第12話 初回
ホワイトボードとマーカーが擦れる音だけが響く。手を止めて振り向くと、いつもより暗い表情の七海が参考書をバッグにしまっていた。
「ねえ、鳴海っちって来週のどっか空いてたりする?」
「時間によるけど、空いてるんじゃない?」
「じゃあ…午前中とか!どのくらい余裕ある?」
「午前中ね…ん?まさか、学校サボって塾に来ようとしてる?」
「してないしてない!そんなことしないから!」
冗談交じりに言ってみると、慌てた様子で否定した。
でも、まもなく3年の仲になるからなんとなく分かる。七海は何か悩んでいるなと。
成績は伸び続けているし、進路希望も明確。だから、友人関係の悩みかもしれない。勝手にそんなことを考えていると、七海が口を開いた。
「…実はさ、うちのパパと兄ちゃんが食堂やってるんだけど、急に外国人のお客さんが増えたんだよね」
いつも家の話は出てこないから、へぇという相槌しか打てない。
「…もしかして、うちの家族も頭良さそうとか思ってる?」
「まあ、七海さん成績優秀だからね」
そう言うと、七海は険しい表情で首を振った。
「まじでバカだからね!英語なんてアルファベットと挨拶できる程度だから!」
綺麗にふちどられた目がパッと開いて、あまりの強さに圧倒された。
「だから、英語教えたいんだけど、接客のこととか分からないし、発音はデタラメだし、上手くいかないの」
七海は困った顔をして私を見た。
「お願い。英語教えてあげてくれませんか?」
「うーん…」
かわいい教え子のためにできることをしてあげたい。だが、これは私の管轄外な気がする。こういうお願いに寄り添えるのはフィクションの世界だけ。
悩んだ末、私の口はこう動いた。
「…いいよ」
すると、七海はニコッと笑った。
「ありがと〜鳴海っち大好き!」
ハグされそうな勢いだったが、それはなんとか断った。
なんやかんやで、私は都合の良い女だ。押しに弱すぎる。
「じゃあ月曜日に来てね!すぐそこの食堂だから!っていうか、お昼も食べに来てよ?絶対にサービスさせるからさ!」
「はいはい。ありがとう」
七海は手を振りながら帰っていった。
息を吐いてからホワイトボードの文字を消す。
今日はあまり使っていないはずだが、いつの間にか七海が単語の練習に使っていた。
「…へぇ、wistfulなんて覚えたんだ」
来週は忙しいということが確定したので、今夜はゆっくり寝よう。そう決めた。
今日は七海の家族に英語を教えることになっている。けど、どんな人なのか想像できないからドキドキが止まらない。七海と同じタイプだったらちょっと怖いかもしれない。
地図アプリを見ながらたどり着いた食堂は、よくある親しみやすそうな外観だった。
引き戸をノックすると、中から声が聞こえる。ガラガラと音を立てながら開いた先に、制服を着て立つ七海がいた。
「鳴海っちおはよう〜!来てくれてマジ感謝!」
手を引かれて入ると、やはり温かみのある空間だった。
薄汚れた壁紙、手書きのメニュー、青いテーブルクロス、全てに優しさを感じる。
「ごめんね〜うち汚くて」
「ううん、すごくいいところだよ。私はこういうところ好き」
「マジ?鳴海っち優しすぎ」
ちょっと待っててと言いながら、七海は厨房に入り、1人年が近そうな男性を連れてきた。いや、引っ張ってきた。
「これがうちの兄ちゃん!」
その人は前髪が目にかかっているからか、目が合わない。加えて、自信なさげに立つその姿は、七海と対照的だ。
七海に肩を叩かれると、彼は口を開いた。
「…響と申します。すみません。妹が無理を言ってわざわざ来ていただいて」
「いえいえ、そんなに忙しくないですし、力になれたら何よりなので」
私が微笑むと、沈黙が流れた。この空気に飲まれて緊張が増していく。
「…あ、ごめん。パパはどうしても英語無理だって言うから、兄ちゃんだけになった」
「ああ、そうなんですね」
「そうそう。それじゃ、よろしくね!うちはもう学校行くから!」
七海はバッグを持って勢いよく食堂を出ていった。
行ってらっしゃいと言う前に2人きりになってしまった。
「あの、えっと…入ってください」
響にそう言われて厨房を通り抜け、彼を真似て靴を脱いだ。
静かな和室に着くと、座布団が出された。
「お、お茶持ってきますね」
お構いなくと言いたかったが、その前にスタスタと歩いていった。兄妹の歩くスピードが早いのは似ている。
座布団に正座してバッグを畳の上に置いた時、机の下にシャープペンの先が見えた。
それを拾って手の上に乗せ、剥がれかけた文字を読んでいると、お茶を持った響が戻ってきた。
「…はっ!す、すみません!」
響は慌ててペンを取り、背に隠した。大きすぎるリアクションに、笑いが堪えきれなかった。
「ごめんなさい。笑うつもりはなかったんですけど…それ、PRISM CROWNのグッズですよね?」
そう言うと、響は目を見開いた。
私は筆箱から1本のペンを取り出した。それには、同じくPRISM CROWNの文字が印字されている。
「私も好きなんです」
ペンを掲げただけなのに、響は口を抑えてぼそっと言った。
「マジっすか?」
口をぱくぱくさせながら、興奮気味に喋りだした。
「そ、それってデビューイベントのやつっすよね!?会ったことあるんすか?っていうか…!」
だが、それも数秒で終わり、我に返ったかのように口を塞いだ。みるみる顔が赤くなっていき、少しかわいく見える。
「すみません…く、口が勝手に」
そのままどこかに隠れてしまいそうだったので、私は響の手を取ろうとしたが、それを避けるように腕を組んだ。
「…手、荒れてるから…すみません」
「いえいえ、こちらこそすみません。昔から初対面の距離感違えがちなんですよね」
とりあえず座り、ぬるくなったお茶を飲んだ。
気まずくなった空気を壊すべく、私は話し始めた。
「でも、私もっと話したいです!なんか仲良くなれる気がするから」
私は深呼吸してから手を出し、響の目を見た。
「同じ推しの人、周りになかなかいないので…よかったら、友達になりませんか?」
1度私の手を見てから、響は言った。
「ご、ごめんなさい。俺、コミュ力低いし、暗いし、バカですけど」
それから慎重に手を伸ばして、私の手に重ねた。
「友達、なりたいです」
ドクンドクンと心臓がうるさく響いた。
「はぁ…断られるかと思った」
「あ、ごめんなさい!」
「もう、すぐ謝らないでいいんですよ?何も悪いことしてないんですから」
「すみません…あ、すみません」
響は、たぶん面白い人だ。今日の言動を見ていたら分かる。それに、比べることじゃないけど、碧斗とは全然違う。
「…あの、鳴海先生?」
ふと1人の世界に入ってしまったことに気が付き、急いで顔を上げる。
「ああ、えっと…連絡先交換しようよ!」
「は、はい」
私はスマホを出してQRコードを読み取った。そして、”あおい”と表示される。シンプルで分かりやすい。
この後私たちは、英語のことは一旦忘れて、推しを語り合った。
好きな人の話をしていて心苦しくならないのは、今日が初めてだった。




