↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
気にしいメイドと天然パティシエ ~辺境惑星のパンカフェ日誌~  作者: 餅酒むぎ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
50/60

第50話 消えゆくスカイトロッコ

※基本は一話完結。スキマ時間にどうぞ。

 早朝の冷気が、高台に位置するパンカフェ『びみょる』の店頭に静かに立ち込めていた。


 ニューイブスキの朝は早い。

 海風を含んだ霧が薄く崖を撫でる中、ちはるは手慣れた手つきで立ち売りの準備をしていた。


 トングを握り、焼きたての惣菜パンやサンドイッチを紙袋へ包み、木箱へと並べていく。


 頭で考えるよりも早く、手が勝手に動く。

 毎朝繰り返してきた動作が、体にすっかり馴染んでいた。


 ふと、手が止まる。


 視線を『スカイトロッコ』の終着駅へと向けたが、そこからいつも歩いてくる人影はなかった。


(……おかしいな。リンタさんが来ない)


 開店準備の立ち売りに、毎朝一番乗りでやってくる若い整備士の姿がない。

 いつもなら、遠くからでも届くような元気な挨拶とともに現れ、ぴったりのコインを置いて「いつもの」を買っていくはずだった。


 胸の奥で、小さなアンテナがぴくりと動く。


 以前の私なら、先回りして不安を膨らませ、一人で空回りしていただろう。

 けれど今は、ただ静かに彼の無事を祈り、純粋に「どうしたのだろう」と心配するだけだった。


 やがて、通勤客や近所の人々の列ができ始める。


 いつも通りの朝の風景だが、並んでいる客たちの会話に、ふと耳を引く言葉が混じっていた。


「ねえ、スカイトロッコの撤去と街の統合の話、聞いた?」

「ああ、あの新しい交通計画のやつだろ? まあ、便利になるなら仕方ないんじゃないか」

「不便だ不便だって言っても、実際遅いですもんね、あれ。急いでるときなんか、ヤキモキしちゃって」

「そうそう。時間が読めるようになるなら、そっちの方が助かるよ」


 会話を交わす客たちの声に、悪意や不満の色は一切なかった。


 むしろ、街の未来を前向きに捉えているような、ごく自然なトーンだった。

 彼らは何も間違ったことは言っていない。

 合理的な、至極ごもっともな意見だ。


 それなのに、客が口にする「仕方ない」という言葉を聞くたび、ちはるの胸の奥に、チクリと小さな針が刺さるような感覚があった。


(……どうしてだろう。便利になるのは、いいことのはずなのに……)


