第51話 『びみょる』にできること
※基本は一話完結。スキマ時間にどうぞ。
あの日から数日が過ぎても、胸の底に残ったもどかしさは消えていなかった。
「仕方ない」という街の人々の言葉と、何も言い返せずに黙ってしまった自分。
そして、静かに削られていくスカイトロッコの運行本数。
答えが見つからないまま抱え込んだその思いは、朝霧のように消えてはくれず、ちはるの胸の奥でじっと燻り続けていた。
ちはるは朝の『びみょる』のカウンターで静かにグラスを拭いていた。
昼下がり、カウベルの乾いた音が店内に響いた。
入ってきたのは、見慣れない若い男性客だった。
パリッとしたジャケットを着た彼は、この街の住民ではなく、ネオマクラザキから通勤や通学で通っているような装いだ。
男性は慣れた足取りでテーブル席につくと、ポケットから出そうとしたものを、ごく当たり前の顔でテーブルの上に置こうとした。
光を反射する小さな薄型のスマート端末だった。
「あっ、お客様……!」
ちはるは慌てて駆け寄り、声を潜めた。
「すみません、この街では高度な情報端末の持ち込みや使用はご遠慮いただいているんです」
「えっ?」
男性は心底きょとんとした顔で、ちはるを見上げた。
悪意や反発の色はまったくなく、ただ不思議そうに首をひねっている。
「あれ、もう解禁されたって聞いたんすけど……違いました?」
「え……解禁……?」
「ほら、あの推進委員会が『先行実証』とか言って、一部の店舗で端末の持ち込みを試験的に許可し始めてるじゃないですか。このあたりも、もう解禁されたのかと思って」
男性は申し訳なさそうに端末をポケットへしまい、「すみません、じゃあまた後で」と軽く会釈して店を出て行った。
カウベルの余韻が静かに消えていく店内で、ちはるはしばらく立ち尽くしていた。
(私のせいで、お客様に不快な思いをさせてしまった……そして先行実証がもう、そこまで来ているの?)
スカイトロッコの撤去や統合という大きな噂の前に、もっと身近で、具体的な形をした『変化』が、すぐ足元まで迫っていた。
(このままだと、うちの店も……)
客たちが口にしていた「便利になるなら仕方ない」という言葉が、不気味な重みを持ち始めた。
制度という遠い話ではなく、目の前の一つのテーブルから、街の空気が塗り替えられようとしているのだ。
胸の奥に燻っていたもどかしさが、ひんやりとした焦りに変わっていくのが分かった。
「おや、どうかしましたか、ちはるさん?」
カウンターの向こうから、オーナーが飄々とした声をかけてきた。
いつものように整えられた髭をさすり、ギャルソン風の衣装をゆったりと揺らしている。
そのいつも通りの姿に、ちはるは思わず問いかけていた。
「オーナーは……怖くないんですか?」
「怖いですって?」
「端末の解禁も、トロッコの縮小も……どんどん街が変わっていってしまいます。この『びみょる』だって、どうなってしまうか分からないのに……」
ちはるの必死な問いかけに、オーナーは手元のグラスを拭く手を止め、珍しく少しだけ真面目な声色になった。
「怖くはないですよ。……前にも、似たような光景を見たことがあるだけです」
前に聞いた、大都市の高級カフェで店長をしていた頃のことだろうか。
オーナーは遠い目をして、静かに続けた。
「こういう変化というのはですね、いつも大きな号令から始まるわけじゃないのですよ。小さな『これくらいならいいでしょう』から始まってですね、気づいたときには、誰も何も感じなくなっているんです」
オーナーの言葉が、ちはるの胸に深く突き刺さる。
「不便さをなくすという名目のもとで、少しずつ『隙間』が埋められていく。そして、それが当たり前になった頃には、かつてそこにあった大切なものを、誰も思い出せなくなっているのです」
「そんな……。じゃあ、ただ黙って見てるしかないんですか?」
ちはるが小さく拳を握りしめると、オーナーは優しく目を細めた。
「待っていても、誰かが素敵な魔法をかけてくれるわけじゃないですよ。ここに残したいものがあるならーーそれは、自分の手で守りに行くしかないのです」
指示でも命令でもなく、ただそこに静かな選択肢を置くような言い方だった。
自分の足で立つことを、静かに促してくれているような。
自分の手で、守りに行く。
(……そうだ。私はずっと、誰かが何かしてくれるのを待っていた)
まことさんやオーナーに守られ、常連さんたちに助けられ、何か起きてもただオロオロと不安がっているだけだった。
(私に何ができるかは、まだ分からないけれどーー)
自分一人では何もできなくても、みんなで集まって考えることならできるのではないか。
「私……常連の皆さんに、声をかけてみます!」
ちはるの言葉に、オーナーは何も言わず、ただ深く微笑んで頷いた。
◇
その日の午後から、ちはるは動き出した。
店にやってくる常連客の一人ひとりに、「今日の閉店後、少しだけ時間をもらえませんか」と頭を下げて回った。
断られるかもしれない、余計な迷惑になるかもしれない。
そんな気にしいのアンテナが怯えを訴えたが、ちはるは足を止めなかった。
誰かに頼り、場を作る側に回るーー今までこの店で学んできたことのすべてが、ちはるの背中を押していた。
◇
その夜。
営業を終えた『びみょる』の店内には、かつてないほどの人が集まっていた。
中央のテーブルを囲むように椅子が寄され、カウベルの音が鳴るたびに、馴染みの顔が増えていく。
まことが温かい紅茶を淹れ、ユラが手際よくカップを配っている。
ユッキが窯のある厨房からそっとこちらを見守っていた。
サワムラが古風なカメラを抱えて座り、トキワとウララが静かに言葉を交わしていた。
あの朝の静けさが嘘のように、暖かな人の気配と声の重なりが、店内を満たしていた。
そして、街中で囁かれている諦めの言葉は、この部屋のどこにも落ちていなかった。
「……私には、ペンがあるわね」
最初に口を開いたのはミワだった。
愛用の手帳を開き、真剣な眼差しでちはるを見る。
「この街の不便さが持つ本当の価値を、文章にして伝えることならできるかもしれない」
「ぼ、僕には……その、掲示板があります」
ユウトが少しどもりながら、だが力強く言った。
「ネットの海に埋もれそうな小さな声を、集める場所なら作れますから」
隣では、バイナリとイゾウが静かに顔を見合わせ、深く頷き合っていた。
二人の間だけで通じる何かが、確かにそこにあった。
そして、部屋の端にいたリンタは、何も言わなかった。
あの朝、言葉を失った若い整備士は、唇を強く結び、大きな拳をぎゅっと握りしめていた。
その力こぶには、言葉以上の確かな意志が宿っていた。
「まあ、こういうのは初めてじゃないですからね」
カウンターの端で見ていたオーナーが、いつもの飄々とした調子に戻って付け加えた。
「せいぜい、うまく転がるように祈っておきますよ」
具体的な作戦は、まだ何も決まっていない。
これからどう動けばいいのかも、探り探りだ。
けれど、集まってくれた人々の顔を見渡しながら、ちはるの胸の奥にあった冷たい焦りは消えていた。
私は今日、はじめて、待つのをやめた。
ただそれだけのことで、胸のつかえが下り、少しだけ息がしやすくなった気がした。




