第50話 消えゆくスカイトロッコ
※基本は一話完結。スキマ時間にどうぞ。
早朝の冷気が、高台に位置するパンカフェ『びみょる』の店頭に静かに立ち込めていた。
ニューイブスキの朝は早い。
海風を含んだ霧が薄く崖を撫でる中、ちはるは手慣れた手つきで立ち売りの準備をしていた。
トングを握り、焼きたての惣菜パンやサンドイッチを紙袋へ包み、木箱へと並べていく。
頭で考えるよりも早く、手が勝手に動く。
毎朝繰り返してきた動作が、体にすっかり馴染んでいた。
ふと、手が止まる。
視線を『スカイトロッコ』の終着駅へと向けたが、そこからいつも歩いてくる人影はなかった。
(……おかしいな。リンタさんが来ない)
開店準備の立ち売りに、毎朝一番乗りでやってくる若い整備士の姿がない。
いつもなら、遠くからでも届くような元気な挨拶とともに現れ、ぴったりのコインを置いて「いつもの」を買っていくはずだった。
胸の奥で、小さなアンテナがぴくりと動く。
以前の私なら、先回りして不安を膨らませ、一人で空回りしていただろう。
けれど今は、ただ静かに彼の無事を祈り、純粋に「どうしたのだろう」と心配するだけだった。
やがて、通勤客や近所の人々の列ができ始める。
いつも通りの朝の風景だが、並んでいる客たちの会話に、ふと耳を引く言葉が混じっていた。
「ねえ、スカイトロッコの撤去と街の統合の話、聞いた?」
「ああ、あの新しい交通計画のやつだろ? まあ、便利になるなら仕方ないんじゃないか」
「不便だ不便だって言っても、実際遅いですもんね、あれ。急いでるときなんか、ヤキモキしちゃって」
「そうそう。時間が読めるようになるなら、そっちの方が助かるよ」
会話を交わす客たちの声に、悪意や不満の色は一切なかった。
むしろ、街の未来を前向きに捉えているような、ごく自然なトーンだった。
彼らは何も間違ったことは言っていない。
合理的な、至極ごもっともな意見だ。
それなのに、客が口にする「仕方ない」という言葉を聞くたび、ちはるの胸の奥に、チクリと小さな針が刺さるような感覚があった。
(……どうしてだろう。便利になるのは、いいことのはずなのに……)
なぜ胸が痛むのか、その理由は自分でも分からない。
分からないまま、ちはるは黙って笑顔を保ち、パンの包みを客へと手渡した。
列が途切れ、立ち売りのテーブルの上が空になると、ちはるはゆっくりと片付けを始めた。
「す、すいませんっす……! 遅くなっちまって……!」
息を切らした大声が響き、ちはるは振り向いた。
肩を上下させながら走ってきたのは、リンタだった。
作業着の袖をまくり、帽子を被った彼が、申し訳なさそうに頭を下げている。
「あ、リンタさん。おはようございます。ちょうど売り切れてしまったところです」
ちはるは店内を指差し、穏やかに声をかけた。
「中で座って待っていてください」
「えっ……売り切れっすよね?」
リンタが一瞬、遠慮がちに目を丸くした。
「大丈夫ですよ、すぐ用意しますから」
「そうっすか……では、お邪魔します……っす」
恐縮した様子でドアをくぐったリンタは、居心地悪そうに周囲を見回した。
油のついた手ぬぐいで丁寧に手を拭き、作業帽を脱いで抱え込むと、言われた通りテーブル席の椅子に小さく腰掛けた。
使い込まれた作業着が、アンティーク調の店内で少しだけ浮いて見えた。
「すぐにいつものお飲み物とパンをお持ちしますね」
ちはるは厨房へ向かい、濃いめに淹れたコーヒーと惣菜パンをトレーに載せた。
客席に戻ると、リンタはテーブルに肘をつき、ぽつりぽつりと話し始めた。
いつものような威勢の良い大声ではなく、どこか言葉を探すような静かな口調だった。
「……今朝、親方の様子が、ちょっと変だったんすよ」
「親方さんの?」
「ええ。ここんとこずっと、古い点検表ばっかり睨んでて……。今朝もなんか様子がおかしかったんで、少し見てから来たら遅くなっちまいました」
