も『本物』に見えたらしい。
「……トーヤっ」
サフィーアは、焦った様子で立ち上がり。
そしてそのまま、テーブルに乗った俺の手を両手で包み込んだ。
「ごめんなさい。
私、そんなつもりじゃ……」
「いや、いいんだ……。
所詮俺は、サフィーアの長い人生の一部にしかなれないんだろうよ。
ペットのように、気まぐれで飼われる程度の。な」
「違うっ!
私は、貴方のこと……っ!」
「……俺のことが、なんだ?」
ここで顔を上げ、歯を見せてやる。
それを見てようやく演技だと気づいたのか、サフィーアは赤い頬をさらに紅く染めて座りなおした。
「……もうっ!」
「かっかっか!
簡単すぎだ。らしくねえ」
思いのほか気持ちのいい引っかかり方をしてくれたサフィーアを見て、俺はもう一口グラスを呷る。
「……ひどい人」
「お互い様だろ。
それとも俺は魔術師じゃなくて、役者の方が向いてたか?」
「……」
「ま、一回頭冷やせよ。飲みすぎだぜ」
懐から水筒を取り出し、不満そうに押し黙るサフィーアに投げ渡す。
「私は、貴方だから……」
すると彼女はなにやら小声でぼやきながら蓋を開け、水を口にした。
「もうちょっと話したいことがあったんじゃないのか?
少なくとも、そのまま酔いつぶれるつもりじゃなかっただろ……っと」
そう言って、俺は指を鳴らしてみせる。
すると、部屋の空気が静かに冷気を帯びていく。
時魔法にも、徐々に慣れてきた。
狭い空間の気温を下げる程度なら、酔いが回っていても簡単だ。
「……涼しい」
少し引き締まった空気に、サフィーアの焦点もハッキリしてきたようだった。
「本音も化かし合いもいいが……丸々一本も開けちまったら、話にすらなんねぇだろ」
気付けば、ワインのボトルも空に近づいている。
彼女の身体の大きさを考えると、明らかに飲みすぎだ。
「落ち着いたか?」
「ええ……。
トーヤに意地悪をされたことが、ハッキリと思い出せるぐらいには。ね」
「はっ。
手を噛むのがせいぜいな飼い犬じゃ、んなことできねぇだろ?」
「もう……本当にね」
「伝わったんなら、なによりだ」
水筒の水をもう一口飲み、サフィーアはそれを大事そうに両手で抱えた。
「……ねえ、トーヤ」
「ん?」
「もし、今回のトーヤの計画で。
沢山のお金が稼げたら……貴方は、どうするつもりなの?」
「たくさん……か。
そう言えるほど稼ぐには、なにより規模をデカくしねえとだな。まずは」
「ええ……そうね」
「氷が金になるってことを、ちゃーんと確認して。
儲けが出ると確信できたら、村を拡大して、宿を作って。
理想は……複数の行商人が出入りする場所になることだな。
人が出入りするようになったら、当然金やモノが動く。
氷とか食いモンで稼ぐってのも大事だが、まずは二国を行き来する人から金を落としてもらえるようにして……」
「ええ……それで?」
「その先は……正直、あんま考えてねぇな。
最終的にはあの村が発展して、それがクロキアの利益になればいいとは思ってるが……」
「貴方自身のお金にしようとは、思わないの?」
「んー……。
金とか人とか、最初の用意は全部サフィーアとデファンス頼みなんだ。
リスクを払ってない俺の取り分なんて、あっちゃいけないだろ。
……まぁ、少しは自由にできる金をもらえればとは思うけどな」
「もしそうなったら、私が出すわ。
出た利益に相応しいだけの額をね」
「そうか。
なら、それに期待しよう」
「それで……そのあとは?」
「ん? そのあと、っつーと?」
「トーヤが自由にできるお金を。
もし、トーヤが私を離れても生きていけるだけのお金を手に入れたら、どうしたいのか……ってこと」
「あー……そうか。
うーん……」
たしかに、そういう話にもなってくるか。
というよりも、サフィーアが聞きたかったのは、最初からこのことだったのだろう。
そもそも、今回の交易を成功させる自信はそれなりにある。
だがハナから儲けはクロキアに還元するつもりだったし、最終的な目的は二国間の交流の場を作ることだ。
しかし、サフィーアの手を借りずに自分で身を立てるという目的があるのもまた事実だった。
俺のやったことで利益が出れば、少なくとも自分がクロキアの負担にしかなっていない現状からは抜け出せる。
俺がこの国にいてもいいという理由にもなるし、サフィーアへの恩返しにもなるだろう。
つまり。
この世界に来てから考えていた、一つの大きな目標が達成されるわけだ。
だが……その先で何がしたいのかというのは、正直考えていなかった。
引き続き、村を発展させ続ける?
その実績を使って、サフィーアのように為政者になる?
金を転がして、悠々自適な暮らしをする?
