第59話 ニューイブスキの朝
※基本は一話完結。スキマ時間にどうぞ。
届いたのは、拍子抜けするほど素っ気ない、一枚の紙きれだった。
役所の角印が捺されたその事務通知を、ミワが声を出して読み上げた。
びみょるの店内に集まった常連たちの視線が、紙の端に集中する。
一、ニューイブスキ地区における遺構都市制度は、これを維持する。
二、ただし、防災・救急・崖および架線の構造安全、老朽インフラの点検に関しては、段階的に最新技術を導入する。
三、カイモンダケ遺構施設の解体計画は、これを撤回する。
読み終えたミワが手を止め、紙から目を上げた。
「……以上、です」
静寂に包まれる店内。
歓声も起きなければ、誰かが泣き出すこともなかった。
大逆転の勝利を収めたという実感すら湧いてこない。
ただ、全員が呆然とした顔で顔を見合わせ、「……え?」と小さな声を漏らすのが精一杯だった。
あまりにも気の抜けた決着だった。
通知の文面には、誰がどんな議論を経てこの結論に至ったのか、一切書かれていない。
手柄を誇る者の名もなければ、謝罪の言葉すらなかった。
「……勝った、んですよね……? これ」
ユラが首をかしげ、厨房の奥からおそるおそる声を出す。
ふと、ミワが通知の二項目目を指でなぞり、不思議そうに呟いた。
「『架線の点検に関しては、最新技術を導入する』……? これって、どこから出てきた話かしら」
「……あ」
ミワの言葉に、ちはるはハッと胸を突かれた。
「これ……リンタさんが言っていたことじゃありませんか?」
「え? 俺、そんなこと言いましたっけ」
カウンターの端でコーヒーを飲んでいたリンタが、心底不思議そうに目を丸くした。
「ほら、前にトロッコの遅さはそのままでいいけど、架線の点検だけは新しい技術が欲しいって……」
「うーん……言ったような、言わなかったような……全然覚えてないっすね!」
リンタはガハハと笑い、後頭部をかいた。
誰もそれ以上、彼を追及しなかった。
感謝の言葉を述べる者も、手柄として持ち上げる者もいなかった。
彼自身、作戦のつもりで言ったわけではなかったのだから。
カウンターの奥で、新聞を広げていたオーナーが、いつものようにニヤニヤと笑いながら呟いた。
「まあ、そっちの方が安くついたんでしょうねぇ」
それ以上、オーナーは何も説明しなかった。
すこしだけがっかりしてしまった自分を、ちはるはそっと胸の奥に隠した。
◇
店の中の空気は、少しずつ賑やかさを取り戻していった。
ミワは「さて、と」と小さく言って手帳を開き、何も書かずにそのままパタンと閉じた。
店の隅に座っていたユウトは、手元の端末の掲示板に『ありがとうございました』とだけ短く打ち込み、画面を閉じた。
「よーし、そうと決まれば、まこと先輩! 仕込みの続きやりますよ!」
ユラが腕まくりをして厨房へ消え、奥からはいつも通り、黙々とパン生地をこねるまことの規則正しい音が聞こえ始める。
『やれやれ……世話の焼ける人間どもじゃ……』
石窯の奥からユッキの呆れたような声が響き、トン・チン・カンの三人が「よっしゃー! じゃあ今日もアイスコーヒーとコーラとオレンジジュースね!」といつもの調子で騒ぎ出す。
「イゾウさん、回収取り下げだってさ。よかったね、これでスクラップはおあずけだ」
バイナリが軽口を叩くと、イゾウは寸分違わぬ綺麗な所作で「ご心配をおかけいたしました」と頭を下げた。
彼はアンドロイドなので、喜びに浸って乾杯したりはしない。
ただそこに静かに立っている。
そこへ、ウララがすっと歩み寄り、イゾウを見上げて微笑んだ。
「イゾウさん。予約、まだ有効ですわよね?」
イゾウは答えなかった。
ただ、一瞬だけインジケーターのランプが明滅した。
ウララもそれ以上は追及せず、嬉しそうに頷いて席へ戻っていった。
◇
翌朝。
スカイトロッコの運行は、何事もなかったかのように通常通り行われていた。
統合計画の撤去案が出されて以降、本数が削られ、待ち時間が長くなっていた線路の上に、いつもの時刻に自走式の車両が滑り込んでくる。
けれど、すべてが元の通りというわけではなかった。
早速点検の一部が最新技術によって自動化されたことで、早朝から架線によじ登って目視で点検していたリンタの仕事が、少しだけ減っていた。
「まあ、楽になって助かるっす!」
リンタは寂しさを隠すようにカラカラと笑ってみせたが、その声がほんの少しだけ引きつっていたのを、ちはるは見逃さなかった。
「朝イチの一本、動かしてきました!」
駅の方から、汗だくになったリンタが駆けてきた。
ちはるは何も言わず、彼がたどり着く前に、準備していたものをすっと差し出した。
出来立ての惣菜パンが二つと、濃いめに淹れた熱いコーヒー。
リンタは「おっ!」と声を上げ、ポケットからぴったりのコインを取り出してテーブルに置いた。
「さすがちはるさん、先読みの魔法っすね!」
「ふふ、いつも通りですから」
二人の間に、それ以上の特別な言葉は交わされなかった。
彼は立ち売りするちはるの前をUターンし、駅へ向かって走っていく。
やがて鐘の音が響いてきた。
カン、カン、カン、と高い音が朝の空気に溶けていく。
今日は霧の朝ではない。
スカイトロッコの運行規則でも、鐘を鳴らす日ではなかった。
防災や安全のための設備は最新のものに更新された。
けれど、駅の端に据え付けられた古びた鐘だけは、誰に命じられるでもなく、人の手によって鳴らされていた。
更新されなかったその鐘の音は、今日の朝に限っては規則でも約束でもなく、ただの「おはよう」という街への挨拶として響いていた。
朝日が高く上り、街を照らし出す頃、びみょるの営業が正式に始まった。
「いらっしゃいませ!」
店内に案内した客が、会計の際に無意識に耳元の情報端末を触れるような仕草をした。
「あ、そっか! 情報端末は家に置いてきたんだった。ごめんごめん、コインで払うよ」
客は笑って、財布からコインを取り出した。
厨房の奥で、グラスを磨いていたオーナーが、ニヤニヤとこちらを見ている。
「オーナー、何か言うことはないんですか?」
ちはるが少し呆れたように尋ねると、オーナーは帽子をちょんと持ち上げ、飄々と言った。
「いい朝ですねえ、ちはるさん」
「……もう、それだけですか」
ちはるはクスッと笑ってしまい、注文のついたトレーを抱えてテーブルへ向かった。
途中でエプロンの裾を足にひっかけそうになり、おっとっと、と不格好に踏みとどまる。
相変わらず、完璧な給仕にはほど遠かった。
窓の外には、海を見下ろす美しい街並みが広がっている。
全部は、守れなかった。
リンタの朝の仕事は少し減ってしまったし、街が残った理由も、ちっとも美しくなんてなかった。
誰かの劇的な活躍で勝ったわけでもない。
けれど。
明日も、明後日も、この不便で愛おしい朝が続いていく。
それを守り抜いたのだと、すこしだけ誇っていいのだと、ちはるは思った。
※次回、最終話です。




