第6話 失恋
【私、あなたのことをずっと想っていました】
透き通った声が鼓膜を震わす。
その声は、ずっと恋しく思っていた人のものだった。
しかし、決して振り向いてはいけない。
俺は、彼女と結ばれていい人間じゃないから。
そう分かっているのに、彼女は手を引いて、無理やり俺と顔を合わせた。
【やっと会えましたね。先輩】
彼女は目を潤ませながら、真っ直ぐ俺を見た。
深く被っていたフードをそっと外されて、顔がはっきりと見えるようになる。
前よりも伸びた髪はツヤがあり、つい触れたくなる。
【大好きです…先輩にどんな過去があったとしても、この気持ちは変わりません】
頬を伝って流れる綺麗な涙を、指で優しく拭った。
【…俺でいいのか?本当に】
心の奥にしまっていたはずの気持ちが溢れていく。
【先輩がいいんです。今も昔も】
彼女の頬を撫でると、どちらからともなく顔が近づく。
目を閉じて唇が重なった瞬間、胸に幸せが充満した。
「____はいっカット!」
カチンコの音が鳴った直後、元の距離に戻った。
「いいね!一発目とは思えないキスシーンだよ。この調子でじゃんじゃん撮っていこう!」
監督の明るい声でスタッフたちが動き出す。
その間、セリフと動きを確認するのが俳優、俺と相手役の桜沢美月だ。
桜沢はティッシュで涙を拭きながら、メイク担当と仲睦まじく会話している。
「っていうか、碧斗さんって彼女いますよね?」
唐突に飛んできたド直球に、一瞬戸惑う。
「いや、いませんけど、急ですね」
3歳年下だが芸歴は子役から活躍している桜沢の方が長い。だからこういう質問もフランクにできるのかもしれない。
「だってぇ、キスがお上手ですからねぇ」
またもやストレートな発言に、あははと笑って返した。
冗談まじりに言われると、何だか気恥ずかしくなってくる。キスなんて夢でしかしなかったから。
「あと何回撮るんでしたっけ?」
「2回じゃないですか?」
監督の意向で、様々な角度でのキスシーンを撮影することになった。
ここは、離れ離れになっていた2人が再会し、想いを通わせる大切な場面だ。
物語の中盤ではあるが、このシーンは幸せの絶頂だと思う。
結局2人は、運命に弄ばれて別れる。健気なヒロインも、主人公の前から消えてしまうのだから。
「撮影再開しまーす!」
監督の声が聞こえて自然と心が切り替わる。
フードを被って、目を閉じて、大切な人を思い浮かべた。
『…碧斗?』
ドクンと脈打つ音が聞こえる。
今は違う。晴香じゃない。
『ごめんね 好きな人がいるの』
メッセージが再生されると、暴走しかけた感情が鎮まっていく。
脳裏に焼きつけられた好きな声は、心の奥深くに沈み込んだ。
事務所に呼び出され、山本とともに社長室に入ると、週刊誌の記事が突きつけられた。
「これは…君のことだよね?」
そこにあったのは、制服姿の俺と晴香がベンチに並んで座っている写真。加えて、“PRISM CROWN石原碧斗 地元の姫と愛を育む”という文言まであった。
誰が撮ったのかは知らないが、10年前くらいのものだということは一目瞭然だ。
「はい。学生時代の幼馴染との写真です」
濁りなく社長に言うと、山本が隣で咳払いをした。
「事務所に入る前のものですし、恋愛も絡んでいませんから、この件に関しましては」
山本がそう言いかけた瞬間、社長は机を叩いて立ち上がった。
一気に緊張が走り、山本の口も塞がる。
社長は山本を見てから視線を俺に移し、口角を上げた。
「過去のことでも、悲しむファンがいるんだ。それは分かっているよね」
光のない真っ黒な目に圧倒され、唇が震える。
社長はそのまま歩いて俺の正面に立った。
「でも、君がファンを裏切る子じゃないって、ちゃんと知ってるよ」
