第44話 名札の名前
※基本は一話完結。スキマ時間にどうぞ。
『週刊サルベージ』電子版の特集記事に出てからというもの、パンカフェ『びみょる』には、少しずつ新しい風が吹き込んでいた。
「あの記事、見ましたよ!」
そう言って遠方からスカイトロッコに乗ってやってくるお客さんが、日に日に増えている。
最初の頃こそ「私なんかが写真に写っていて大丈夫かしら」とオドオドしていたけれど、今は違う。
ちはるはお客さんからの言葉を謙遜で突っぱねるのをやめ、素直に「ありがとうございます」と微笑み返せるようになっていた。
……ただ、今日やってきたお客さんは、これまでで群を抜いて濃かった。
「ここがびみょるでござるか!」
カウンター席に身を乗り出しているのは、地球の西暦2000年代初頭のオタク文化を彷彿とさせるバンダナを頭に巻き、チェックのネルシャツを着た男性客だ。
「ほうう! これが2ページ目、1コマ目、地球から持ってきたという石窯でござるか!」
厨房に入る勢いで覗き込んでくる男性客に、ユラが少しビックリしていた。
「あの……地球から持ってきたといわれるのは石のことで、窯ではないんですよ……」
ユラが優しく訂正したが、男性客はお構いなしに突っ走る。
「いやー! そして記事の3ページ目、2コマ目の写真でござるよ!」
バイナリとはまた違ったベクトルで、目がギラギラと輝いている。
「あの『まこと氏の新作を食した瞬間の、ちはる殿の引きつった笑顔』! あれは演技じゃない! 本物の試練をくぐり抜けた者だけが浮かべられる、至高のリアクションでござる! 素晴らしい考察の余地あり、でござりまするな!」
「あ、はは……光栄、です……?」
熱弁を振るう男性客に、ちはるは引きつりかけの笑顔をどうにか整えて応対した。
まあ、悪気はないのだ。
むしろ『びみょる』を、そして記事を深く愛してくれている熱心なファンなのだろう。
そんな風に微笑ましく思っていた、次の瞬間だった。
男性客がふと腰をかがめ、ちはるのエプロンの胸元……そこに留められた名札に目を留めた。
「あーー! 本名、載ってるんですね! てことは、記事の注釈にあったお名前って、これのことですよね!?」
ーーあ。
男性客は悪気のない無邪気な大声で、苗字と名前、つまりフルネームを完璧に読み上げてしまった。
その瞬間、店内から音が消えた。
「ちはるさん、フルネームで呼ばれるとなんか別人みたい!」
テラス席でコーヒーを飲んでいた常連のミワが、驚いたように声を漏らす。
「たしかに……オーナーもまこと先輩も、ちはるさんと呼んでらっしゃいますし、私はちはる先輩とお呼びしているし……フルネームだとほんと別人みたいですね」
厨房から顔を覗かせたユラがミワに同調してきた。
ちはるの胸の奥で、むずがゆいような、変な汗が噴き出すような感覚が走った。
恐怖や危険を感じたわけじゃない。
この店で少しずつ育ててきた「ちはるさん」という自分に、ネオマクラザキの自宅や娘の学校や役所の書類でしか使わないフルネームが、いきなり覆いかぶさってきた。
素の自分とこの店の自分との継ぎ目を、誰かに勝手に触られる違和感。
思い返せば、アルバイト初日。
オーナーから手渡されたあの「センスのないハート型」の名札に本名をフルネームで書いた時、「本名書くんじゃなかったわ」と心の中で軽く流していたのだ。
それが時間を超えて、今ここで自分に追いついて降りかかって来た。
男性客はまだ気づいていない。
「なんだか親近感湧くでござる!」
と、ファンサービスのつもりなのか、小躍りするような仕草で笑顔を輝かせている。
(はぁ……)
ちはるは、一呼吸置いた。
昔の私なら、引きつった笑いを浮かべたまま黙ってやり過ごすか、波風を立てないように「あはは、そうなんです」と流していただろう。
でも、今の私は違う。
言うべき時に自分の言葉で線を引くことを、私はこの店で、みんなとの関係の中で学んできたのだから。
「……あの」
ちはるは静かに、でもしっかりと相手の目を見た。
「ここでは、『ちはるさん』って呼んでください」
「……え?」
男性客がきょとんとして動きを止める。
「この店での私は、『ちはる』なんです。だから……ここではその名前で呼んでいただけると、すごく嬉しいです」
拒絶や怒りではなく、お願いとして、はっきりと自分の意志を伝える。
男性客は一瞬固まった後、ハッとしたように両手を合わせた。
「あ……っ! すみません! そうですよね、野暮なこと聞いちゃいました! すみません、ちはるさん!」
悪気がなかった彼は、素直に、そして即座に「ちはるさん」と呼び直してくれた。
「いいえ、分かっていただけて嬉しいです。ご注文、お伺いしますね」
ちはるが微笑むと、男性客は満足そうにメニューを開いた。
カウンターの奥を見ると、いつの間にか戻っていたオーナーが、何も言わずにちはるを見て、ただ小さくウインクをくれたのだった。
◇
その日の閉店後、オーナーは珍しく離れの部屋にこもっていた。
びみょるの裏手には、外から降りられる階段がある。
降りた先は海側に迫り出したテラスの真下になる。
そこに、離れの部屋がある。
昔は倉庫だったところのようだが、オーナーが改造して、ちはるたちの服の仕立てや、収集した骨董品の手入れなどができるようにした小さな作業場となっている。
そして、翌朝。
いつものように着替えを済ませて厨房に向かうと、カウンターの上に小さな箱が置かれていた。
「オーナー、これ……?」
「なんだと思います?」
オーナーはいつもの飄々とした調子でコーヒーを淹れながら口元を緩めた。
「開けてもよろしいですか?」
「もちろん」
箱を開けると、中から温かみのある木のプレートが出てきた。
「ちはるさんの新しい名札ですよ」
オーナーが木を削り、手彫りで丁寧に仕上げたものだ。
そこに彫られていたのはーー
『ちはる』
ただ、それだけ。
苗字も、フルネームも、余計な飾りもない。
「……苗字は、書いてないんですね」
ちはるが尋ねると、オーナーは帽子に手を当てて、ふっと柔らかく目を細めた。
「本名は親がくれた大切な名前ですがね。こっちはーーまあ、この店でちはるさん自身が育ててきた名前でしょう?」
それ以上、オーナーは何も語らなかった。
ただ、いつものように優しく微笑んでいるだけだった。
ちはるは新しい名札を手に取り、彫られた文字を指先でそっとなぞった。
指先に伝わる、木のぬくもりと柔らかな彫り目。
ここに書かれているのは、ネオマクラザキの我が家でも、役所の書類でもない。
このニューイブスキの崖の上の店で、ちはるが自分の足で立ち、自分の手で選び取った「私」の名前だ。
ちはるは古いハート型の名札をそっと仕舞い、新しい名札をエプロンの胸元に留めた。
「お母さん」以外の自分を探して始めたこの場所で。
ちはるは今日、自分の名前まで、新しく選び直すことができたのだ。




