第52話 反撃のブログ
※基本は一話完結。スキマ時間にどうぞ。
待つのをやめた夜から数日が過ぎた。
相変わらず街には夏の日差しが降り注ぎ、スカイトロッコの架線が軋む音も、気のせいか少し低く掠れて聞こえる。
『びみょる』の店内で、ミワはテーブル席に陣取り、ノートパソコンの画面を凝視していた。
いつもなら革表紙の手帳に、ペンをさらさらと走らせているはずの人が、珍しく端末のキーボードと向き合っている。
手帳は開かれたままキーボードの横に置かれ、そこにはミワの細い筆跡でいくつもの打ち消し線が引かれており、いつになく頼りなさげであった。
画面に映し出されているのは、ネオマクラザキの主要情報メディアに掲載された広報記事だった。
『遺構都市におけるインフラ維持コストと住民の利便性に関する考察』
整ったフォントで並ぶのは、維持管理にかかる費用の数字とグラフ。
そして、老朽化したインフラが孕む「安全性」のリスクへの、極めて丁寧な言及だった。
事故が起きてからでは遅い。
住民の命と安全を守ることこそが、行政の責務であるーー。
正しくて、凍りつくように冷たい記事だった。
記事の末尾にあるコメント欄には、短い書き込みが次々と流れていた。
『まあ、正論だよね』
『安全面を考えたら撤去は当然では?』
『不便を守れって言われてもね……』
あの朝、街のあちこちで聞いた「仕方ない」という諦めの声が、今度は顔の見えない大量の文字となって画面を埋め尽くしていた。
ちはるは何も言えず、ミワのカップにコーヒーを注ぎ足した。
「……ありがとう、ちはるさん」
ミワは少しだけ表情を緩め感謝を述べるも、すぐに視線を画面に向け、小さく溜息をついた。
「……私のブログ、月間アクセス、あの記事の千分の一もないのよ」
続きの言葉を探る二人の間に割って入るように、カウベルが軽やかに鳴り、ドアが開いた。
「ごきげんよう」
優雅な仕草で入ってきたのはウララだった。
深刻な顔をしている二人を見るなり、首を傾げて近づいてくる。
「あら、お二人して何をそんなに眉間にシワを寄せていらっしゃいますの?」
ミワが無言でパソコンの画面をウララに向けた。
ウララは視線を落とし、流れるように記事に目を通していく。
グラフを眺め、数字を追い、コメント欄までしっかりと読み終えるとーー
きょとんとした顔で首をひねった。
「あら。……これ、ぜんぜん感動しませんわね」
ミワが苦笑いを浮かべて、軽く息を吸った。
「そりゃそうよ、ウララさん。これは行政の公式な解説記事だもの。感動させるために書いてあるわけじゃないわ」
「……いいえ」
ウララは真顔になり、はっきりと胸を張って言い放った。
「この人たち、自分が書いたものに心が動いていませんの。だから、読んでも何も動かないんですわ。正論の皮をかぶったただの数字の羅列に、誰が涙を流しますの?」
ウララの言葉に、ミワの手がピタリと止まった。
「……そうね。もしかしたら……勝てるところが、あるかもしれないわ」
ミワの瞳に、かすかな熱が宿った。
「私、話を聞き出すのだけは、プロですのよ」
ウララが背筋を伸ばし、自信満々に胸を叩いた。
ミワが書き始めたのは、委員会への反論記事ではなかった。
この街で確かに暮らしている、名前のある人々の、名前のある出来事の記録だった。
この星へ入植したときから続いている、霧の日の鐘の音。
徐行する車両の窓から身を乗り出して、その鐘を鳴らす整備士のこと。
古いカメラを抱えて街の路地を愛おしそうに歩く老人のこと。
そして、気にしいのまま給仕をしている一人の主婦のこと。
ミワが文章を組み立て、ウララが街へ出て言葉を拾ってくる。
二人で作る「この街の記憶」の取材が始まった。
夕方、放課後の『びみょる』に、いつもの学生三人組がやってきた。
「だから言ったろ、カン! あの課題、今日の夜までだぞ!」
「う、うるせーな……お前だってやってねえだろ」
「二人とも静かにしろよ、店の中だぞ」
チンが煽り、カンが焦って言い返し、トンが呆れたように収める。
いつもの賑やかなやり取りに、ウララがすっと寄り添った。
「ねえ、あなたたち。少しお話を聞かせてくださらない?」
ウララが見事な手際で彼らの輪に入り込み、問いを投げていく。
ミワは少し離れた席で、手帳に静かにペンを走らせていた。
「トロッコの本数が減って、不便になりませんこと?」
ウララが尋ねると、トンはストローを弄びながら、気まずそうに呟いた。