 なぜ胸が痛むのか、その理由は自分でも分からない。

 分からないまま、ちはるは黙って笑顔を保ち、パンの包みを客へと手渡した。

 列が途切れ、立ち売りのテーブルの上が空になると、ちはるはゆっくりと片付けを始めた。


「す、すいませんっす……! 遅くなっちまって……!」


 息を切らした大声が響き、ちはるは振り向いた。


 肩を上下させながら走ってきたのは、リンタだった。

 作業着の袖をまくり、帽子を被った彼が、申し訳なさそうに頭を下げている。


「あ、リンタさん。おはようございます。ちょうど売り切れてしまったところです」


 ちはるは店内を指差し、穏やかに声をかけた。


「中で座って待っていてください」

「えっ……売り切れっすよね?」


 リンタが一瞬、遠慮がちに目を丸くした。


「大丈夫ですよ、すぐ用意しますから」

「そうっすか……では、お邪魔します……っす」


 恐縮した様子でドアをくぐったリンタは、居心地悪そうに周囲を見回した。

 油のついた手ぬぐいで丁寧に手を拭き、作業帽を脱いで抱え込むと、言われた通りテーブル席の椅子に小さく腰掛けた。


 使い込まれた作業着が、アンティーク調の店内で少しだけ浮いて見えた。


「すぐにいつものお飲み物とパンをお持ちしますね」


 ちはるは厨房へ向かい、濃いめに淹れたコーヒーと惣菜パンをトレーに載せた。


 客席に戻ると、リンタはテーブルに肘をつき、ぽつりぽつりと話し始めた。

 いつものような威勢の良い大声ではなく、どこか言葉を探すような静かな口調だった。


「……今朝、親方の様子が、ちょっと変だったんすよ」

「親方さんの?」

「ええ。ここんとこずっと、古い点検表ばっかり睨んでて……。今朝もなんか様子がおかしかったんで、少し見てから来たら遅くなっちまいました」


 リンタは申し訳なさそうに頭を掻いた。

 世間で囁かれ始めた撤去や統合の噂に、頑固そうな親方も心を痛めているのだろうか。


 ちはるはそれ以上深く追及せず、温かいコーヒーのカップを彼の前に置いた。


 リンタはカップを手にとり、湯気をじっと見つめながら、何気ない調子でぼやいた。


「……まあ、トロッコなんて遅くていいんすよ。……架線の点検だけは、新しいのが欲しいっすけどね」

「架線の点検、ですか?」

「ええ、まあ。現場の愚痴っすよ」


 自嘲気味に笑うリンタに、ちはるは優しく相槌を打った。

 現場を預かる整備士としての苦労なのだろうと受け止め、それ以上は踏み込まなかった。


「……リンタさん、大丈夫ですか?」


 心配になって尋ねたちはるの言葉に、リンタの手がぴたりと止まった。


 数秒間、店内に沈黙が落ちる。

 古時計のチクタクという規則正しい針の音だけが、やけに大きく響いた。


 やがて、リンタは顔を上げると、いつものように破顔した。


「大丈夫っすよ! 便利になるなら、しゃあないっすから!」


 ハハハ、と明るく笑う彼の表情に、ちはるは言葉を失った。


 お会計の準備をするため、ちはるがレジへ向かうと、リンタの視線がふと壁の一点に注がれた。


 そこには、額に入った一枚の写真が飾られていた。

 以前、サワムラが撮影し、店に贈ってくれたものだ。


 その一枚の写真の中には、三つの時間が収められていた。


 テーブルの上に並べられた、古い写真と、今のスカイトロッコの写真。

 そして窓の向こうに見える本物の崖と架線。


 リンタは立ち上がり、何も言わずにその写真を見つめた。


 写真の中に写るはるか昔の風景には、錆びだらけの古い鐘が写っている。

 かつて彼自身が「今じゃ俺たちが毎日ピカピカに磨いてる」と胸を張っていた、あの鐘だ。


 写真を見つめるリンタの横顔には、一切の笑顔がなかった。


 無言のまま静かに佇む彼の背中に、ちはるは胸が締め付けられるような痛みを覚えた。


 ちはるもまた、リンタの隣で同じ写真を見上げた。


(不便で、遅くて、よく止まる……。でも……)


 毎朝、崖を渡ってくるあの低いモーターの音。

 霧の日に響く鐘の音。


 それは単なる古い乗り物の音ではなく、この街が生きている証そのものではなかっただろうか。


 何か言わなければ、と思った。


 リンタさんに、街の人たちに、何か言葉をかけなければと。

 けれど、ちはるが口を開きかけても、声は喉の奥でつっかえたままだった。


 「便利になるなら仕方ない」……そう言われたら、私はなんて言い返せばいいんだろう。

 守りたいという気持ちも、寂しいという思いも、すべて自分勝手な我儘のように思えてしまう。


 答えは見つからないまま、ちはるはただ、強く唇を噛みしめることしかできなかった。


「では、お代、ここに置いておくっす」


 惣菜パンの袋を手にしたリンタが、頭を下げた。


「あ……ありがとうございました。いってらっしゃいませ!」

「うす! 行ってきます!」


 店を出ていくリンタの声は、いつも通り大きかった。

 店内から見送るちはるの視線の先で、彼の後ろ姿が朝霧の中へと消えていく。


 心なしか、その背中にはいつもより少しだけ力が入っているように見えた。


 窓の外、朝霧が漂う崖に沿って、スカイトロッコがゆっくりと架線を這っていく。


 ふと時刻表に目をやると、運行の間隔が以前よりもあいていることに気づく。


 一本が通過してから次が来るまでの時間が、明らかに長くなっていた。

 本数が減らされているのだ。


 街のどこにも、撤去が決まったという張り紙はない。

 それなのに、静かに、確実に、削られていく日常があった。


 店内には、変わらず古時計の音だけが刻まれていた。


 「仕方ない」の一言で片付けられていくものの中に、大切な人の日々がある。


 それを、私はまだ誰にもうまく言えない。


 でもーーこのもどかしさこそが、たぶん初めの一歩なんだと思った。


 ちはるは胸の中に残るこのもどかしさを感じながら、静かにカウンターを拭き始めた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。