第56話 ちはる、委員長と対峙する
※このお話は前後編の【後編】です。前の話からお読みいただくのがおすすめです。
※基本は一話完結。スキマ時間にどうぞ。
視察団の一行が去り、西日が海側の窓から長く伸びて、磨き上げられた床を茜色に染める頃。
カウベルの硬質な音が、誰もいなくなった静かな店内に小さく響いた。
入り口の扉を押して入ってきた人影を見て、ちはるは手元でグラスを拭いていた布巾の手を止めた。
「……失礼。忘れ物をしまして」
淡々とした、抑揚のない声だった。
昼間、視察団の先頭に立っていた男ーー超効率化推進委員会の委員長が、入り口で帽子にそっと手を置いたまま立っている。
ちはるは視察団が座っていたテーブルやカウンターにそっと目を走らせたが、置き忘れられたカバンも、端末も、何ひとつ見当たらなかった。
けれど、ちはるはそのことを指摘しなかった。
指先でエプロンの端をきゅっと握り締め、胸の動揺を静かに沈める。
「いらっしゃいませ。どうぞ、お好きなお席へ」
いつも通りの声をつくり、奥の小さな二人掛けのテーブル席へ指先で促す。
委員長は小さく頷くと、迷うことなくその席へ向かい、背筋をまっすぐに伸ばして腰を下ろした。
厨房の奥から、ほんのわずかに気配が揺れた。
まことがカトラリーを片付けるカチャンというかすかな音、続いてオーナーが読んでいる新聞をめくるカサリという微かな動作音が聞こえる。
けれど、二人とも奥から出てくる気配はない。
言葉も掛けない。
ただ、ちはるの背中を静かに見守っている気配だけが、温かい空気の層のように背中に触れていた。
「ご注文はお決まりですか」
「……ブレンドコーヒーを一つ。以上です」
メニューも見ず、ただそれだけを短く告げた。
店頭に並ぶ焼き立てのパンや焼き菓子には、視線すら向けない。
ちはるは「かしこまりました」と静かに頭を下げ、厨房へと向かった。
丁寧に淹れた一杯のコーヒーをトレーに乗せ、ちはるは委員長のテーブルへ運んだ。
白い磁器のカップを静かに置き、一歩下がって控える。
委員長は湯気の立ち上るカップを見つめたまま、しばらく動かなかった。
やがて姿勢を正し、静かに口を開いた。
「一つ、伺いたい」
声の温度は変わらない。
感情の起伏がない、事務文書をそのまま読み上げるような平坦な声だった。
「なぜこんな不便な場所で、わざわざメイド服なんて着て、無駄な労働を?」
ちはるの胸の奥で、どくりと心臓が跳ねた。
「配膳は自動化できる。決済も、案内も。あなたが今日一日で歩いた距離は、すべて削減可能です」
責め立てる口調ではなかった。
畳みかけるような圧迫感もない。
ただ事実として、計算結果の数値を読み上げるだけの淡々とした響き。
ちはるの胸の奥で、何かが一気に湧き上がった。
かつての自分なら、この圧倒的な「正しさ」の前に縮み上がり、申し訳なさそうに泣いて謝っていたかもしれない。私なんかがすみません、と頭を下げていたかもしれない。
今のちはるは、怯まなかった。
エプロンを握る力にぐっと熱がこもる。
ーーだけど、言葉が出てこない。
伝えたい思いは山ほどある。
この不便さの中にどれだけの温もりがあるか。
この服を着て立つことで、どれだけの笑顔に出会えたか。
言葉が喉の奥で渋滞を起こし、形にならない。
「私は……」
掠れた声が口から零れ、そこで途切れた。
委員長は、追い詰めるような視線を向けてくることはしなかった。
ただ、感情の窺えない瞳でちはるをじっと見つめ、静かに言葉を付け足した。
「……責めているのではありません。私は本当に、分からないのです」
その瞬間、店内の空気がほんの少し変わった。
尋問ではなかった。
嘲笑でも、断罪でもなかった。
目の前にいる男は、本当に、純粋に疑問に思っているのだった。
ちはるの目が、自然と委員長の細かな所作を拾い集めていた。
