第46話 視察のお客様
※基本は一話完結。スキマ時間にどうぞ。
カウベルの乾いた音が、静かな店内に響いた。
「……視察です」
思わず手に持っていた布巾を落としそうになった。
入口に立っていたのは、見覚えがありすぎる人物だった。
ネオマクラザキ側の効率主義を絵に描いたような青年店主。
平地神社の夏祭りで勃発した「サンドイッチ戦争」で、冷徹な効率論を引っ提げて勝負を挑んできた。
そしてミワの強すぎる援護射撃の前に屈した、あの彼である。
「モリインダストリーグループの市場調査の一環でしてね。そう、うちの店もモリインダストリーグループでね。本部からの依頼なのですよ」
ニューイブスキの持ち込み規制をギリギリすり抜ける情報端末『タウルス』を、まるで警察手帳のように持ち、こちらに見せている。
「こういう非効率な個人店がなぜ生き残っているのか、データを取得しに来ただけです」
眉間に深くシワを寄せ、仏頂面で言い放つその姿に、ちはるは心の中で叫んだ。
(あ、また来た……! 四角形の刺客……!)
あのときの苛烈な煽り合いが脳裏をよぎり、ちはるは思わず身構えてしまう。
(今度はどんな攻撃をしてくるのか……私では勝てないわ……すぐにでもミワさんを呼びたいところよね……)
ちはるのそのような臨戦態勢はよそに、厨房の奥から出てきたまことは、何一つ変わらない穏やかな笑みを浮かべていた。
「いらっしゃいませ。どうぞ、お好きな席へ」
前回の遺恨など一切感じさせない、いつも通りのフラットな出迎え。
青年はどこか拍子抜けしたようにフンと鼻を鳴らすと、手近なテラス近くの席に腰を下ろした。
「……視察には実食データが要ります。それだけです。一品、何でもいいから持ってきてください」
強がりの言い訳を並べ立てる彼に、ちはるは「かしこまりました」と深く一礼した。
ーーけれど、注文をメモしながら、ちはるは違和感を覚えた。
青年がタウルスの画面を叩く指先が、心なしか小さく震えている。
ふと、その端末に目がいった。
角が丸く擦り減った、飴色の樹脂。
今どきどこにも売っていない、明らかに古い機械だ。
効率、効率と繰り返すこの人が、どうして新しい端末を使わないのだろう。
「……その端末、ずいぶん長くお使いなんですね」
青年の指が、一瞬止まった。
「……買い替える理由がないですからね。まだ動きます」
ぶっきらぼうな答えだった。
けれどそれは、彼が今日はじめて口にした、数字の出てこない言葉だった。
彼の目元に薄く影を落とす隈。
さっきの声にも、かつてのような鋭い勢いがないように感じた。
あの夏祭りの日のように、舌鋒鋭く効率主義の講釈をぶちまける気力すら湧かない様子だった。
(もしかして、疲れてる……?)
胸の奥で、カチリと小さな音がした。
以前まことから言われた言葉が蘇る。
『先回りは、自分の心配に使うと空回り。でも、お客さんに使うと魔法になる』。
かつて「敵」として対峙した相手。
本来なら苦手意識を持ってしかるべきなのに、ちはるの「気にしい」なアンテナは、目の前の彼が発するSOSのような気配を勝手に拾い上げてしまっていた。
敵だから放っておけばいい、味方だから気遣いをしよう、ではない。
目の前にいる一人の「客」が疲れているから、気持ちが行ってしまう。
……いつの間にか自分のアンテナが、少しだけ一般化されていることにちはる自身が驚いていた。
「お待たせいたしました」
やがて、まことが厨房から運んできた。
お皿の上に載っていたのは、あの日のサンドイッチではなくーーシンプルで、こんがりと狐色に焼き上がったひとつのプレーンパンだった。
「……冷めないうちに、どうぞ」
青年が顔を上げた。
「……なぜ、サンドイッチじゃないのですか」
あの日のことを、まだ引きずっているのだろう。
しかしまことは、少しだけ首を傾げて答えた。
「今日は、そういうお顔じゃなかったので」
悪気のかけらもない、いつもの調子だった。
青年が何か言い返そうとして、言葉を探して、結局やめた。
まことの言葉数は少ない。
けれど、その差し出し方は、かつてAIの最適化に心をすり減らし、この店のオーナーに拾われたというまこと自身の過去と重なって見えた。
おせっかいのようでいて、押しつけがましくない、ただそこに存在する温かさ。
青年はタウルスから視線を外し、目の前のパンを見つめた。
ちはるはお冷やのグラスをそっと置きながら、静かに声をかけた。
論破するためでも、相手の考えを変えようとするためでもなく、ただ気になったから。
「……お仕事、大変なんですか?」
青年が一瞬、言葉を詰まらせた。
タウルスの画面に映る、数字の羅列。
それを睨みつける日々。
非効率とされる個人店を一つずつ「処理」し、最適化の波に飲み込ませていく作業。
その果てにある言葉にできない疲弊が、彼の口からぽろりと漏れ出した。
「……別に。ただ、こういう店が一つ消えるたびに、本社の数字は上がります。それだけの話ですよ」
声に張りがない。
数字が上がる喜びも、誇りもそこには感じられなかった。
彼は無言のままパンを手に取り、一口かじりついた。
外側の薄い皮が、ぱりっと軽い音を立てて崩れる。
その奥から、まだ湯気を持ったやわらかい白い身が現れた。
石窯の熱をたっぷり抱えたまま、小麦の甘い匂いが立ちのぼる。
噛む。
ただ、それだけの動作なのに、青年の動きがひどくゆっくりになっていた。
しばらくの間、静寂が店内を支配した。
タウルスの画面が、誰にも見られないまま静かに暗くなっていく。
美味しい、とは言わなかった。
それが彼のプライドという名の最後の砦なのだろう。
けれど、端末を操作していた手が完全に止まり、ピンと張っていた肩の力が、ふっと抜けていくのが分かった。
ちはるはそれ以上、言葉を重ねなかった。
励ます必要も、説得する必要もない。
ただ、焼きたてのパンを渡すこと。
この店がずっと守ってきたその一口があれば、言葉以上のものは何も要らないのだと悟ったから。
やがて、青年は数枚のコインをテーブルに置き、席を立った。
会計を終え、ドアノブに手をかける。
背中を向けたまま、彼は出口の直前でピタリと足を止めた。
「……ハヤトだ」
唐突な言葉に、ちはるは首を傾げた。
「え?」
振り返らないまま、ハヤトは少しだけ声を低くして言った。
「名前くらいは、覚えておけ、って話だ」
ーーあの夏祭りの日。
敗北した彼が捨て台詞のように残していった「お、覚えていろよ!」という言葉。
あのときの虚勢が、いま、全く違う響きを持って胸に届く。
「効率」という鎧を纏った組織の一員ではなく、自分という一人の「個人」を見てほしい。
「はい。ハヤトさんですね。しっかり覚えました」
ちはるが微笑んで答えると、カウベルの音とともに扉が閉まり、ハヤトは夕暮れの街へと消えていった。
効率という数字の看板を掲げた人にも、疲れ果てる夜があって、固有の名前があって、誰かに自分という存在を覚えていてほしいと願う心がある。
今日、この小さな店で気づけたその温もりを、私はきっと、ずっと忘れない。




