第60話 気にしいメイドと天然パティシエ
騒動が去った後のニューイブスキの朝は、驚くほど普段通りだった。
スカイトロッコが崖沿いを滑るかすかな機械音、立ち売りのパンを買い求める客の話し声、厨房の石窯から立ち上る香ばしい匂い。
特別な記念日でもなければ、お祝いの祭りでもない。
ただの、いつもの営業日が始まろうとしていた。
メイド服に留められた、木彫りの名札にそっと指先で触れる。
『ちはる』
苗字のない、手彫りの温もりだけが残る木片。
ちはるはそれをひとつ撫でてから、パンカフェ『びみょる』のフロアに立った。
◇
「いらっしゃいませ!」
開店のドアが開くと同時に、いつもの顔ぶれが次々と滑り込んできた。
ミワ、トキワ、サワムラ、ウララ。
そして、なぜか開店直後の店内にリンタが当たり前のような顔で座り、新聞を開いている。
朝の点検の一部が自動化されたおかげで、立ち売りの後にもこうして店内で一息つく時間ができたらしかった。
ちはるはトレーを抱え、注文を聞きにテーブルへ向かった。
そして、ごく自然に、その言葉が口から零れ落ちていた。
「ーーおかえりなさいませ」
言った瞬間、ちはる自身が一番驚いて、一瞬だけ動きを止めた。
だけど、常連たちは誰も驚かなかった。
ミワが手帳から目を上げて嬉しそうに微笑み、トキワが静かに髭を撫でて頷き、ウララが目元を潤ませながら胸に手を当てている。
「ただいま帰りました、ちはるさん!」
リンタが屈託のない大声で返すと、店内に心地よい笑い声が広がった。
ちはるの胸の奥で、「探していたもの」がすこし顔を出したような気がした。
最初の頃のちはるは、ここを「仕事として通う場所」だと思っていた。
だけど違ったのだ。
この人たちは、ずっと前からこの店に、この街に、帰ってきていたのだから。
◇
昼過ぎ。
カウベルが軽やかな音を立てて鳴った。
入り口に立っていたのは、見慣れた三人の姿だった。
夫と、アミと、ルミ。
夫が一人で来店したことも、娘たちが二人だけでやってきたこともあった。
けれど、こうして家族揃って店の客としてやってきたのは、今日が初めてだった。
ちはるは一拍、間を置いた。
メイド服のエプロンの端をそっと握り直し、深々と頭を下げた。
今度は、自分の意思でしっかりと選んで、その言葉を口にする。
「……おかえりなさいませ」
三人が一瞬、きょとんとした。
家で毎日交わしているはずの挨拶が、この特別な店内で、給仕としてのちはるの口から告げられたからだ。
「……っ、ただいま」
長女のアミが、真っ赤になって顔を背けながら、小さく呟いた。
ルミは嬉しそうに「ただいまー!」と腕を伸ばし、夫はどこか照れくさそうに頭をかいていた。
テーブルに案内し、お冷やを置く。
「お母さん以外の自分」を探して始めたアルバイトだった。
不安で、空気を読んでばかりで、空回りしていた日々。
だけど巡り巡って、その場所は、お母さんであるちはるの場所とも綺麗に繋がっていたのだ。
「お待たせいたしました。焼き立てのアップルパイです」
まことが焼き上げた、定番のアップルパイを運ぶ。
複雑な新作は見た目だけ完璧で味が爆発してしまうけれど、この定番の焼き菓子を作らせたら、彼の右に出る者はいない。
「わあ、すっごくおいしい!」
ルミが頬を膨らませ、アミも一口食べて目を丸くしている。
夫も「これはすごいな……」と感動したように呟いていた。
「はは、ありがとうございます」
厨房から顔を出したまことが、申し訳なさそうに頭を下げた。
「でも、本当はリンゴの代わりに地元特産のカブを使おうか迷ったんです。味の深みが出そうだと思ったんですが、オーナーに力ずくで止められまして……」
「止められて正解ですよ、まことさん!」
ちはるが即座にツッコミを入れると、まことは「そうですかぁ」と困ったように微笑んだ。
相変わらずの天然パティシエぶりに、我が家のテーブルに温かい笑いが弾けた。
◇
夕方。
陽が傾き、店内の影が長く伸び始めた頃。
カウベルがカランと鳴り、一人の客が静かに入ってきた。
整えられた仕立てのスーツを着た男ーー超効率化推進委員会の委員長だった。
視察の時のような大人数を従えてもいなければ、手に端末も持っていない。
腕の時計を見る素振りすらなく、ただ一人の客として、入り口に立っていた。
ちはるは、迷わずに歩み寄った。
「おかえりなさいませ」
委員長は、少しだけ足を止めた。
「……私の顔も、覚えていてくださったんですね」
「はい。もちろんです」
奥のテーブルへ案内し、あの日と同じ、熱い深煎りのブレンドコーヒーを一杯淹れて置く。
委員長は静かにカップを持ち上げ、一口、ゆっくりと味わった。
「……あの方が、そんなことを書き残していたそうですね」
ぽつりと、委員長の口から言葉が零れた。
全国放送には乗せず、この店の奥でイゾウから発せられ、バイナリとちはるだけが聞いた、あの会長のログのことだった。
どうやって彼がそれを知ったのか、ちはるは尋ねなかった。
「はい」
ちはるはそれ以上、何も説明しなかった。
委員長は、それ以上何も言わなかった。
カップを見つめたまま、静かに何かを考え込むように黙り込んでいる。
カウンターの奥で、オーナーが髭を撫でながら、満足そうに頷いていた。
◇
委員長が去り、お皿やカップを片付けた。
静まり返った店内で、ちはるはメイド服をチェックし整えた。
気にしいな性格は、結局最後まで治らなかった。
今だって人の顔色ばかり気にしてしまうし、空気を読みすぎて一人でオロオロしてしまう。
自分を変えたくて飛び込んだ世界だったけれど、変われなかったところの方が、ずっと多かったかもしれない。
だけど。
空気を読んだうえで、それでも譲れない大切なものを見つけることができた。
人の表情を観察するその厄介なアンテナがあったからこそ、この街の温かさや、傷ついた誰かのSOSに気づくことができたのだ。
完璧になんてならなくていい。
気にしいのままのちはるで、明日もまた、この大好きな店で誰かを迎えればいい。
カウベルが、新たな客の到来を告げるようにカランコロンと鳴った。
「ーーおかえりなさいませ」
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。 『気にしいメイドと天然パティシエ』第1章、これにて完結です。 楽しんでいただけましたら、評価をいただけると励みになります。




