第43話 夫、はじめての来店
※基本は一話完結。スキマ時間にどうぞ。
「いらっしゃいませ!」
カウベルがからんと澄んだ音を立てた瞬間、いつものように背筋を伸ばし、満面の笑みでドアの方を振り返った。
そしてーーちはるの思考は、完全にフリーズした。
「あ……」
入口に立っていたのは、見慣れた上着を着た、見慣れた背格好の男性だった。
少しだけ照れくさそうに頭をかきながら、店内を見回している。
夫だ。
「お、お客様……!? 本日は、どのような……ご、ご用件でしょうか……!」
自分でも聞いたことがないほど裏返った声と、家では一度も使ったことがない丁寧すぎる接客敬語が口から飛び出した。
あまりの動揺に、ちはるは胸の前で手を重ねて深々と頭を下げてしまう。
「い、いや、俺だけど……」
夫が困惑したように苦笑いを浮かべた。
そりゃそうだ。
自分の妻に「どのようなご用件で」なんて言われたら、誰だって戸惑う。
厨房の方から、くっ、と喉を鳴らすような小さな音が聞こえた。
見ると、まことが口元を両手で覆い、肩を激しく震わせながら必死に笑いを堪えている。
カウンターの奥では、オーナーが楽しそうに目を細め、静かに温かいお茶を淹れ始めていた。
口出しはせず、ただ観察に徹する『びみょる』の大人たちのいつもの仕草だ。
ちはるの頭の中は大パニックだった。
(どうしよう……! 家の『私』で接するべき!? それとも店の『ちはるさん』で接するべき!?)
二つの顔が、頭の中で激しくぶつかり合う。
ネオマクラザキの自宅で、毎朝夫を見送り、娘たちの世話をする「お母さん」のちはる。
ここニューイブスキの崖の上の店で、メイド服を着て、常連さんたちの笑顔を迎える「お給仕」のちはる。
今まで完全に分けていた二つの世界が、今、この狭いカフェの入り口で正面から衝突していた。
思い返せば今朝、珍しく平日に休みが取れた夫は、「ちょっと出かけてくる」とだけ言って家を出たのだった。
行き先も言わず、どこかソワソワした様子で。
出掛け際、長女のアミと次女のルミが、玄関の陰で顔を見合わせてニヤリと笑っていたのを思い出す。
あの子たち、前にお忍び来店して以来、すっかり店のファンになっていたから……絶対、夫に吹聴したんだわ。
私に内緒で。
「あの……空いてる席、座ってもいいかな」
「は、はいっ! どうぞ、こちらのテラスが見えるお席へ!」
厨房から一番遠い席に案内しながらも、ちはるの背中には冷や汗がびっしょりだった。
夫はぎこちない手つきで椅子に腰掛け、店内を珍しそうに見回した。
使い込まれた石窯、アンティークの調度品、そして窓の外に広がるニューイブスキの青い海。
「落ち着いた、いい店だな」
「あ、ありがとうございます……」
そこへ、常連のミワが、手帳を鞄にしまいながら席を立つところだった。
夫の姿とちはるの固まった表情を交互に見比べると、ふっと柔らかく微笑んだ。
「ちはるさん、もしかして旦那さん? いつも娘さんたちの話を嬉しそうに聞かせてくれてるから、すぐ分かりましたよ」
「ミ、ミワさん……!」
「こんにちは。いつも妻がお世話になってます」
夫が少し姿勢を正して頭を下げると、ミワは「とっても素敵なお店ですよ」と言い残して、会釈しながら出て行った。
ミワのその自然な一言で、店内の空気が少し柔らかくなった。
ちはるは深呼吸をひとつして、テーブルの脇にそっと立った。
エプロンの端を少しだけ握りしめる。
「……驚かせて、ごめん」
夫がぽつりと口を開いた。
テーブルの上に置かれた彼の手は、少しだけ力が入っているように見えた。
「一度、見ておきたかったんだ。君がどんな場所で働いているのか。……それと、ずっと聞けなかったことがあって」
「聞けなかったこと……?」
「覚えているかな。数か月前、君がここでアルバイトをしたいって言った時のこと」
覚えていないはずがなかった。
あの日、私は意を決して夫に打ち明けたのだ。
『お母さん以外の自分が、どこかに置き去りになっている気がしたの』と。
夫は視線を少し落とし、照れくさそうに、でも少し切ない声で続けた。
