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39 クール失踪事件

「で、ナオト君はなんで橋の下から戻ってこれたのかな?」


 赤毛の少女は、少し不服そうに口を切った。午後5時を回ろうかというところである。この季節になると日も短い。空は暗く、霞む雲に星々が淡い色を付けている。山を幾度も超え、目的地のスイス、クールまでの道半ばというところである。本来ならば半日以上も掛かるこの道のりをわずか4時間余りで踏破できたのは、「シープ」と呼ばれる中型魔獣にルネが跨って移動していることと、その隣で直登が息も切らさずに走っているからだ。


「なんでちょっと不満気なのかな!」


「そんなことはどうでもいいから」


「———どうでもいいって……!ルロワさんの隣で、落とされた瞬間に俺も遂に死ぬのかなって悟ったんだけど、前に賀茂先生っていう俺の担当教員?に見せてもらったことがあって、やってみたんだよ」


 直登が答えると、直登の視界の少し上の方から「なにを?」と尋ねる声が聞こえる。シープ、羊の名を持つその魔獣は直登の生きていたそれよりも二回りほど大きく、跨るルネは直登を見下ろす位置にいた。


「結界の上に立ったんだよ。先生は多分見えないくらいに薄い結界でやってたんだけど、俺の結界はそんな強度でないから1メートルくらいの結界を出してみたら何とか落ちずにすんでさ———」


 そこまで話すと、直登は異変に気付いた。羊に跨る赤毛の少女が口を開いたまま唖然として自分を見ていたのだ。


「な、ナオト君……あなた、魔術の高強度固定ができるってこと……?クラスAでもできない人も居る高度な技術を、ナオト君が?」


「ま、まあ一生懸命だったし……それに、落ちてる間に何回か失敗したから結局大分下まで落ちたんだけどね……だから、上がってくるまでに時間がかかったんだ」


 直登の必死の説明も聞こえないのか、ルネは半笑いで口角をひくつかせながらどこかを見ていた。実際、彼女は解(ヴィア)を持たないため、クラスAには入らないがその魔術適応の高さと魔術の幅によりクラスA並の実力を持ち、自身の実力に誇りを持っていた。その誇りからか、少し前に魔術の世界に入門してきたばかりの直登が、自分の出来ない事を出来るという事実を受け止めたくはなかったのだ。


「結界術しか使えないから、このたった一つの武器だけは磨かないとだし……」


 しかし直登が謙遜を続けると正気を失ったルネの瞳にまた光が戻った。


「そ、そうだったの!ナオト君、結界術にしか特性がないの!だから結界術の扱いは人より……そうよね!普通の人ってそんな急に成長しないもんね!それなら納得だわ!一点特化型の魔術師なら珍しいけど、居ないことは無いもの。へ、変だと思ってたのよ!———って、あれ」


 それも束の間、ルネは違和感を覚え言葉に詰まる。


「……ナオト君、身体強化魔法使ってないの?」


「使ってないよ」


「えっ……」


 一体どれ程の距離をこうしていたのだろうか。遅くとも20キロ毎時で駆ける「シープ」に涼しい顔をして、それに時折雑談もしながら並走する直登が身体強化魔法を用いていないと知り、赤毛の少女はかつてない驚きと共に訪れる混乱で上手く言葉が出せなかった。


―同時刻、スイス・クール―


 その部屋は薄暗く、今にも消えてしまいそうな、ふらふらと揺れる蝋燭(ろうそく)の火が唯一の灯りであった。

 凡庸な家の地下にあるその一室には、椅子に括りつけられた男と、もう一つの影。男は全身の身包みを剥がされ、これまた凡庸な椅子のひじ掛けには腕を縛り付け、両足も同様に縛られていて、身動きは取れない。というよりも、男は怯えきっていてもう一切の動きを取るつもりは無い様子であった。目には目隠しをされ、口にはタオルで作られた簡易的な猿轡(さるぐつわ)、全身の皮膚は斑(まだら)に爛(ただ)れ、爪は一本分を残し全て剥がされ、ただ涎(よだれ)を垂らしながら唸っているだけで廃人と化している。


「あら、シャキリは死んでしまったのね。優秀な部下だったけれども……しょうがないわね」


 ペンチのような物を持つ黒い影は、何かを見ながらそう呟いた。腰まで伸びる長い髪と、その声色から察するに女性。部下の訃報であったが、それほど悲しむ様子も無く、椅子に括りつけられた男に向かう。

 近づいてくる足音と共に、男は正気に戻り、身を捩じらせ抵抗の構えを見せる。しかし、抵抗虚しく男の手は簡単に掴まれ、爪と指の間に冷たい感覚が過る。


「ほら最後の一本もいくよ」


 べり、という鈍い音と低く情けの無い悲鳴。その不快な協奏は部屋中に響き渡るだけで、外に漏れることは無かった。男は目隠しを涙で濡らし、猿轡(さるぐつわ)の中で嗚咽混じりの過呼吸をし始める。

 黒い影はそれを蔑むような目で見降ろし、振り返る。彼女が地上階へと向かう階段を上り始めた頃にはもう、後ろの椅子の男は何の反応も無くなっていた。


 「クール失踪事件」、後にこう呼ばれる事件の被害者はこの時点で既に30人を超えていた。

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