「まあ……不便っちゃ不便だけどさ。でも、トロッコ止まると、待ち時間でしゃべるしかなくなるじゃん」
「話すしかなくなりますの?」
「うん。……こいつらのくだらない話とか、聞いてるうちにどうでもよくなったりしてさ。まぁ高いところあったりするから、危ないのはやだけど、ここは変えないでほしいっていうか……」
「変えないでほしい……?」
「不便だけど、そのほうがなんか、うまいんだよ!」
ちはるは少しだけフロアの対応をユラにお願いし、ウララ、ミワと共に三人は平地神社へ向かった。
◇
誰もいない境内の静寂の中に、ザッ、ザッという心地よい竹箒の音が響いていた。
作業着の袖を捲り上げ、境内を黙々と掃いているのはレンだった。
境内に入ってきたちはるたちに気づくと、レンは手を止め、怪訝そうに眉をひそめた。
「……何、こんなところに」
ちはるは出しゃばらず、少し後ろに引いて静かに立っていた。
ウララが一歩前へ出る。
「レンさん。この神社と、この街のことについて、少しお伺いしてもよろしいかしら?」
レンは竹箒を止め、少し面倒くさそうに首をかいた。
「話すことなんて何もねーよ……」
「例えばネオマクラザキと比べてみて、ここはどうかしら?」
「……別に……俺、ここしか知らねーし……」
ミワは何も言わず、手帳にその一行を書き留めた。
◇
店に戻ると、夜が深まっていた。
集めた取材ノートを前に、ミワはキーボードの上で指を止めていた。
「……上手くまとまらないわ」
ミワが頭を抱える。
「みんなの言葉はこんなに温かいのに、文章にしようとすると、どうしてもどこか型にハマってしまうの」
ちはるは静かに近づき、淹れたてのコーヒーをミワの脇に置いた。
ミワがどうして良い文章を書けないのか、どう直せばいいのか、ちはるには分からない。
けれど、伝えるべき言葉は一つしかなかった。
「私は、ミワさんが紡ぐ言葉が大好きです」
ミワはハッとしたように目を丸くし、それから柔らかく頷いた。
「……そうね。私自身の言葉で書かなくちゃ、意味がないわね」
ミワは再び画面に向かい、猛烈な勢いでキーボードを叩き始めた。
記事の本文が完成し、最後にタイトルの入力欄でミワの手が止まる。
「タイトルは、どうしようかしら……」
横から覗き込んでいたウララが、手帳の一行を指さした。
「これですわ、ミワさん」
ウララが指し示したのは、あの学生が口にした言葉だった。
『不便だけど、そのほうがなんか、うまい』
「それですわ。これ以上のタイトルはありませんことよ」
ウララが確信に満ちた声で言った。
ミワは頷き、その一文をそのままタイトル欄に打ち込んだ。
(前に出て声を張り上げることだけが、戦いじゃない)
黙々とコーヒーを注ぎ足しながら、ちはるは自分の胸の奥で確かめていた。
(誰かが一番良い言葉を見つけるまで、隣でじっと待っていることも……たぶん、それが私にできる戦いなんだ)
深夜、ミワのブログに一件の記事が投稿された。
◇
翌朝。
ブログのアクセス数は、やはり劇的に跳ね上がることはなかった。
行政の記事に比べれば、それは小さな波紋に過ぎなかった。
けれど、寄せられたコメントの質が、まるで違っていた。
『うちの田舎の古い商店街を思い出した』
『こういう場所、昔近所にもあったな。効率だけじゃ寂しいよ』
『便利な街に住んでるけど、なんかこの記事を読んで泣きそうになった』
数字で勝ったわけではない。
大義名分を覆したわけでもない。
しかし、拡散の波は静かに、けれど確実に広がり始めていた。
かつて『週刊サルベージ』の記事に熱狂したマニア層や、古い街並みを愛する人々が、掲示板やブログのコメントでミワの記事を引用し始めたのだ。
『拙者、こういう不便さを愛する人の気持ち、痛いほど理解できるでござる』
顔の見えない味方が、一人、また一人と、小さな言葉の灯火を掲げ始めていた。
「……たった一人に届けばいいと思って書いてたんだけどね」
画面に並ぶあたたかなコメントを見つめながら、ミワは目を細めて呟いた。
「その一人が、たくさんいたみたい」
太陽の光が差し込む『びみょる』の店内で、ちはるは静かにグラスを磨いていた。
便利で高度な情報端末やネットという道具を使って、人々が不便なこの街の温もりを守ろうとしている。
それは矛盾などではなく、道具というものはいつも、それを使う人の心の側にあるのだと、ちはるは思った。
世界が劇的に変わったわけではない。
けれど、冷たい空気のなかに、小さくても確かなぬくもりが灯ったことを、ちはるは肌で感じていた。