リンタは申し訳なさそうに頭を掻いた。
世間で囁かれ始めた撤去や統合の噂に、頑固そうな親方も心を痛めているのだろうか。
ちはるはそれ以上深く追及せず、温かいコーヒーのカップを彼の前に置いた。
リンタはカップを手にとり、湯気をじっと見つめながら、何気ない調子でぼやいた。
「……まあ、トロッコなんて遅くていいんすよ。……架線の点検だけは、新しいのが欲しいっすけどね」
「架線の点検、ですか?」
「ええ、まあ。現場の愚痴っすよ」
自嘲気味に笑うリンタに、ちはるは優しく相槌を打った。
現場を預かる整備士としての苦労なのだろうと受け止め、それ以上は踏み込まなかった。
「……リンタさん、大丈夫ですか?」
心配になって尋ねたちはるの言葉に、リンタの手がぴたりと止まった。
数秒間、店内に沈黙が落ちる。
古時計のチクタクという規則正しい針の音だけが、やけに大きく響いた。
やがて、リンタは顔を上げると、いつものように破顔した。
「大丈夫っすよ! 便利になるなら、しゃあないっすから!」
ハハハ、と明るく笑う彼の表情に、ちはるは言葉を失った。
お会計の準備をするため、ちはるがレジへ向かうと、リンタの視線がふと壁の一点に注がれた。
そこには、額に入った一枚の写真が飾られていた。
以前、サワムラが撮影し、店に贈ってくれたものだ。
その一枚の写真の中には、三つの時間が収められていた。
テーブルの上に並べられた、古い写真と、今のスカイトロッコの写真。
そして窓の向こうに見える本物の崖と架線。
リンタは立ち上がり、何も言わずにその写真を見つめた。
写真の中に写るはるか昔の風景には、錆びだらけの古い鐘が写っている。
かつて彼自身が「今じゃ俺たちが毎日ピカピカに磨いてる」と胸を張っていた、あの鐘だ。
写真を見つめるリンタの横顔には、一切の笑顔がなかった。
無言のまま静かに佇む彼の背中に、ちはるは胸が締め付けられるような痛みを覚えた。
ちはるもまた、リンタの隣で同じ写真を見上げた。
(不便で、遅くて、よく止まる……。でも……)
毎朝、崖を渡ってくるあの低いモーターの音。
霧の日に響く鐘の音。
それは単なる古い乗り物の音ではなく、この街が生きている証そのものではなかっただろうか。
何か言わなければ、と思った。
リンタさんに、街の人たちに、何か言葉をかけなければと。
けれど、ちはるが口を開きかけても、声は喉の奥でつっかえたままだった。
「便利になるなら仕方ない」……そう言われたら、私はなんて言い返せばいいんだろう。
守りたいという気持ちも、寂しいという思いも、すべて自分勝手な我儘のように思えてしまう。
答えは見つからないまま、ちはるはただ、強く唇を噛みしめることしかできなかった。
「では、お代、ここに置いておくっす」
惣菜パンの袋を手にしたリンタが、頭を下げた。
「あ……ありがとうございました。いってらっしゃいませ!」
「うす! 行ってきます!」
店を出ていくリンタの声は、いつも通り大きかった。
店内から見送るちはるの視線の先で、彼の後ろ姿が朝霧の中へと消えていく。
心なしか、その背中にはいつもより少しだけ力が入っているように見えた。
窓の外、朝霧が漂う崖に沿って、スカイトロッコがゆっくりと架線を這っていく。
ふと時刻表に目をやると、運行の間隔が以前よりもあいていることに気づく。
一本が通過してから次が来るまでの時間が、明らかに長くなっていた。
本数が減らされているのだ。
街のどこにも、撤去が決まったという張り紙はない。
それなのに、静かに、確実に、削られていく日常があった。
店内には、変わらず古時計の音だけが刻まれていた。
「仕方ない」の一言で片付けられていくものの中に、大切な人の日々がある。
それを、私はまだ誰にもうまく言えない。
でもーーこのもどかしさこそが、たぶん初めの一歩なんだと思った。
ちはるは胸の中に残るこのもどかしさを感じながら、静かにカウンターを拭き始めた。




