38 越境(5)
閉じかけた瞳の中に一筋の青白い光が入り込んできた。思わず目を開けると、夥しい数の結界が、まるで水流のような形に重なっていた。「折紙」と呼ばれる魔術は、確か結界術の技の一つであったとルネは記憶していたが、その「結界術」を得意としている術師は、既にこの世から———
「ルロワさん!大丈夫か、死んでないか!」
しかし現実は、ルネの悲観的な想像を覆してくれた。走り駆け寄ってくる直登に対して、自分の身はひとまず気に留めずに、吹き飛ばされて倒れている男を直ぐに戦闘不能にするように指先で指示を出す。
身体強化魔法で集中して体の部位を強化する場合、魔力の流れから考えると体の中心部や頭、体内の魔力の源とされる部位の魔力量は極端に少なくなる。普段魔術師は戦闘の際、相手の魔術による攻撃や物理攻撃を魔力に緩衝させることによって多少その威力を低減しているが、魔力量がほとんどない状態で一方的に魔力による攻撃を受ければ、それは人間の身体にとって途轍もない被害となることだろう。
実際に男は5、6メートル離れた所に虫の息で倒れていた。直登はその方向に手をかざし、掌中に生成した四つの鋭く尖った結界を一気に放つ。気絶しているのか、氷塊がそれぞれ四肢の中心を貫いても、何の反応もない。
「———あ、ありがとう。だけど、ナオトくん、その魔法、無詠唱で唱えられたの……?六大対抗戦では詠唱していたはずなのに、もしかして手を抜かれていたとか……」
「そんなことあるはずないよ、する余裕もなかったし。でも前に賀茂先生が言ってたんだ。殺意の籠った攻撃を受けたときに、俺の魔力量は格段に上昇するって」
「そう……それなら、いいけど」
多分、彼は何か勘違いをしているのだろう、とルネは思っていた。魔力には人それぞれの特性が確かにある。しかし人それぞれといっても、その特性は血統や家系に因るものが大きく、非魔術師家系のものであれば特性を持たない者も多い。
「(しかも、特性は何かと何かのトレードオフ関係で作られるもの。ナオト君の言っているように魔力量を上げる特性もあるけど、それは一度に放出できる魔力量、つまり魔術出力が一時的に上がるだけだった。でもナオト君は明らかに魔力を貯めるタンクそのものが対抗戦のときよりも何周りも大きくなっている……)」
「どうかした?ルロワさん」
「な、なんでもないよ」
なんでもないの一言では済まないほど思考を巡らせてはいたが、「魔術師同士の余計な詮索は不幸への近道」という魔術界での常識を思い出したため、これ以上何も聞くまいとルネは思った。
「それよりルロワさん、こいつどうする?気を失っているみたいだ。大学の人を呼んで尋問にかけてもらおうか」
「そうね、それが良いと思う。風で橋から落ちない所までその人を引っ張っておいて。こんな状態だからしばらく列車は運休だろうし轢かれる心配はないわ……私は大学に連絡するから」
いつの間にか立ち上がったルネは、まだ覚束ない足で、風に煽られながらも電話を手に取る。魔術界の先住民と言われているから、現代的な電子機器に抵抗があったりするのかと直登は思っていたので少し驚愕の表情を浮かべていた。しかし、はと我に返り男の両肩を雑に掴む。
「ん、なんだ……」
小さな違和感が直登を襲い、直登は男の体から手を離す。ルネの「ちょっと、何やってるのよ」と言う呆れ混じりの声は届かない。
初めは音を聞いた。これは周りの風の音によって判断材料としては不足。次に直登は再び男の体を、今度は丁寧に、左手首、首、足首の順に触れる。足首に触れた瞬間、直登の疑念は確信に変わった。
「ルロワさん。この男……既に、死んでいる———で、でも、どうして!ついさっきまで微かに呼吸音も聞こえていたはずなのに……それに、そこまでの攻撃はしていない」
珍しく動揺した直登の声を聞き、ルネは取り出した携帯片手に急いで倒れている男の前まで来る。ルネは気味悪がりながらも、一応呼吸の有無と心拍を確認してから直登に答えた。
「確かに、死んでる……こ、これが例の……」
「例の……?」
聞き返す直登に、ルネは躊躇いながら口を開く。
「これが、人形使いに掛けられた『死の呪文』よ。まだ大まかにしか発動状況の解明はされていないんだけど、今言われているのは、『例え相手に殺されずとも、これ以上の戦闘ができない状況』になっていしまえば、掛けられた魔術師の生命を奪う。どこからどう見ても禁忌の呪文よ……」
「人形使い……そうか、この男もボローニャで遭遇したあの男と同じ人形使い。あのときは、アリアが殺してしまったけれども、彼も結局死んでいたのかな……いや、だからといって———」
直登の回顧の中に出た「アリア」という単語に、ルネの鋭く尖った耳がぴくりと反応する。
「アリア、ってあのアリアハワードのこと?……へえ、意外にも優しいんだね、あの子」
合点のいかない直登はどういうことかと聞き返した。
「呆れた。あなた、ほんとに何も知らないでここに来てるのね……あのね、こんなの生命魔法学の中等教育で学んでいるはずなんだけど———」
ルネが言うにはこういうことであった。
人間の魂というのは通常、「死の瞬間」には死を認識しておらず、どのような場合であっても、いくら死を覚悟していても、死が訪れるのは一瞬の出来事である。その一瞬の間に悍ましい死の恐怖が死者を襲うため、その瞬間が気付かない内に過ぎている程短くないと、あまりの恐怖で魂は耐えられない。しかし「死の呪文」で命を奪われた人間は、「死の瞬間」が数時間にも及ぶという。その後の魂の状態は論を俟たない。
「だから、アリアはあの男を……そうか、そういうことだったのか。……ありがとう、ルロワさん。俺はとんでもない誤解をしていた」
ルネからの返事は無い。彼女は直登を残して一人、橋の根元にあるばらばらに砕けた列車の残骸に向かい、車内に置いたはずの彼女の鞄を探している途中であった。少々見渡しても見つからなかったのか、ルネが何か呪文を唱えると残骸の中腹あたりからほぼ無傷の深緑色の革製の鞄が飛び出し、彼女の手元にそのまま飛んできた。
直登が「魔法って便利だなあ……」と驚いている間にも、ルネは直登の隣まで歩き、直登にも早く自分の鞄を取り出すように促す。
「いやいやいや、俺、結界術しかできないから、そんな便利な魔法知らないし、あと鞄もそんな頑丈じゃないからきっと木端みじんになってるよ!いま丁度そのこと思い出して、軽く絶望してたとこだよ!」
「そう、それなら諦めてさっさと歩くことね。私達が呼ばれたスイスのクールまであと100キロはあるし。どんなに運が良くても次の次の駅くらいまでは電車も止まっているはずだよ。ナオト君のその格好じゃ寒さで体が動かなくなるまで後何時間も無いだろうね」
「さ、さむい!今まで必死だったから気付かなかったけど、確かに寒い!早く行こう、今すぐ行こう」
「あ!ちょっと忘れ物したから待って!」
「おいいいぃぃぃぃぃ!!」
直登の雄叫びは、アルプスの山々に響く。
ヨーロッパの屋根を歩く彼らの旅は、未だイタリアとスイスの国境を越えたところであった。




