第53話 引きこもりの情報戦
※基本は一話完結。スキマ時間にどうぞ。
ミワが執筆したブログ記事は、静かな波紋を広げた。
「不便だけど、そのほうがなんか、うまい」というタイトルがつけられたその記事は、数字やデータで語られがちだった再開発の議論に、この街で生きる人々の体温を吹き込んだ。
けれど、街の空気がほんの少しだけ温かくなったからといって、迫りくる計画そのものが消えてなくなったわけではない。
「結局のところ、何がどう変わるのか……私たちにはさっぱり分からないのよね」
『びみょる』の店内では常連客たちが配られた資料を囲んで溜息をついていた。
委員会が住民向けに配布した統合計画の説明資料は、無機質な専門用語と幾重もの注記で埋め尽くされた分厚い冊子だった。
誰もが途中まで目を通し、やがてうんざりしたように閉じてしまう。
決定的な何かが書かれているはずなのに、誰もそれを最後まで読むことができないでいた。
◇
翌朝の立ち売りの時間、フードを深くかぶった人影がテーブルに近づいてきた。
「あ、ユウトさん。いらっしゃいませ」
ユウトは立ち売り用のテーブルに置かれた、例の説明資料にそっと視線を落とした。
「あの……その資料……僕、見ても、いいですか」
相変わらずのどもり気味で小さめの声。
ちはるは「どうぞ」と微笑み、資料を彼の手元へ引き寄せた。
それから三日が過ぎた朝。
立ち売りにやってきたユウトは、パンを買う代わりに、丁寧に整えられた何枚もの紙のカードをちはるに見せた。
入植記念館での仕事ーーサルベージ資料の索引づくりで使っている手書きのカードだった。
ユウトがバイナリのところで働き始めた時に見た、ちはるが知っているユウトの文字は、意外なほど綺麗で読みやすい。
「……番号が、一つ、飛んでるんです」
ユウトが指し示したのは、三つの比較だった。
一番上のカードには、資料の冒頭にある目次。
そこには確かに『別紙7 対象施設の処遇一覧』という項目が印字されている。
二番目のカードには、本文の抜粋。『※詳細は別紙7のとおり』と、確かに参照の記述がある。
そして三番目のカード。
ユウトの手書きでこう書かれていたーー『配布資料における該当ページの欠落』。
「目次にあって、本文にも参照があるのに、配られた冊子には……別紙7が、入ってないんです」
ユウトは自慢するでもなく、ただ淡々と、見つけた事実だけを口にした。
分厚い専門用語の山を前にして誰もが途中で投げ出す中、毎日黙々とカードにタグを付け続けてきたユウトだけが、資料を最後まで読み込み、その不一致に気づいたのだ。
けれど、ちはるにはその不一致が何を意味するのか、さっぱり分からなかった。
(別紙7……? どうしてそれが抜けているんだろう)
「あの……これって、何か大変なことなんですか?」
率直に尋ねたちはるに、ユウトは「わかりません」と首を振った。
「僕、ただの……索引づくりの担当なので。何が抜けているかまでは……」
「なら、バイナリさんに聞いてみますか?」
ちょうどその時、スイーツを受け取りに来たバイナリが姿を見せた。
ちはるが事情を話し、ユウトのカードを見せると、バイナリの雰囲気が一変した。
「……うわ、欠損データじゃん。それ、私の専門なんだけど」
目の色が変わり、オタクスイッチが入ったバイナリは早口でカードを繰り始めた。
「ユウトくん、これどこで気づいたの? 目次の項番と本文の参照のズレ? すごいじゃん、これ気づく人いないよ!」
まくしたてるバイナリの隣で、ユウトはただフードの奥で小さくなっていた。
「で、バイナリさん、その『別紙7』には何が書かれているんですか?」
ちはるが尋ねると、バイナリは少し眉をひそめた。
「このニューイブスキの資料だけじゃ分からないわ。でもーー失われたデータの復元はできなくても、欠けた部分の周りから、そこに何があったかを確定させることはできる」
◇
翌朝、ユウトは青ざめた顔で『びみょる』に現れた。
立ち売りの準備をしていたちはるに、手書きのカードが一枚、手渡される。
「ゆうべ……その、掲示板に、聞いてみたんです」
ユウトが画面を見せてくれた。
画面に浮かび上がるのは、昔から彼の心の支えであった匿名掲示板の文字の列。
『この委員会の資料、別の遺構地区でも配られてますよね。そっちの別紙7って、何が載ってますか』
という書き込みに、返信が並んでいた。
画面の向こうにいるのは、顔も名前も知らない人々。
けれど、各地区の掲示板の住人たちが、手元の資料を確かめ、文字だけで次々と情報を寄せてくる。
委員会は再開発の計画資料を作成する際、すべての『遺構地区』で同じフォーマットのテンプレートを使い回していた。
