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第10話 心音

 今日も英文を読んで、書いて、消しての繰り返し。腕が重くなるとともに、字も汚くなっていく。

 個別指導塾の講師を始めてもう3年も経った。

 学生時代、英語だけは得意だった。就職も英語力が必要な職種を希望していたが、いずれも全部不採用。私を拾ってくれたのは、この塾だけだった。

 ドアの音で振り向くと、バッグについたキーホルダーをジャラジャラ鳴らしながら、生徒の蒼井七海(あおいななみ)が歩いてきた。

「鳴海っち!宿題教えて〜」

「ねえ、七海さん?その“鳴海っち”っていうのやめてよ。友達じゃないんだから」

 最初は乗り気じゃなかったが、今はこの仕事が好き。それぞれの歩幅で進み、一緒に成長できることが嬉しいから。

 この七海という生徒は、スカートの長さも髪色も高校生活を謳歌しているが、勉強も真面目にしている。難関大学を目指せるほどの成績だ。

「そういえばさ、この人知ってる?」

 七海が唐突に見せてきたのは、ドラマの切り抜きだった。普通の人なら固まらないだろうけど、そこにはよく知っている人物が写っている。しかも、今週末に家に来ることになっている幼馴染____碧斗だ。

「これ、あれだよね。流行りのアイドルの…」

「え!このイケメンってアイドルなの!?」

 当たり障りのない発言をしようと心がけていたが、失敗した。

「そう…エンドロールで、偶然ね、グループ名が目に入ったから!」

 そう言うと、七海は碧斗の情報を検索し始めた。

 なんとか乗り切ったと思うと安堵のため息が漏れる。でも、束の間の安心だった。

「うわ、本当だ…っていうか、この辺り出身だし、鳴海っちと同い年じゃん」

 一瞬で情報を収集した七海は、キラキラした目で私を見た。

「どこの小学校だったとか、噂聞いたことないの?」

 言えない。小中高一緒だったなんて。未だに連絡を取り合う仲だなんて。

「…全く聞いたことないな。あはは、地区が離れてるんじゃないかな?」

「ふぅん、そっか。なら、今度アイドル好きそうな子に聞いてみよ」

 明らかに顔が引き攣っているので、問い詰められなくて良かった。

 大好きな人の夢は、絶対に守る。それが私の幸せに繋がるから。


 インターホンが鳴ってから3分。モニターには、確かに碧斗が写っていたはずだが、まだ入ってこない。こっちはキッチンにココアまで用意したというのに。

 呆れて腕を組んでいると、ようやくドアが開く音がした。

「入るまでが遅すぎる」

 そう言って顔を出すと、

「ごめんごめん!緊張してて」

 なんて笑いながら言った。その顔だから許せてしまうのが悔しい。

 碧斗はすっかりくつろいでいて、テレビを見ながら呑気に笑っている。

 この様子じゃ、家族には何も連絡できていない。手のかかる幼馴染だなと思いつつ、日中はふたりきりの時間を楽しんだ。

 夕飯の支度をしながら、横目で碧斗を見ていた。

「ねえ、いつ行くの?」

「1泊してっていいんでしょ?」

 全て切り終えて沸騰する鍋を見るだけになった碧斗は、相変わらずぽわぽわした声音で喋った。

「じゃあ朝イチ出発ってこと?」

「アポなし朝イチは迷惑じゃない?」

「なら連絡すればいいじゃん。もう切るものないんだし暇でしょ」

「はーい。今から連絡しますよ」

 そう言ってようやくスマホを取り出した碧斗の指が、少し震えていた。

 指がそれ以上画面に近づくことはなく、ぎゅっと空白を握った。

 碧斗は知らない。コンテンツが配信されるたびに大喜びしている身近な人が、私以外にもいることを。だから、教えてあげなきゃ。

 そう思って、鍋を見てもらっている間、碧斗のお母さんに連絡した。私とお母さんはメル友のようなもので、碧斗が帰ることはすんなり伝わった。

《いつもありがとう。碧斗が甘えてばっかりでごめんね。私たちも会いたいって伝えておいてくれるかしら?》

 ほら、ちゃんと愛されてる。

 だから、碧斗は家に帰っていいの。家族に甘えていいんだよ。

「アポ取れましたよ」

「…え?アポって何の」

「決まってるでしょ?あなたの実家です」

 すると、ぽかんとした顔で私を見た。

「え…何で」

「何その反応。家族に失礼だと思わないの?」

 その左腕に軽くグーパンチして、碧斗の家族の話をした。

 ここに4人で集まってMV鑑賞会をしたと言ってみると、文字通り目を丸くして驚いた。それが面白くて、つい笑ってしまう。

「えぇ!?そんなに驚くの?」

 私はおたまでアクを取りながら話し続けていると、背後から急に碧斗に抱きしめられた。

「え、ちょっ、鍋に当たるところだったんですけど」

「ごめん…少しこのままで」

 さすがに動きにくいから離れようとしたけど逆効果で、腕の力が強まっただけだ。距離がゼロに近づく度、体が自分のものじゃないみたいに熱くなる。

 私は1度ため息をついてから言った。

「火は止めさせてよ。それ以降は何してもいいから」

 そう言うとようやく力が緩んだ。

 火と換気扇を止めてから振り向いて、子どもを呼ぶみたいに腕を広げた。その直後、碧斗は小学生みたいな目で私を見て腕の中におさまった。

「よしよし〜よく頑張りましたね〜」

 頭をぽんぽん撫でていると、首元に息が当たる。

「え、泣いてる?」

 顔を確認しようと思ってまた離れようとしたが、男の筋力には勝てなかった。

「…何してもいいって言ったじゃん」

 本当に子どもみたいなことを言い出すから困る。けど、

「ここでしか泣けないんだよ」

 弱く聞こえたその一言が、胸にすとんと落ちた。

「うん…なら、仕方ないか」

 私はその体を優しく抱き返した。

 碧斗は何を考えているのだろう。そう思って、胸元に顔を寄せてみた。

 だが、すぐに後悔した。私とは対照的な、穏やかな心音と静かな呼吸の音が聞こえたから。

 この事実だけで、泣きたくなった。

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