第54話 秘密協定、発動
※基本は一話完結。スキマ時間にどうぞ。
判明した入植記念館の閉鎖計画は、掲示板やブログのコメントを通じて静かに広がっていた。
けれど、行政の大きな歯車が止まったわけではない。
「……効率化、ですか」
ユウトの発信から数日が経った『びみょる』の店内。
カウンター越しにちはるが呟いた声に、まことは重々しく頷いた。
再開発の統合計画の実務は、着々と進行していた。
その一環として出されたのが、耐用年数を超過した旧型アンドロイドを含む機械設備の一斉回収・廃棄処分に関する通告だった。
乾いたカウベルの音が鳴り、ドアが開く。
「皆様、お邪魔いたします」
現れたのはイゾウだった。
初老の執事の姿をしたアンドロイドは、いつものように整った姿勢で、寸分違わぬ美しいお辞儀をした。
だが、その手には一枚の無機質な通知文書が握られていた。
イゾウはテーブル席の脇に立ったまま、静かに口を開いた。
「回収は、来週となりました。長らく、良い景色をありがとうございました」
感情の匂いを一切交えない、完璧な執事の定型文による、機械としての淡々とした報告だった。
店内が一瞬にして静まり返った。
厨房のまことが手を止め、ちはるは言葉を探したが、喉の奥で何かが詰まって声が出ない。
「……イゾウさん、それ……」
「規定でございます」
イゾウは穏やかに、だが一切の揺らぎなく答えた。
「耐用年数を超過した機体の処分は、統合計画の一環で正規の手続きでございます」
まことは通知文書を受け取った。
ヘッダーには企業名と「効率で笑顔を。」という企業理念が印字されている。
その名前を目にした瞬間、まことの手がぴくりと止まった。
「まことさん……?」
ちはるが思わず声をかけた。
「……いえ。なんでもないです」
それ以上、まことは何も言わなかった。
「ちょっと、どういうことよ!」
ドアが勢いよく開き、バイナリが飛び込んできた。
ラフな服の袖を捲り上げ、息を切らせている。
「イゾウのおじさん! なんで回収リストに載ってんのよ!」
バイナリは吐き捨てるように言った。
「調べたわよ。……誰かが意図的に切ったんじゃない。単に、誰も更新しなかっただけだわ」
バイナリの調査によれば、イゾウが廃棄を免れていた根拠である『ラボによる特殊OSの調査継続』という項目が、実質的に放置されていたのだ。
書面に残されていたのは無人称の事務用語ーー『予算措置終了』『継続審査で優先度低と判定』。
イゾウが初めてびみょるを訪れた時、熱意を持ってイゾウの謎を追っていた研究員たちの姿はそこにはなかった。
悪意などどこにもない。
ただ「規定」と「手続き」という言葉だけが、人格を持って一人歩きしていた。
「……耐用年数過ぎた機械を研究してどうする、ってことでしょ」
バイナリが低く呟いた。
失われた歴史を掘り起こすサルベージエンジニアである彼女にとって、その言葉はあまりにも重く、理不尽なものだった。
「保留を勝ち取るには、外部の正式な研究者が『この機体は現在も重要な調査対象である』と申告して審査に回すしかないわ」
バイナリが申請用紙をカウンターに叩きつけるように置いた。
「出すわよ。私が研究員として申請書を出す」
その言葉の重みに、店内の空気がピンと張り詰めた。
「まぁ、私と同じ権限を持った研究員として登録されているまことさんも同時に照会されちゃうんだけど……」
「それと申請に必要なのは本名なのよね……私、当局に名前で書類出したことないのよ」
場の沈黙が少しばかり続いた。
そして強い声が響いた。
「だめです」
まことだった。
まことが誰かの言葉を真っ向から否定するのは、極めて珍しいことだった。
まことはバイナリを真っ直ぐに見つめ、重ねて言った。
「僕のことで、バイナリさんが困るのは、だめです」
「でも、まことさん! このままじゃおじさんがーー」
「私は機械でございます」
二人を制するように、イゾウが静かに言葉を挟んだ。
「私のために、人が不利益を被る計算は、成立いたしません。これが最も効率的で、正しい結論でございます」
当事者であるイゾウ自身が、最も正しく、最も冷酷な計算結果を口にしてしまった。
理屈はすべて出そろっていた。
規定も、リスクも、イゾウ自身の計算も、すべてが彼を回収へ送り出す方向で美しく整合していた。
誰も反論できない。
誰も間違っていない。
だからこそーーちはるの胸の底から、熱いものが突き上げてきた。
「……嫌です」
ちはるは泣かなかった。
声も、震えてはいたが、崩れなかった。
「……嫌です。計算とか、規定とか、私にはわかりません。でも……イゾウさんがいなくなるのは、嫌です」
「イゾウさんは、会長さんの『景色が見える』を、ずっと探してるんですよね。それを途中でやめさせる決まりなんて、間違ってます」
論破するための理屈でも、制度への攻撃でもない。
ただ、自分の胸の中にあるたった一つの想いを、音にしてそこに置いた。
「ちはるさん。それはーー」
イゾウの言葉が、そこで途切れた。
ほんの一秒にも満たない、応答の遅れ。
何が起きたのか、ちはるにも分からない。
ただ、彼の時間が一瞬だけ止まったように見えた。
「……ハッキングして逃がしてあげるって言ったの、誰だったかしらね」
バイナリがふっと短く息を吐き、自虐気味に笑った。
「威勢のいいこと言っておいて、結局使うのは申請書類一枚なんだから笑っちゃうわ」
バイナリとイゾウの視線が交差した。
以前交わされた「秘密の共有」ーーあの同盟が、今、確かに動いた瞬間だった。
「まことさんの名前は外すわ。私の単独責任で出す」
バイナリが厚紙の申請書に、ペンで名前を書き込む。
◇
後日申請が受理され、イゾウの回収は「当面の保留」となり、審査機関へ回された。
日付の明記された回収計画は白紙に戻り、時間という名の猶予が、静かに落ちてきた。
統合計画そのものが止まったわけではない。
けれど、規定で動く組織は、規定に沿った申請が出れば、規定に従って止まるのだ。
「……今日も、良い景色です」
テラス席の近くに立ち、窓の外の水平線を見つめながら、イゾウが静かに呟いた。
厨房の奥で、まことがイゾウの背中に向かって、深く、長く頭を下げていた。
夕方、客が途切れた時間に、バイナリはテラス席でイゾウの頭部の端子に細いコードを接続し、データのログをチェックしていた。
通りすがりにコーヒーを運んできたちはるの視線の先で、バイナリの手がふと止まった。
「……何これ」
バイナリが小さく呟いた。
その声は低く、どこか困惑を含んでいた。
イゾウの記録領域の深層ーー人為的な脱獄OSとも違う、解読不能なデータ領域。
誰かが手を入れたような、説明のつかないログの蠢き。
ちはるは何のことか分からず、ただ黙って温かいカップをバイナリの脇に置いた。
バイナリもそれ以上は何も言わず、手元をじっと見つめていた。
夕風がテラスに包むように吹き込んでくる。
(規定に「嫌です」と言ったって、世界が劇的に変わるわけじゃない)
カウンターを拭きながら、ちはるは思った。
(でも……言わなければゼロだったはずの時間が、今、ここにある)
保留されたその時間が、明日へと続く静かな光のように、店内を優しく照らしていた。




