第57話 私の好きな街
※基本は一話完結。スキマ時間にどうぞ。
住民説明会の場となった入植記念館内の劇場ホールは、いつも観光客の歓声が響く場所とは思えないほど、冷ややかな静寂に包まれていた。
ステージ中央の巨大なスクリーンには、幾重にも重なるグラフと、整然と並んだ数値が白々と映し出されている。
超効率化推進委員会の進行は、どこまでも理路整然とし、隙というものがなかった。
住民の安全と、将来の世代のため。
スクリーンを背に立った役員が提示するものは、どれもぐうの音も出ないほどの正しさに満ちていた。
そしてところどころで映し出される資料のヘッダーの言葉を、役員は繰り返す。
「私どもが掲げる『効率で笑顔を。』の実現を目指し……」
客席を見渡せば、ユウト、リンタ、ミワ、トキワ、サワムラやウララ……見知った顔が整然と並んでいる。
けれど、スクリーンから放たれる圧倒的な正しさの前では、誰もが口をつぐみ、拳を握りしめることしかできていなかった。
時折、客席から不服そうな声が上がっても、委員会側は「そのご指摘は感情論に過ぎず、全体の最適化には寄与しません」と、淡々と受け流していく。
パイプ椅子に腰を下ろした私の膝の上で、発言申請の紙をつかむ手が、がたがたと震えていた。
紙には、まだ何ひとつ書かれていない。
ただの白い紙だ。
胸の奥で、自分を冷笑する自分が暴れていた。
店の中なら、おぼんを抱えて『いらっしゃいませ』と言えた。
だけどここは、びみょるの外だ。
守られた小さなカウンターも、オーブンから漂う甘い香りもない。
そんな場所で、私なんかが一体何を言えるというのだろう。
この歳になるまでずっと空気を読み続け、誰かの顔色を窺って生きてきた私が、こんな大勢の前で声を上げるなんて、笑い話にもならない。
◇
「ーー以上のように、本区画の機能統合は合理的な算出に基づいております。この街に、数字で示せる価値がこれ以上残っているとお考えでしょうか」
登壇した役員の声が、マイクを通して静かにホールへと響き渡った。
煽るでもなく、軽蔑するでもない。
本気で住民の将来を思い、心から善意で放たれたその問いかけ。
それが、私の胸の底にあった冷たい溜め池に、ぽつんと小さな石を投じた。
気づいた時には、膝が勝手に伸びていた。
立ち上がろうと決意したわけではなかった。
頭の中で「勇気を出そう」と自分を奮い立たせたわけでもない。
ただ、体が勝手に反応して、ガタンと椅子を鳴らして立ち上がってしまっていた。
自分自身が一番驚いていた。
周囲の視線が一斉に私へと集まる。
刺さるような視線に血の気が引き、喉がキュッと縮み上がった。
手が震える。
膝が笑う。
紙を握りしめた指先からすーっと温度が奪われていくのが分かった。
「あ、あの……っ」
裏返った不格好な声が、沈黙のホールに響いた。
息がうまく吸えず、胸が浅く上下する。
「わ、私……パンカフェ『びみょる』で、お給仕を、しています……ちはる、と、申します」
姓は言わなかった。
名乗る必要を感じなかった。
あの店で、あの小さな街で、みんなに呼んでもらってきたその名前だけを口にした。
◇
マイクを持たされた手が小さく震え、スピーカーがキーンと微かな雑音を拾う。
言葉が喉につかえて、なかなか先へ進まない。
委員会の役員たちが、不審そうに、あるいは困惑したようにこちらを見つめている。
私は背後に聳える巨大なグラフから目を背け、ただ、客席のあちこちにぽつぽつと座っている人たちの顔を見つめた。
私が見てきたものを、言わなきゃ。
「数字のことは……私には、よく分からなくて、すみません」
つっかえながら、呼吸を整える。
声が小さくて、何度も噛みそうになる。