───それとも。
「……ねえ、トーヤ」
だがそんな思考は、サフィーアの柔らかな音色によってかき消された。
「トーヤは……この国を出たい?」
「……クロキアを?」
「もし、よ。
もし私がトーヤの立場だったら……きっと、元の世界に帰りたいと思う。
余裕ができたら、そのための手段を探し始めると思うわ」
「……」
「貴方は良い子だから、今はクロキアのために働いてくれている。
それは、せめて自分が世話になった分ぐらいは働いて返そう、と思っているから。
そうでしょう?」
「まぁ……そうだな」
「でも、それが終わった後。
自由な身になったら……この国を出て、帰る方法を探す旅をするというのも一つの道だわ」
「……たしかに、そうかもな」
「世界は広いもの。
デファンスも言っていた通り、フォルジア大陸の外にも国は広がっている。
私たちが見たことのない土地には、きっと見たことのない魔法がある。
もしかしたら、その中には貴方が元の世界に帰る方法だって───」
「まぁたしかに、可能性は色々あるだろうけどさ」
俺は敢えて、サフィーアの言葉を遮る。
「でも、今はそこまで考えてない。
まだうまく行くかどうか決まったわけじゃないからな。
今の時点でどれだけ考えても、そりゃナントカの皮算用ってやつだ。
……それに、俺は元の世界で一回死んだんだ。
それも、俺自身の不注意で。
今ここで生きてるから、っつって俺が元の世界に戻ったら……人間が生き返ることになっちまう。
それは、さすがにルール違反だろ?」
「でも……」
「もちろん、帰っちゃいけないからってだけじゃないぜ。
俺自身、ちょっと楽しくなってきた部分もあるんだ。
サフィーアと出会って、魔法が使えるようになってさ。
それから、ミラーヤやブランシュと出会って。
今は、俺がこの世界に。
クロキアやフレイミアに何かをもたらせるのなら……って気持ちがある。
それに向かって進むのは、間違いなく元の世界にいた頃よりも楽しいんだ」
「トーヤ……」
「俺は、クロキアが好きだぜ。
サフィーアが治める国が、な。
だから、少なくともそう考えてるうちは帰るつもりはない。
それと、この世界のこともだ。
元の世界より、ずっと居心地がいいと感じてる。
それどころか……そもそも俺は、こっちの世界の方が向いてたんだろう。とすら思うよ。
もしかしたら、俺がクロキアの魔法を使えるのも偶然じゃないかもしれない……とかな?」
少しおどけて言ってみせると、サフィーアはつられて笑った。
「……ふふ。
なあに、それ。
貴方らしくない感想ね」
「そうか?」
「ええ。
貴方はもっと合理的で、不確かなものは信じない主義だと思っていたのだけれど」
「それはそうかもしれないが……生き返りに転移、魔法まで見せられちゃあな」
「そうね……うん。
でも、わかったわ。
……ありがとう、トーヤ」
「今ので答えになってるならいいんだが」
「十分よ。
私も、私のすべきことがわかったもの」
「そうなのか?」
「ええ。
この国をもっと良いものにしなきゃ、ってね。
……貴方に、ずっと好きでいてもらえるように」
「そりゃいい。
是非そうしてくれ、俺が元の世界のことなんて忘れちまうぐらいにな」
手慰みに、もう一度ワインを注ぐ。
お互いのグラスに注ぎ終わると、ちょうどボトルが空になった。
「今日は、これを飲み終わったらお開きね」
「ん、そうだな」
時計の針は、すでに日付が変わったことを告げていた。
「……そういえばサフィーア。
ひとつ、気になることがあるんだが」
「なあに?」
「あの村あるだろ。
件の、つったらいいのか」
「ナスレグのいるところね」
「そうだ。
なんつーか、勝手に改造計画まで立ててよかったのかな……ってな」
「ふふ……可笑しいことを言うのね。
トーヤが自分で言い出したんじゃない」
「いやまぁ、そうなんだが。
でも逆に、こんなにすんなり通るとも思わなくてな。
あそこ、長閑でいい場所だろ?
そんな場所に国内外の人が出入りするようになるのはどうか、って気持ちもあるんだ。
特に、炎熱の民が……って気持ちもある」
「そうね。
トーヤの心配も、もっともかもしれないわ。
でもやっぱり、私は心配いらないと踏んでいるわ。
トーヤも聞いた通り、あの子たちはフレイミアの子たちに対して、そこまで暗い気持ちは無いのでしょう?