だからこそ、他の地区で配られた完成品の別紙7を見れば、ニューイブスキの別紙7に何が書かれるはずだったのかが、正確に浮かび上がってくる。
三枚目のカードで、ユウトの手が止まった。
それは、ニューイブスキから遠く離れた遺構地区の別紙7だった。
その地区の施設が並ぶ最後に、参考としてもう一つだけ名前が添えられている。
『同一基準適用例ーーカイモンダケ(入植記念館)/老朽化による解体』
ニューイブスキの別紙7は、作られていなかったのではない。
よその街の資料の中に、当たり前の顔をして載っていた。
「カイモンダケが……閉鎖されるんですか……?」
ちはるの声が震えた。
入植記念館は、はるか昔、この星へ入植した移民船のカイモンダケをそのまま利用した博物館だ。
多くの犠牲者を出しながらも、苦難を乗り越えて人類らしい営みができるまでに発展させた、当時の人々への追悼と感謝の心を忘れないための施設でもある。
そしてこの惑星キリシマで生まれ育った子供たちにとっては、誰もが一度は遠足で訪れる場所だった。
ちはる自身も、幼い頃にあの大きな船の影を見上げ、失われた200年の歴史に想いを馳せた記憶がある。
「意図的な隠蔽じゃないんです」
ユウトが静かに言った。
「老朽化した元移民船に、子供たちが遠足で来る……。委員会の安全基準から言えば、真っ先に処理すべきリスクなんです。だから……住民に直接関係ない施設として、資料から落とされただけで……」
「それと……たぶん、他の遺構地区でこの資料を読んだ人はいたと思います。でも……自分の街の話じゃなかったから」
委員会に悪意があったわけではない。
安全管理という正義の観点からすれば、至極当然の判断だった。
さらに、決定的な事実は、すでに全員の手元に配られていた資料の中にあった。
入植記念館へ向かう唯一の交通手段は、ニューイブスキの最南端から出る定期船だ。
そして、委員長が告げた言葉ーー『スカイトロッコを含むインフラの段階的縮小』。
崖を上り下りするトロッコが縮小され、最南端の港への航路が絶たれれば、記念館へ行く手段そのものが消える。
隠された秘密文書を探すまでもなかった。
答えの半分は、最初から全員の手に渡っていたのだ。
誰も、それを繋げて読んでいなかっただけで。
(……待って)
ちはるの胸に、冷たい衝撃が走った。
航路が消え、記念館が閉鎖されればーーユウトさんは、どこへ通えばいいのだろう。
あの時、勇気を出して自分から手を挙げ、ようやく手に入れた週2日の大切な居場所。
定期船の甲板の風が好きだと笑っていた彼の日常が、誰にも気づかれないまま奪われようとしている。
ちはるは唇を強く噛みしめたが、そのことをユウトの前で口にすることはしなかった。
彼自身が、すでにすべてを理解した上で、そこに立っているのが分かったからだ。
「これ……公開、します」
ユウトの手が、少しだけ震えていた。
隣に立っていたバイナリが、即座に身を乗り出す。
「私の名前も出していいわよ。記念館のサルベージエンジニアとして証言してあげる」
ユウトは、ゆっくりと首を横に振った。
「……顔がなくても、届きます。それ、僕がいちばんよく知ってるので」
画面の向こうにいる、名前も知らない仲間たち。
顔を合わせたこともない誰かが、夜を徹して資料を突き合わせ、この一行を引っ張り出してくれた。
ユウトが投稿した記事は、静かに拡散していった。
ネオマクラザキの人々にとっても、カイモンダケは思い出の詰まった場所だったからだ。
◇
数日後の朝。
立ち売りのワゴンに、記念館へ向かう途中のユウトが立ち寄った。
街のそこかしこで、記念館の閉鎖計画についての噂が交わされている。
大騒ぎになるわけではない。
けれど、確実に人々の意識が変わり始めていた。
「ユウトさん、いつものですね」
ちはるはクリームパンとポテトサラダパンと濃いめのコーヒーを用意すると、紙袋にもう一つ、小さな焼き菓子を添えた。
「あ……これ、頼んでないです……」
「……こっちは、手伝ってくれた皆さんの分です。直接渡せないですけど」
ちはるが微笑むと、ユウトはフードの奥で、照れくさそうに笑った。
「……渡しときます。そういうの、伝わるんで」
パンを受け取ったユウトが、定期船の出る港へと下りてゆく。
ちはるは、最後まで難しい専門用語も、情報の仕組みもよく分からないままだった。
ただ、ユウトとバイナリの間に立って、コーヒーを注いだだけだ。
それでも、縁は回り、顔も名前も知らない遠くの誰かの手が、この街の記憶を守るために動いていた。




