第49話 ネオマクラザキからの使者
※基本は一話完結。スキマ時間にどうぞ。
カウベルがカランと小さく揺れた。
店内の椅子をすべて下ろし、開店準備を整えたばかりの静かな空間。
いつもなら、ここからゆっくりと朝の穏やかな時間が流れ始めるはずだった。
パタン、と木製の扉が開く。
「いらっしゃいませーー」
歓待の言葉を最後まで紡ぐことができなかった。
入ってきたのは、昨日の夜、通りの向こうを足早に通り過ぎていったあの人物だった。
この街の誰も着ていない、機能性を最優先した仕立てのスーツ。
ネオマクラザキの駅で毎朝すれ違う、あの人たちと同じ服だ。
三十代半ばほどのその男は、私たちが客を迎える隙すら与えない、昨夜と同じように無機質な歩調で店内へと歩み寄ってきた。
「超効率化推進委員会の者です。オーナーに、正式なご説明があって伺いました」
差し出されたのは、ニューイブスキの高度技術持ち込み規制に配慮された、一枚の古風な厚紙の書類だった。
そこには『超効率化推進委員会 委員長』という肩書と名刺代わりの印影が押されている。
(……委員長、本人……?)
胸の奥がキュッと強張った。
いつものような内面の軽妙なツッコミなど、ひとかけらも浮かんでこない。
異質な空気の波が、びみょるの空間を静かに侵食していく。
「やあ、これはこれは重役のご到着ですねぇ」
厨房から出てきたオーナーは、いつもの飄々とした調子を一切崩していなかった。
整えられた髭を軽く撫でながら、何でもない客を迎えるように空いているテーブル席を指さす。
「どうぞ、お掛けになってください。冷たいお茶でも出しましょうか」
「いえ、お構いなく。長居をするつもりはありませんので、このまま失礼させていただきます」
男は座ることも固辞し、まっすぐな立ち姿のまま書類をテーブルの上に滑らせた。
「……なるほど。ご丁寧に、ありがとうございます。書類を拝見いたします」
オーナーは書類を受け取り、ゆっくりと目を通し始めた。
男は、オーナーが読み終えるのを待たなかった。
「単刀直入に申し上げます。本都市ーーニューイブスキにおける遺構都市制度の見直し、および近隣の効率都市群への統合計画が、正式に推進方針として決定いたしました」
その声には一切の抑揚がない。
高圧的というわけでも、冷酷というわけでもない。
ただ、巨大なシステムの一部として粛々と任務を遂行する、律儀なまでの冷たさがあった。
「……統合、ですか」
奥で控えていたまことが、小さく声を漏らした。
ちはるは思わずまことの手に視線をやった。
彼はトレーを握りしめたまま、微動だにせず男を見つめていた。
その指先が、白くなるほど強く強張っている。
(まことさん……)
男は淡々と説明を続ける。
「近年の急激な人口減少、および観光客の減少に伴い、この孤立した断崖都市を現状のまま維持することは、行政運営の効率において極めて不合理であるという結論に達しました。今後、スカイトロッコを含むインフラの段階的縮小を進め、住民の皆様には近隣の再開発エリアへの移転を促す説明会を順次執り行います」
効率。
スカイトロッコの縮小。
移転。
男の口から発せられる言葉は、どれも手続きとして筋が通っていて、反論の隙がないように聞こえた。
そして、それらの言葉が吐き出されるたびに、この店に満ちていた温かな空気が冷たく凍りついていくようだった。
男の顔を盗み見たとき、ふと、その目元に色濃く残る疲弊の陰に気づいた。
この人もまた、朝から晩まで分刻みのスケジュールに追われ、数字と効率の波に押し流されながら、この報告をするためだけにわざわざスカイトロッコに揺られてやってきたのだろうか。
「ご意見やご質問があれば、追って開催される住民説明会の場にて承ります。では」
男は一礼し、踵を返そうとした。
「あのーー!」
気づけば、私は声を上げていた。
男が静かに足を止め、振り返る。その無感情な視線が、私を射抜いた。
「何か?」
胸の奥から、経験したことのない巨大な感情が怒涛のように突き上げてきていた。
喉の奥がカサカサに乾き、心臓が破裂しそうなほど激しく早鐘を打つ。
嫌だ。
嫌だ、絶対に嫌だ。
こんな身勝手な理由で、この街を、この店を失うなんて嫌だ。
リンタさんが愛おしそうに整備するトロッコも、ミワさんが平和だと笑うお茶の時間も、ユッキちゃんとレン君のささやかな恋も、バイナリさんとイゾウさんの軽口も、ユラちゃんが一生懸命焼いているシフォンケーキも。
昨日、あれほど愛おしいと感じたあの「隙間」だらけの毎日が、消されてしまうなんてーー嫌だ!
「あの……私……」
口を開く。
何かを言わなければと、必死で言葉を探す。
けれど、何も出てこなかった。
ミワさんのように、論理立てて街の価値を語る知識も私にはない。
リンタさんのように、現場の熱量で想いをぶつける強さもない。
この街がどれほど大切で、どうして守りたいのか、自分の気持ちを説明するための言葉が、私の中にはひとつも用意されていなかったのだ。
ただ胸の奥で「嫌だ」という感情だけが空回りし、声にならない吐息となって漏れるだけだった。
男は私の混乱した様子を静かに見つめていたが、感情を一切差し挟むことなく、短く告げた。
「説明会の日程は、追って通知いたします」
パタン。
静かに扉が閉まり、男の姿が消えた。
カウベルの音が、やけに重く余韻を引きずって店内に響く。
誰も、何も言わなかった。
あんなに温かかった店内が、まるで嘘のように静まり返っている。
オーナーは珍しく、いつもの能天気な鼻歌を歌うことも、軽い冗談を飛ばすこともなかった。
帽子を脱ぎ、静かに窓の外を見つめている。
その背中は、どこか遠い昔の出来事を思い出しているかのように深く、重かった。
「……大丈夫ですよ、ちはるさん」
静寂を破ったのは、まことの声だった。
振り返ると、まことはいつもの優しい笑みを浮かべようとしていた。
けれど、その声は微妙に震えていて、まるで自分自身に言い聞かせるような、頼りない響きを孕んでいた。
「僕たちのパンとケーキは……ここに来てくれる人たちが、ちゃんと待ってくれていますから。……大丈夫です」
「……はい」
ちはるは短く答えるのが精一杯だった。
生まれて初めて、心が破裂するくらい、はっきりとした声で「嫌だ」と思った。
でも、その「嫌だ」という叫びを、今の私は、誰にもうまく伝えることができない。
窓の外では、何も知らない夏の陽光が、いつものように石畳の街並みを眩しく照らし続けていた。