村のことだって、大丈夫。
ナスレグも、きっと承諾してくれるはずよ」
「そりゃ、王様の命令じゃ断れないだろうが……」
「そういうのじゃなくて。
そもそもあの村は、小麦畑ぐらいしか目印になるものがないような場所なの。
だから作り替えることに反対する子なんて、いないと思うわ。
もちろん畑を全部取り壊すことはできないけれど……東側に拡張する余地ぐらいはある。
ナスレグもきっと、それをわかっているもの」
「なら、いいんだが……」
「それに、ナスレグ自身だってそう。
この間も少し話をしたのだけれど、そろそろ村長の立場を退きたいと言っていたわ。
若い子に託して、新しい風を取り入れたい、って。
あの子も、もう歳だものね」
何度聞いても、サフィーアのこういった言葉には慣れない。
彼女がナスレグ村長よりも年上だということは、頭ではわかっている。
だが少女然とした見た目のサフィーアの手前、どうにも違和感が拭えないのだ。
「そうだわ。
いっそ、トーヤが村長になったらどう?」
「……やめてくれ、ガラじゃない」
「ふふ……半分冗談。
でもそういうことを抜きにしても、あの村に手を入れることには私も賛成よ。
そもそも、あそこは龍脈に一番近い場所だもの。
人の出入りが多くなることで騎士団が常駐する理由を作れるというのは、悪くないことだわ」
なるほど。
今回のような襲撃がまた起こった場合、あの村に騎士団がいれば龍脈を守ることができる。
要所である龍脈を守れるということは、国防の観点から見てもメリットになるだろう。
この世界に限ってそんなことは起きない……とは、俺も思うが。
「うーむ……。
そう言われれば、悪いことじゃない気がしてきたな」
「そうでしょう?
それに村の若い子にだって、新しいことや刺激を求めてるような子がいるかもしれないわ。
うまくいけば、トーヤのことを手伝ってくれるかもしれないわね」
「そんなうまいこといくか?」
「それはトーヤ次第、かしらね?
私たち氷雪の民は大人しい国民性かもしれないけれど、決して保守的なわけじゃないのよ。
変化を望む子だって、きっといるわ」
「そう、か……」
村を作り替え、新しい商売を始める。
ゆくゆくはそれが村を支えるものになればいいとは考えているが、いくつもの壁があるのも事実だ。
村長や村民からの同意は、あくまでその第一歩に過ぎない。
何よりもまず、氷を作る施設。
そして、技術の確保が先決だ。
それが済めば、両国からの交易品の選定。
それが終わって初めて、交易をしてくれる行商人を探すことができる。
今日話したように、土地や人、金や時間などのリソースのこともある。
それらの壁を乗り越えて、ようやく形になったものを、果たして村民が受け入れてくれるかどうか。
期待以上に不安もあったのだが……サフィーアの言葉で、それらが少しだけ明るくなった気がする。
新しいことをするにあたって、大義名分があるというのはやはり心強いものだ。
「ま、やれるだけやってみるか」
「ええ、がんばって頂戴。
せっかく、トーヤやヴェルニグが守った村だものね?」
「……そうだな」
俺たちが、守った村。
その言葉に、あの日の記憶が蘇る。
コルヴィたちや、ダンナとの戦い。
───そして俺はあの日、明確な殺意を持って人を刺した。
その感覚は、今も手に残っている。
いつの日か、俺はそれを『過去の出来事』にしてしまうことができるのだろうか。
「……どうしたの、トーヤ?
顔が怖いわよ」
「ん……ああ、すまん。
ちょっと、泥人形を殺した時のことを思い出してな」
「そう……」
酒のせいもあるのだろう。
少しばかり、感情が顔に出過ぎていたらしい。
そんな俺を心配したのか、サフィーアは柔らかい声で語りかけてくれた。
「ねぇトーヤ。
泥人形と言えば、こんな話は知ってる?」
「なんだ?」
それは、おとぎ話を語るように。
まるで、子供に絵本を読み聞かせるように。
「───ある男が、旅をしていたの」
サフィーアは、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「その男は、旅の途中で雷に打たれて命を落としてしまった。
そして続けざまに、その男のそばにあった沼にも雷が落ちたの。
偶然か、奇跡か。
その雷が沼と反応して、死んだ男と全く同じ存在を作り出したわ。
沼からできたその男は、本当に全てが同じだった。
意識も記憶も、身体の構造も。その全てが、死ぬ直前の男と同じ。
そして沼の男は立ち上がったあと、何事もなかったかのように旅を続けるの。
元の男が、そうしたように。
果たしてその男は、元の男と同じ人物だと言えるのかしら?
……というお話よ」
「へぇ……。
哲学的な話、か?」
サフィーアの問いは、まるで禅問答か何かだった。
答えを求めている……というよりも、考えること自体を目的としたような問い。
「ええ。
自己同一性の問題よ。
こういった話は嫌いかしら?」
「……いや、嫌いじゃないぜ」
「ふふ。
そうだと思ったわ。
気を紛らわせるのには、ちょうどいいでしょう?」
「ああ。
酒の回った頭じゃちょいと頼りないが……乗ってやる」
「嬉しいわ。
じゃあ、改めて最初の問いね。
トーヤは、沼の男は本物の男と同一人物だと思う?」
「否だ」
「あら、それはどうして?」
「そりゃ、本物の男は一度死んでるからで───」
俺が答えるたびに、サフィーアが楽しそうに笑う。
そんなやり取りを続けながら、俺たちの夜は更けていった。
すでに温くなってしまった少しのワインを、いつまでもグラスに残しながら。
毎日昼12時に、一話ずつ投稿予定です