「あの時の申し出を聞いた夜……俺、正直ちょっと怖かったんだ。自分に甲斐性が足りないから、君に寂しい思いをさせているんじゃないか。俺に至らないところがあるから、君が外に出たがっているんじゃないかって」
ーー胸が、キュッと締め付けられた。
知らなかった。
夫がそんな風に悩んでいたなんて。
あの夜、私の一言に動揺しながらも「君がやりたいなら」と背中を押してくれた影で、彼もまた自分を責めていたのだ。
数か月前の私なら、またうろたえて、「そんなことないよ!」と焦って謙遜して終わりだったかもしれない。
だけど、この店で過ごした日々が、まことやオーナー、ユラや常連たちと積み重ねてきた時間が、ちはるの中に確かに残っていた。
言いにくいことも、ちゃんと言う。
それが本当の優しさだと、私はこの店で学んだのだから。
「ううん……」
ちはるは首を横に振った。
店の「ちはるさん」として胸を張り、でも妻としての温かい眼差しで、夫の目をまっすぐに見つめた。
「あなたに至らないところなんて、一つもなかったよ。本当に、ひとつも」
「ちはる……?」
「私はただね……『お母さん』としての時間もすごく幸せだったけど、それだけじゃない自分を、自分の足で見つけたかったの。誰かの妻でも、誰かのお母さんでもない、私自身として立ちたかったの」
言葉が、すうっと自分の内側から溢れてくる。
「でもね、ここで働けば働くほど……常連さんたちに家族の話をしたり、美味しいパンを見て『あ、これ家に買って帰ろう』って思ったりするの。ここで『ちはるさん』として過ごす時間は、私を家から遠ざけるんじゃなくて、もっと我が家を愛おしくさせてくれてたんだよ」
夫は目を見開き、それから、ゆっくりと肩の力を抜いた。
「そうか……。俺のせいじゃ、なかったんだな」
「当たり前じゃない。……いつも感謝してるんだから」
ちはるはテーブル越しに少しだけ身を乗り出し、夫の手の甲に自分の手をそっと重ねた。
メイド服のエプロン姿のまま、店の真ん中で。
でも、もう「家の私」と「店の私」を切り替える必要なんてなかった。
どっちも私で、どっちも私の大切な人生なのだから。
「……じゃあ、せっかく来たんだから、何か注文してもいいかな」
夫が少し照れくさそうに笑いながら、メニュー表を開いた。
「はい! おすすめは、まことさんが作った『シフォン・ド・びみょる』です。ほうじ茶のシフォンケーキで、昨日完成したばかりの新作なんですよ」
「じゃあ、それをひとつ。あとコーヒーを」
「かしこまりました!」
厨房にオーダーを伝えると、まことが嬉しそうに、でも丁寧に皿を準備してくれた。
運ばれてきたシフォンケーキを一口食べた夫は、目を丸くした。
「……うわ、すごいなこれ。ふわふわなのに、お茶の香りがすごく香ばしい」
「でしょう! これ、レシピの足し算と引き算がすごく難しくてーー」
気がつけば、ちはるは夢中でまことの凄さや、試作での苦労話を語っていた。
夫は「へえ」「すごいんだな」と、楽しそうに相槌を打って聞いてくれた。
ケーキを食べ終え、コーヒーを飲み干すと、夫は席を立った。
「美味しかった。……ごちそうさま」
レジで会計を済ませると、夫は入り口のドアに手をかけ、振り返った。
「また来るよ。……今度は、娘たちも連れて」
その言葉に、ちはるの胸がじんわりと温かくなる。
明確な約束ではないけれど、その言葉の響きだけで、これからの日々がもっと愛おしく思えた。
「はい! お待ちしております!」
見送るちはるの隣に、いつの間にかオーナーがすっと立っていた。
オーナーは帽子に手を当て、去っていく夫の背中に向かって、例の口癖を口にしようとした。
「では、また今度はーー」
「オーナー! それはまだ早いです!」
ちはるが慌てて遮ると、オーナーは「おや、失敗しましたか」と悪びれもせずにウインクしてみせた。
カウベルが、からんと鳴ってドアが閉まる。
家での顔と、店での顔。
夫の後姿を見送りながらエプロンを整える今、その境目がどこにあったのか、もう思い出せなくなっていた。




