第48話 嵐の前の静けさ
※基本は一話完結。スキマ時間にどうぞ。
ニューイブスキの断崖から吹き上がる朝の海風が、パンカフェ『びみょる』を小さく揺らした。
開店前の忙しい店内。
ちはるはレジの引き出しを滑らかに開け、そこから立ち売りの釣銭用コインを木の箱へ移し替える。
そしていつものようにテーブルを店頭に配置。
まことが焼きたてのパンを運んでくる足音のテンポ、それに応じているのか何をしているのかわからないオーナーの能天気な声掛け。
そのどれもが、体に染みついているように自然だった。
アルバイトを始めたばかりの頃は、手元を凝視しながら一つひとつの動作に神経をすり減らしていた。
お釣りを渡す手すら震えていたあの頃の自分が、まるで遠い昔のようだ。
今の私の手は、何の迷いもなく、当たり前のようにこの『びみょる』というお店に溶け込んでいる。
「ちはるさん、立ち売りのサンドイッチの準備、終わりましたよ」
厨房から顔を出したまことが、いつもの遠慮がちな笑顔で言った。
「ありがとうございます、まことさん。じゃあ、朝の立ち売りを始めましょう」
「はーい、今日も良い一日になりそうだねぇ」
自分で仕立てたというベストの糸くずを払いながらオーナーがいつものようにのんびりと現れる。
特別な会話はない。
けれど、互いの呼吸が心地よく噛み合っている。
朝の立ち売り、最初に訪れたのはスカイトロッコ整備士のリンタだった。
仕事モードの作業着姿で歩み寄ると、ちはるがすでに用意していた「いつものやつ」を受け取り、淹れたてのコーヒーを飲み、一息ついた。
「ふう……助かるっす。今日もスカイトロッコは順調っすよ」
「今日はちょっと風が強いですね」
「そうっすね、昼前には弱まるって予報だったっす、まぁあとは霧が出なきゃ良いっすね」
「相変わらずトロッコ愛がすごい!」
ちはるが笑うと、リンタは「相棒っすから!」と大声で答えて、そのまま慌ただしく現場へと戻っていった。
風がだいぶ穏やかになった昼頃、ユッキとレンが連れ立って店の前を通った。
さらさらの黒いストレートヘアで白いワンピースを着た10歳の少女姿になっている窯の妖精は、レンの隣でいかにも年相応といった風を装いながら
「今日は暑いからアイスがいい!」
などと甲高い声でおねだりしている。
レンが「はいはい」と困ったように笑いながらそれに従う姿は、どこか微笑ましい。
昼を過ぎた頃、ブログ用のカメラを手にしたミワがやってきた。
「こんにちは、ちはるさん、ちょっと休ませてくださいな」
いつものような笑顔のミワであったが、いろいろ歩き回って来たのだろうか、少し汗をかいているようだった。
「今日は特に目立ったニュースもなくて、本当に平和ね。ブログに書くネタがなくて困っちゃうわ」
「そんな日もありますよ」
ちはるは麦茶をミワに差し出した。
ミワは感謝を示しながら喉を潤し、一息ついた。
「ふぅ、生き返ったわ」
ミワは大げさにおどけてみせた。
そして手帳を開く表情は穏やかだ。
平和であることがネタにならないという贅沢な悩みを、彼女自身も楽しんでいるようだった。
やがていつものように手帳を開いたまま、うつらうつらと頭を揺らしていた。
夕方近くには、街の外から通う中学生三人組が賑やかになだれ込んできた。
「この前のテストどうだった? 俺はもうだめ追試決定、お前もだよな!」
チンがそう言って、カンの肩に手を回していた。
「いや、、」
カンは否定する。
あれはたぶんいい点だったのだろう。
「お前まさか! 赤点じゃねーの? いっしょに勉強しないって言ったじゃねーかよ! 裏切者ー!」
肩に回した手に力が入り、カンの頭が激しく揺さぶられている。
「まぁまぁやめろって、ケガするぞ!」
トンが呆れてチンを止めに入る。
そんな他愛もない世間話をしながらドリンクを飲む彼らを、ちはるは温かな目で見守る。
厨房の奥では、新人のユラが『シフォン・ド・びみょる』の生地を真剣な眼差しで混ぜ合わせていた。
その横で、まことが過剰な指導を避けるように、そっと見守る姿勢を保っている。
厨房をそっと覗きながら、あの二人うまくやっているかな?
と一瞬思ったけど、静かにフロアの給仕に戻った。
横目で見たテラス席には、今日もイゾウが座っていた。
いつものように背筋をピンと伸ばし、海岸線を見つめ、何かの思いに耽っているようだった。
ふと、ちはるの脳裏にネオマクラザキの我が家の風景が浮かんだ。
夫と、娘のアミとルミ。
先日店に来てくれたときの温かい笑顔。
家族の日常があり、そして今、自分にはこの場所の日常もある。
ーー夜も深くなり、客足が途絶えた。
パタン、と看板を片付け、椅子をテーブルの上に上げ、床を掃き、店内の灯りを休ませるように一つずつ落としていく。
古い柱時計のチクタクという規則的な音が小さく鳴っている。
レジの締め作業をするちはる。
厨房を掃除するまこととユラ。
BARカウンター奥のお酒の瓶やグラスを綺麗にしているオーナー。
四人での閉店作業。
それぞれが黙々と行っている。
そこで交わされる言葉は最低限だ。
静けさの中で、ちはるはふと思い出していた。
以前、オーナーが口にしていた言葉を。
『完璧な世界には隙間がない』
あの時は頭で理解したつもりになっていたけれど、今は違う。
このレトロで、少し不便で、あちこちに余白がある街。
そして、どこか抜けていて、けれど温かい人々が集まるこの店。
この『隙間』だらけの毎日が、どうしようもなく愛おしい。
体に馴染んだ手つきと同じように、この感覚が、私の胸の奥深くにじんわりと染み渡っていた。
四人は作業を終え、びみょるの扉をくぐった。
「ふぅ、今日も良い一日だったねぇ」
オーナーが鼻歌混じりに鍵をかけ、帽子を深めにかぶり直す。
「はい。明日もこの調子で頑張りましょう」
まことが柔らかく笑う。
「明日もまたたくさん教えてください! まこと先輩!」
ユラがキラキラした目でまことを見つめる。
「そうですね」
ちはるも微笑み、四人で並んで店を後にした。
街灯がちらちらと揺れるように照らしている石畳を進み、すぐそこの終着駅に向かった。
ちはるはふと視線を感じて振り返った。
レトロな街灯の影を、足早に横切っていく人物が見えた。
機能性を最優先したような、この街ではあまり見かけない仕立ての服。
石畳を、まっすぐ一定の歩幅で。立ち止まりも、街灯を見上げもしない。
少しだけ引っかかりを覚えたものの、ちはるはすぐに前を向いた。
スカイトロッコに乗って、早く家族の待つ家に帰ろう。
明日はどんなパンが焼き上がるだろうか。
アルバイトを始めたばかりの怯えていた私に、教えてあげたい。
何も起きない変わらない毎日が、こんなにも嬉しいものだなんて、あの頃の私は知らなかった。
この場所で流れる時間が、この愛おしい隙間が、これからもずっとーー。
そこまで考えて、ちはるはなぜだか急に照れくさくなり、思考を途切れさせた。
「ちはる先輩! トロッコが来ますよー」
ユラが振り返って手を振っている。
「はーい!」
ちはるは小さな足音を立てて、三人の待つ駅のホームへと駆け出した。




