第5話 頽落
俺はただ、風呂に入っていただけだ。
シャワーだけでも良かったけど、母がせっかく沸かしてくれたから浸かろう。そう思っていただけなのに。
「ねえ、何で入ってきたの?」
湯気で白くなる視界の中、なぜか堂々と体を洗う父がいる。
「聞こえてる?」
こんなに狭いところに大人の男2人が入るなんて、ありえない。物理的にきつい。母もなぜ許可したのか分からない。
「追い焚きすると金がかかるんだ。今日くらい我慢しろ」
いくらなんでも、それで乗り切るには無理がある。と思いつつ、何も言い返せない。
父が湯船に入ってきた途端、湯船から大量の湯が流れていった。
ドラマや映画でよくあるのが、父が熱く語りだす場面。だけど、俺の父にはそういう情熱なんてない。同じく俺も、人生を語ってもらいたいなんて思わない。
「…狭いから俺出るよ。ごゆっくり」
そう言って立ち上がろうとしたが、父の嫌味が耳に入った。
「お前は中途半端なバカだ」
至近距離での悪口は慣れていたが、乱入してきてわざわざそれを言いに来たのかと思うとため息が出る。
「はいはい。知ってますよ」
適当に受け流して出ていこうと、バスタオルを取って体を拭いた。だが、父の口は止まらなかった。
「憧れなんか追いかけても、どうせ結果は出ない」
その一言で手が止まった。
努力が踏みにじられ、同じ夢を追う仲間も否定された気がして、拳を握りしめた。
俺は睨みつけるように父の方を見る。
「何だよ。俺らのグッズ集めて大切にしまってるくせに」
ボリュームを上げなくとも響いた声で、浴室の熱がじりじり上がっていく。
「中途半端な応援はいらないから」
父は眉を潜めてこっちを見ていた。
俺が浴室から出ようとすると、いきなりシャワーの音がして、タオルごとびしょ濡れになった。
水に当たって、体温が下がっていく。
「そんなことを言ってるんじゃない。隣の家の、あの子のことだ」
晴香のことだと瞬時に理解した。父はいつも言葉が足りなすぎる。
僕は諦めて水位の低くなった湯船に戻った。
「お前はあの子を介さないと家にも帰れないバカだ。だがな、そんなに都合良い人間はいない」
いくらなんでも、言葉が悪すぎる。
これじゃあまるで、晴香を便利屋だと言っているようなものだ。
俺はそんなふうに思ったことがない。そう反論しようとしたけど、父に遮られた。
「実際そうだろ。お前はあの子がいなきゃ、何もできない」
トドメに1番鋭利な吹き出しで刺された。思い返せば、父の言う通りだから。
アイドルになれたのも、家に帰れたのも、毎日頑張れるのも、全部晴香がいたから。
俺は、この事実を飲み込むことしかできなかった。
「お、おう…なかなか攻めた恋愛ソング、だな」
微妙な表情をする山本。その隣で目をぱちくりする瑠璃。そして、固まる想介。
連休明け最初の仕事は新曲会議だった。
PRISM CROWNがメジャーデビュー5周年目に突入したので、3人で表題曲を作ることになった。
俺は作詞作曲で、瑠璃は振り付け、想介が衣装、それぞれの得意分野を担当する。
だが、手応えは全くない。
実家でむしゃくしゃしてなぐり書きした曲を披露すると、案の定、皆が険しい表情を浮かべた。
「これはギラギラ系、ですよね?」
俺の顔をチラチラ見ながら想介が言った。
「うん、今までにない感じだから…王子様系から路線変更してみます?」
次は瑠璃が笑ってフォローしてくれた。
でも、俺すら納得していない曲を世の中に出すわけにはいかない。
「…すみません。書き直させてください」
今日の会議は頭を下げて終わった。
山本からお叱りを受けた後、静かに部屋に戻る。
スケジュールの都合で、次に集まれるのは再来週。それまでにできていなかったら大変なことになる。そう釘を刺された。
息を吐きながら席に着くと、左側から想介が心配そうに見つめてきた。
「なあ、何かあった?」
「まあね、ここで言えるようなもんじゃないけど」
俺が手に持った紙を破ろうとすると、その手を右から掴まれた。
「物に当たるな。そのための仲間だろ?」
いつの間にか紙は俺から瑠璃の手に移動していた。
2人に挟まれた俺は、もう逃げ場がない。
「ごめん…色々あった勢いで書いちゃって」
「いいや、それはそれで芸術家っぽくていいと思う!」
「確かにな!魂乗っかってんなって思ったもん!」
俺にはもったいないくらい優しい言葉に、胸の痛みが増す。
「ありがとう。いつもごめん。何もできなくて」
そう言いながら俯いた。
口に出すと余計に情けなさを感じる。やっぱり何もできないなって。
俺は周りの人に寄りかかりすぎだ。まともに仕事もできない。
慰めすら耳に入らず、俺は現場を後にした。
気がついた時には自分の家にいた。
荷物を置いて、手を洗って、なんとなく布団に体を沈める。
そういえば、明日から映画の撮影が始まる。
重い体を持ち上げて台本を取り出した。今回は初めて主演を務める作品で、大人気恋愛小説の実写化だ。
俺のファンと原作ファンの反応、どちらも良いスタートを切らなきゃいけない。そう考えると、今にも潰れてしまいそうだ。
“所詮アイドルだから”とか、“顔だけで選ばれた”とか、努力して育ててきた花を雑草のようにむしり取る人がいる。実際、初めてテレビドラマに出演した時はひどかった……という、嫌な記憶がフラッシュバックして、心臓が痛くなった。
一度水を飲んでから再び台本を眺めていると、スマホの通知音が鳴った。そこには、晴香からのメッセージが。
即座に手に取ってポップアップを見ると、こう表示されていた。
《ごめんね 好きな人がいるの》
突然何の話かと思って開こうとした瞬間、文字が消えた。
メッセージは取り消されました。と、無機質な文字で表記されている。
晴香は俺を誰と間違えたのだろう。そもそも、晴香の好きな人って誰だ?
心がざわつき始めて、息が詰まる。
俺だけを見てくれればいいのに。
あんなメッセージなら、気づかなきゃよかった。
唇の端が震えて、嫌な感情が、外へ外へと押し出されていく。
「何だよ。アイドルのくせに…気持ち悪い」
スマホをローテーブルに置いてから、枕に顔を埋めた。