「でも……私、知っています。海霧が濃い日に鐘を鳴らすのは、安全確認のためだけではなく、自分は無事だ、ここにいるぞ、と知らせるためで、入植当時から続いてるのだと」
会場のあちこちで、ささやかな息を呑む気配がした。
「それに……文化祭の日に、うちのお店に来てくれた中学生の子たちが言っていました。電子端末で頼めば一瞬で届くのに、わざわざ坂道を登って、不便な思いをして食べるパンやジュースのほうが、なんかうまいんだって」
一度息を吐き、喉の渇きを堪えながら、震える手でマイクを握り直す。
「定年を迎えて、もうやることがないって言っていた男性が、もう一度カメラを抱えて、この街の夕暮れをずっと楽しそうに撮っている姿も……私は、見てきました」
一つひとつの情景を口にするたび、胸の奥から温かい熱が湧き上がってきた。
論理も、効率も、グラフの数値も関係ない。
私という一人の人間が、この街で息をし、誰かと出逢い、その目で見届けてきた確かな手触り。
「便利で……間違いのない暮らしが、とても大切なのは分かります。でも……不便だからこそ、お互いに『大丈夫ですか』って声をかけ合えて……誰かの助けになれることが、うれしくて……」
言葉が途切れ、声が裏返りそうになる。
だけど、もう俯かなかった。
私はスクリーンの前に立ち、まっすぐに前を見据えた。
「私は……この不便で、お互いに助け合えるこの街が、大好きです」
言い切った瞬間、自分の口から出た言葉の響きが、自分自身の胸を深く貫いた。
(そうだったんだ)
この街にアルバイトで初めて足を降ろしたあの日のことを、鮮明に思い出す。
不便で、寂れていて、居場所なんてどこにもないと思っていたあの頃。
心の中で『ここは私の帰るところじゃない』と、ずっと固く殻を閉ざしていた。
(だけど、違っていた)
スカイトロッコの動き出すときの架線が軋む音。
失敗しながらも笑い合ってきた日々。
あの傷だらけのカウンター、見晴らしのいいテラス席、屋根から上る一筋の白い煙。
そこはもう、私にとって、こんなにも……こんなにも帰りたい場所になっていたのだ。
静寂が、ホールを包み込んでいた。
誰も拍手をしなかった。
歓声も上がらなかった。
ただ、圧倒的な沈黙だけが、広大な劇場空間を穏やかに満たしていた。
壇上に座っていた委員会の役員の一人がマイクへ手を伸ばした。
「……お気持ちは理解いたしますが、それは個人的な感情論でありーー」
「ーー続けてください」
遮るように響いたのは、中央に座っていた委員長の静かな声だった。
委員長は表情を変えず、ただまっすぐにこちらを見つめていた。
「……数字で示せない価値、と、あなたは言うのですね」
委員長は静かに呟くと、手元の書類をゆっくりと閉じ、壇上のマイクに向かって通告した。
「本日の採決は保留とします。提示された意見を含め、再検討の時間を設けます」
会場にざわめきが広がったが、委員長からはそれ以上の言葉はなかった。
ホールを出ると、冷たい海風がほてった頬を優しく撫でた。
出口の階段のところで、常連のみんなが待っていた。
ウララが目元を赤くして鼻をすすり、リンタが黙って何度も深々と頷いている。
ミワは手帳を開いたまま、静かに私を見つめていた。
誰も「よく言った」なんて口にしなかった。
大げさに褒め称えることもなかった。
ただ、当たり前のようにそこにいて、私を囲むようにして歩き出してくれる。
空気を読むのを、やめられたわけじゃない。
相変わらず人の顔色が気になるし、今だって心臓が痛いくらいに跳ねている。
相手の思いを察して、気を揉んでしまう性格は、きっと死ぬまで治らない。
だけど、空気を読んだうえで。
相手の気持ちを全部抱えたうえで。
それでも言いたい本心が、私にもあったのだ。
定期船乗り場に歩きながら、私は静かにエプロンの胸元をさすった。




