02 天使のいる家
02 天使のいる家
アレクは庭で本を読んでいた。
椅子が置かれた場所は、午後になると涼しい風が通る。続きを読もうとページをめくったところで、護衛の声がした。
「アレク様」
サミエルだった。
「何?」
アレクは顔を上げ、本を閉じた。
立ち上がった、その瞬間だった。
サミエルの腕が動いた。抜かれた刃が光り、次いで体に激しい衝撃が走った。
何が起きたのか、すぐには理解できなかった。
服の上に赤い染みが広がっていく。息を吸おうとしても、うまく吸えない。
「サミエル……?」
男は答えなかった。
再び剣を構えた姿を見たとき、アレクはようやく、自分が殺されようとしているのだと悟った。
考えるより早く、転移魔法を使った。
景色が歪み、足元が消える。
次に体がぶつかったのは、見知らぬ家の階段だった。
(ここは……どこだ?)
手を動かそうとしても、力が入らなかった。血と一緒に、魔力もほとんど流れ出てしまったらしい。
転移ができただけでも運がよかった。少なくとも自分の死体を見せずに済んだ。
けれど、その幸運も、ここで終わるらしい。
(こんな最後になるとは……)
目の前が暗くなった。
次に目を開けたとき、白い光の向こうから、女の人が覗き込んでいた。
黒い髪が頬にかかっている。心配そうな目が、自分を見つめていた。
(天使だ)
そう思った途端、張り詰めていたものがほどけた。
もう剣を向けられることもない。逃げなくてもいい。
アレクは安堵して、再び眠りに落ちた。
鳥の声で目が覚めた。
アレクはしばらく、見知らぬ天井を眺めていた。
(ここは……)
体の下には柔らかな寝具があり、窓から朝の光が差し込んでいる。傷を負ったはずの胸に触れても、傷も痛みもなかった。
顔を横へ向けた。
ベッドのそばのソファで、あの天使が眠っていた。
黒い髪が枕代わりのクッションに広がっている。白い頬に朝日が差し、長いまつげが影を落としていた。
(女性の寝顔をじろじろ見るなんて、無作法だ)
そう思っても、目を離せなかった。
やがて、そのまつげが震えた。
目を開けた彼女は、アレクと視線が合うと、すぐに身を起こした。
「目が覚めたのね。よかった」
そばへ来て、顔色を確かめるように覗き込む。
「痛いところはない? 気分は悪くない?」
アレクは慌てて上体を起こした。
「無理しなくていいのよ。横になっていて」
「僕は……」
何から話せばいいのかわからず、一度唇を結んだ。
「僕を助けてくださって、ありがとうございます」
彼女は微笑んだ。
「庭で光が見えたの。それで外に出てみたら、あなたが倒れていたのよ。気付いてよかったわ」
アレクは毛布の上で手を握った。
尋ねられると思った。
どこから来たのか。誰に傷を負わされたのか。何故、ここへ転移したのか。
しかし、彼女は何も聞かなかった。
「時間はあるから、ゆっくりお話ししましょう。まずは体をきれいにしない?」
「体を……?」
「血がついたままだから、気持ちが悪いでしょう。シャワーがあるの。必要なら手伝うわ」
「一人で大丈夫です」
アレクはすぐに答えた。
「本当に? 立って、ふらふらしない?」
「大丈夫です」
毛布をめくったところで、シーツの染みに気付いた。
「あの……ベッドを汚してしまって、申し訳ありません」
彼女は不思議そうにアレクを見たあと、首を横に振った。
「そんなこと、気にしなくていいのよ。洗えば済むんだから」
「でも……」
「子どもは、そういう心配をしなくていいの」
(子どもじゃない)
アレクはそう言いかけて、やめた。
代わりに、一人でシャワーを浴びた。体を拭いているとき、傷があった場所をもう一度確かめたが、痕さえ残っていなかった。
借りた服は彼女の祖父のもので、袖も裾も長かった。
食卓には温かなスープとパンが用意されていた。
「私はロズマリー。あなたのお名前は?」
「アレクです」
「アレクね。よろしく」
ロズマリーは、彼の長すぎる袖を折り返してくれた。
育ててくれた祖父が亡くなってから、この家で一人暮らしをしているのだという。
「おじい様のお部屋が空いているから、使ってちょうだい。本も机も、そのままになっているけれど」
「いいんですか?」
「ええ。使ってもらえたら、おじい様も喜ぶと思うわ」
案内された部屋には、本棚と机、それにきちんと整えられたベッドがあった。
「ここにあるものは、自由に使ってね」
ロズマリーが出ていくと、アレクは首にかけていた鎖を外した。
鎖には、母の指輪が通してある。
しばらく掌の上で眺めてから、机の引き出しにしまった。
そこで、ふと気付いた。
魔力が戻っている。
それどころか、今まで感じたことのないほど、体の内側に力が満ちていた。
(どういうことだ?)
傷が治っただけではない。
アレクは引き出しを閉じ、その前にしばらく立ち尽くした。
(落ち着いて考えよう。ここなら、考える時間がある)




