第11話 朧月
キンキンに冷えた缶ビールとグラス、湯気が立ちのぼる鍋を食卓の中心に置いた。そこに炊きたてのごはんを添えると、腹の虫がぎゅうと鳴る。
「うん、やっぱり鍋はうまい。鍋最高!」
さっきまでの重暗い雰囲気から一変して、アルコールが回ってきた碧斗はへらへら笑っていた。
「晴香、ありがとう。鍋の素買ってきてくれて」
「煮詰めたのも私なんだけどね」
「もう晴香も最高!大好きぃ~」
碧斗がご機嫌なのは何よりだが、酔いすぎている気がする。
「人前でお酒飲まないほうがいいんじゃない?」
「大丈夫。晴香としか飲まない!」
酔っ払いの言うことは信頼できないな。そう思いながら、ふたりで鍋を空にした。
シャワーを浴びて髪を拭きながらリビングに行くと、ソファでうたたねする碧斗がいた。
近づいてかがんで見ると、まだ少し髪が濡れていて色っぽい…と考えたところでハッとする。
「おーい!碧斗!」
耳元で声をかけたらすぐに瞼が動いた。
「…ん、晴香」
碧斗は幸せそうに目を細めて笑った。
「髪乾かさないと風邪ひくよ?」
「んーあとでね」
ふわぁとあくびをして、気持ちよさそうに腕を伸ばしている。ああ、これは内容が頭に入ってないやつだと、つい微笑が零れる。
「ふふっ、晴香」
まだ酔いが抜けきっていないのか、ひたすら名前を呼び続ける碧斗。
それだけならよかったのに、唐突に体を引き寄せられて、私はその上に乗っかってしまった。
慌てて突き放そうとしたけど、
「晴香、好きだよ」
私は今、聞いちゃいけない言葉を聞いた。もう何も考えたくなかった。
碧斗は上体を起こして座りなおし、真っ直ぐな目を向ける。その綺麗な瞳が、私の理性を吸い込んでいく。
「…碧斗?」
深い意味はないと確認するように名前を呼んだ。すると、割れ物に触れるみたいに頬を撫でられた。碧斗がなぞったところが熱を帯びる。
これ以上進んだら、私たちはどうなるんだろう。
いつもなら今すぐにでも突き飛ばせるのに、今日の碧斗は目が離せない。冷たくできない。
顔が近づいて、息がかかる距離になる。
そして、唇が触れ合ってしまった。
その瞬間、終わった。そう思った。
自分の心に嘘はつけない。言葉と違って、思ったように動かないから。
ただ、世界で最も近くにいる碧斗が、愛しくて仕方ない。
手をそっと首元に回し、もっと距離を縮めた。
そのまま、私と碧斗の境界が曖昧になっていった。
幸せと苦しみが一体になった夜、窓から見える三日月が輝いていた。
それなのに碧斗は、
「…俺、やらかした?」
翌朝には何もなかったことにした。
思わずため息が出る。都合よく忘れてしまう碧斗にも、昨夜の私にもイラついて、胸が痛くなる。
「ごめん、本当にごめんなさい」
やっぱり、酔った人の言葉を鵜呑みにするんじゃなかった。そう思うけど、少しだけ期待したい。
碧斗の額を軽く押して顔を上げさせる。
「昨日、キスしたじゃん」
その時、碧斗の目が変わった。焦りと驚きが混じった色に。
本当に忘れてしまったんだ。想い合っていたのは、あの瞬間だけ。
込みあがる不純物を抑えるように、碧斗を睨んだ。
「ああ、もう!キスはしてない!嘘!」
自ら傷口に塩を塗り込んだ。
「酔っ払って急に“一緒に寝たい”とか言い出して、私にずっとくっついてきたの!剥がすのにどれだけ時間かかったことか…碧斗のせいで筋肉痛だから!」
このもやもやした気持ちを嘘に乗せて吐き出した。
「ご迷惑おかけしました。何か奢らせてください」
ちらちら私を見る碧斗の目は、明らかに友達に向けるもの。
それに気が付いた途端、ぷつんと何かが切れた。
「…もういいよ」
碧斗にとって私が友達なら、それでいい。
その代わり、碧斗の隣にいるのは私だけであってほしい。
そんな自分勝手なことを望んでしまった。
私は静かな空気を壊すように腕をさすって声を出した。
「ここ痛いけどね!」
ふざけてみると、すべて元に戻った。
穏やかな雰囲気も、碧斗の笑顔も、関係も。
朝食を食べ終えてから、碧斗の実家の前に立った。
緊張した面持ちでインターホンとにらめっこしている碧斗は、手を伸ばす気配もない。
「もう、さっさと行っちゃいなよ」
碧斗の横からポチッとボタンを押すと、懐かしいチャイムの音が流れた。
「は、ちょ!?」
何か言いたげな顔で私を見ていたので、笑って手を振った。私はそのまま前を向いて、塾に向かって歩き出す。
さっきまで上がっていた口角は、いつの間にか元の位置に戻っていた。