目の前に置かれたコーヒーには、一度も口をつけていなかった。
添えられた砂糖とミルクを見ることもなかった。
左手の袖口から、ちらりと覗く薄型の端末時計。
委員長は数分おきにそれへ視線を落としたが、本数が減らされたスカイトロッコの次の上り便にはまだ時間があった。
膝の上で重ねられた両手が、ふとした拍子に所在なさ気に動き、無意識にポケットの端末を探そうとしていた。
そして昼間の視察のあいだ、この人はずっと、住民たちの顔を誰一人として見ていなかった。
一つひとつの小さな観察が、ちはるの中で一本の線に繋がっていく。
ーーこの人は、疲れている。
それも、自分が限界まで疲れていることに、自分自身でまったく気づいていない。
脳裏に、いつか聞いた光景が鮮やかに蘇った。
大都市の効率と最適解に心を削られ、駅の冷たいベンチで灰色の顔をして座り込んでいたという、かつてのまこと。
オーナーが注いだ温かいコーヒーで、止まりかけていた心臓を再起動させた、あの日のパティシエの姿。
目の前に座っている男の影に、あの日のまことが重なって見えた。
ちはるは静かに一歩を踏み出し、テーブルの上に置かれたまま冷めてしまったカップに手を伸ばした。
「失礼いたします」
湯気の消えた一杯をトレーに下げ、無言のまま厨房へ戻る。
熱い湯でカップを温め直し、新たに淹れ直した深煎りのブレンドを注ぐ。
立ち上る芳醇な香気とともに、再び委員長のテーブルへと歩み寄った。
何も言わず、淹れ直したばかりの温かいカップをそっと置き直す。
委員長は、入れ替えられたカップとちはるの顔を交互に見比べた。
理由を尋ねるような視線に対し、ちはるはただ静かに微笑みを返すだけだった。
委員長はしばらく固まっていたが、やがて細い息を一つ吐くと、初めて右手でカップの取っ手を取った。
持ち上げ、ゆっくりと口をつける。
ごくり、と一口飲み込み、カップをソーサーに戻した。
長い沈黙が流れた。
店内の古時計が刻む、チクタクという秒針の音だけが響く。
「……効率化を進めるとね」
ぽつりと、委員長の口から言葉が漏れた。
「部下の顔を覚える必要がなくなるんですよ。名前も、番号で足りるので」
言ってから、委員長は自ら驚いたようにふっと口をつぐんだ。
ちはるは相槌を打たなかった。
ただ、その言葉の重みを丸ごと受け止めるように、静かにそこに立っていた。
委員長はそれ以上何も言わず、残りのコーヒーを静かに飲み干すと、テーブルの端にコインを置いた。
そして、椅子を引いて立ち上がった。
「明日、住民説明会があります」
帽子を被り直しながら、整えられた声で言う。
「……あなたも、来られますか」
ちはるはまっすぐに委員長を見つめ、しっかりと頷いた。
そして、自分から静かに口を開いた。
「あの……明日、ちゃんとお答えします」
委員長の手が、帽子の庇の上で止まる。
「今日は、言葉が見つからなかったので」
委員長はほんの少しだけ意外そうに眉をひそめたが、それ以上は何も言わず、浅く頭を下げて店を出て行った。
ドアに取り付けられたカウベルが、カランと軽やかな音を立てて静まり返る。
一人残されたちはるは、テーブルに残された空のカップを見つめた。
一口もつけられずに冷めていたはずの器は、今は底まで綺麗に飲み干されていた。
人の顔色ばかりを気にして、空気を読みすぎて自分の意見も言えない、ずっと弱点だと思っていたこの「気にしい」な性格。
けれど、今日だけは違った。
この厄介なアンテナがあったからこそ、あの固く閉ざされた仮面の奥にある、言葉にならない痛みに気づくことができたのだ。
何も解決してはいない。
明日の説明会で、自分が何を話せるのかもまだ分からない。
けれど、ちはるの胸の奥には、逃げ出したいという恐れはもうなかった。
※次回、住民説明会。