肩をぽんぽんと叩かれ、次は混じり気のない笑顔を見せた。
その一瞬で空気が一変する。
「だから、こっちに差し替えてもらおうと思ってるんだ」
そして代わりの記事を見せられた。
「…あの、これ」
俺と桜沢のデートシーンを切り取ったものだった。腕を組んで、笑い合いながら歩いている。
遠くから取られていて、映画のワンシーンだと分かっているけど生々しく感じる。
「“PRISM CROWN石原碧斗と実力派俳優桜沢美月 隠しきれない親密な関係”って」
「映画の宣伝にもちょうどいいだろう。監督にも許可は取ってある」
公開は1年後だというのに、いくらなんでも早すぎないかと思う。
「…これこそ、ファンを裏切ることになりませんか?」
「おい!碧斗」
山本の制止を遮った。
俺は社長の目を見て、1つ呼吸を置いてから言った。
「1年も誤解されたままじゃ、活動しにくいです」
真剣に言葉を選んだが、社長は鼻で笑って席にどかっと座った。
「いいじゃないか。この記事は全部嘘だから」
記事は修正されないまま公開され、世間を騒がせた。
本当のことは、関係者しか知らない。
映画情報は解禁前だから、報道について聞かれたら口を塞ぐ。
それしかできない自分が虚しかった。
最近頭を使いすぎたからか、頭痛がひどかった。
薬箱をあさっても期限切れの薬しか出てこなくて、ついてないなと思う。でも、わざわざ買いに行こうという気になれない。
その時、ふと冷蔵庫にココアがあることを思い出した。
パックのココアを開けてマグカップに注ぎ、電子レンジで温める。
しばらくして取り出すと、甘い香りが部屋に漂った。
「あちっ…」
温めすぎて舌が痺れる。
別のコップに水を入れて舌を冷やしながら、適当にスマホを開いた。エゴサーチはしたくないから、しょうもない動画でも見ようとして。
そのはずが、無意識にメッセージアプリを起動していた。そして、スクロールしてようやく出てきた晴香のアカウントをタップする。
《メッセージは取り消されました》
これが表示されてから1度も動いていない。
晴香も忙しいのかもと思いつつ、通話ボタンを押した。
スマホを耳に当てながら待っていると、3コール目で晴香が出てくれた。
「もしもし、晴香」
俺が声をかけても、反応がない。
「聞こえてる?」
電話の相手を間違えたかと一瞬焦ったが、
「聞こえてる」
その声が返ってきて安心する。
俺が会話を続けようとしたが、それより先に晴香が話し始めた。
「連絡できなくてごめんね。色々あって」
冷淡な声音でスラスラと入ってくるその言葉は、作り物のように聞こえる。
「何かあった?」
「…何もないよ」
「晴香?」
いつも笑ってる晴香の重いため息が響き、鼻を啜る音も聞こえた。それだけで、胸が痛い。
でも、その次に出てきた言葉の方が苦しかった。
「もう、やめよう」
聞き取って意味を理解するのに時間がかかって、沈黙が流れた。
「…どういうこと?」
「ほら、碧斗には彼女がいるし…私がいなくても、平気でしょ?」
「そんなことない!俺はっ」
本心を言おうとすると声が詰まる。頭を通り過ぎたのは、応援してくれるファンの顔。そして、瑠璃と想介。
肝心なところで、だめになってしまう。
「…いいよね。演技もできて、都合の悪いことは忘れられて。羨ましい」
途中で言葉が詰まり、苦しい音になる。
「じゃあ、お元気で」
ぷつっと電話が切れた。スマホを離すと、“鳴海”の文字すら見つからない。
俺は冷蔵庫に寄りかかって、そのまま床に座り込んだ。
本当は、ずっと好きだった。
平気なふりをできたのは、晴香がいたからだった。
晴香じゃないとだめ、晴香がいなきゃ、俺は____
その日は、体が壊れたかのように視界が歪んで、息ができなかった。




