第41話 おばあちゃんのマカロン
※基本は一話完結。スキマ時間にどうぞ。
ユラは『スカイトロッコ』を乗り継ぎ、ニューイブスキを出て、乗り合いのバスに乗り込んでいた。
窓の外には、見慣れたニューイブスキの海に代わって、鮮やかな緑の茶畑がどこまでも広がるのを見て、目的地に近づいていることを感じていた。
ユラは膝の上で、ボロボロになるまで書き込んだ宝物ノート『絶対のマニュアル』をそっと開いた。
その隣には、今朝、ちはる先輩から手渡された思ったより軽いリュックと、小さなお守り袋。
お守り袋の隙間から覗くルーズリーフの一枚目には、ちはる先輩のあの細々とした、けれど温かい文字でこう書かれていた。
『深呼吸。土下座はしない。なんとかなる!』
「ふふっ……」
思わず車内で小さな笑いが漏れてしまった。
びみょるに弟子入りした日の暴走を、ちはる先輩はまだ覚えているらしい。
でも、そのおかしな一言のおかげで、ガチガチだった肩の力がすうっと抜けていくのが分かった。
大好きな、けれど少しだけ不器用で、誰よりも優しい先輩たち。
まこと先輩の期待に応えるためにも、この買い出しを絶対に成功させなければならない。
◇
故郷の町の製茶場や市場に足を踏み入れた瞬間、ユラの意識は完全に職人のそれへと切り替わった。
前職の効率主義の店で必死に書き溜めた、茶葉の成分や温度管理のデータ。
そして、びみょるに赴いてからまこと先輩の背中を見て学んだ「データではなく、その日の素材の声を聴く」という姿勢。
その二つが、ユラの頭の中で初めて一つに噛み合っていくのを感じた。
「この乾燥具合なら、焼き菓子にしても香りが飛ばない。……よし、これは合格!」
まこと先輩から渡されたリストの茶葉は、順調に揃っていった。
だがーーリストの最後の一行。
まこと先輩が委ねてくれた『ユラさんがこれだと思ったものを、ひとつ』という素材だけが、どうしても見つからなかった。
どの茶葉もプロの品質で素晴らしいけれど、心が「これだ!」と叫ぶような、びみょるにふさわしい何かが足りない気がした。
気がつけば夕暮れ時だった。
ユラは大きなリュックを背負い、懐かしい茶畑の間の坂道を上っていた。
坂のてっぺんにある、見慣れた平屋の家。
ニューイブスキへ移住して以来、ずっと会えていなかったおばあちゃんの家だ。
ガラガラと木製の引き戸を開ける。
「ただいま、おばあちゃん」
奥からパタパタと足音がして、少し腰の曲がったおばあちゃんが顔を出した。
おばあちゃんは、持ってきたお菓子の箱よりも何よりも先に、顔をじっと覗き込んできた。
「おや、ユラかい。まあ、ちゃんとご飯食べてるんかね? 少し痩せたんじゃないかい?」
「痩せてないよ! 毎日美味しいパンとお菓子いっぱい食べてるもん」
相変わらずのやり取りに頬が緩む。
少しだけ小さくなったおばあちゃんの手、昔と何も変わらない、お茶の香りが染み付いた台所。
心の底から、帰ってきたんだな、と実感した。
◇
夕食を終え、静かになった夜の台所で、おばあちゃんとお茶をすすりながら、ずっと胸につかえていたことを切り出した。
「おばあちゃん、あのね。……ユラね、前のお店、辞めたんだ」
心配をかけたくなくて、手紙ではずっと伏せていた事実。
おばあちゃんは怒るでもなく、「そうかい」とだけ言って、静かに言葉を待ってくれた。
ユラはリュックから、丁寧に保冷して持ってきた『マカロン・ド・びみょる』を差し出した。
「今はね、ニューイブスキっていう街の、小さなお店で働いてるの。これ、ユラがそこで作ったマカロン。食べてみて」
子供の頃、この台所で作った不格好で焦げたクッキーを「世界一だねぇ」と笑って食べてくれたおばあちゃん。
今度は、ちゃんとプロとして、自分の居場所で見つけた味を届けたかった。
おばあちゃんは皺の刻まれた手でマカロンを包むように持ち、ゆっくりと口に運んだ。
サクッとした繊細な歯触りのあと、ニューイブスキの海風を思わせる、ほんのりとした塩気と甘みが広がる。
おばあちゃんは目を細め、味わうように咀嚼して、それから一言、ぽつりと言った。
「……今のお菓子のほうが、あんたの顔が浮かぶねぇ」
前の店でロボットのように効率だけを求めていたユラではなく、今の、びみょるで自分らしく笑って泥臭く働いているユラの生き方そのものを、肯定してくれる言葉だった。
胸の奥がじんわりと熱くなった。
でも、涙は出なかった。
前の店を辞めた傷跡は、びみょるのあの温かい日常の中で、もうとっくに癒えていたから。
これは治療ではなく、ここで元気に生きているという、大切な人への誇らしい『報告』なのだ。
「あ……」
そのとき、おばあちゃんが焙じてくれたお茶の、素朴で力強い香りが鼻腔をくすぐった。
市場で見たどの高級な売り物とも違う。
おばあちゃんが庭先の茶の木から自分で手摘みし、手揉みして作った、この家の、家庭の味。
「おばあちゃん! このお茶の葉、少し分けてもらえる!?」
「おや、こんな売り物にもならないお茶でいいんかい?」
「あと、焙じ方も教えて!」
「素人だけども大丈夫かね?」
「いいの! これが、ユラの見つけた『これだ』っていう素材なの!」
まこと先輩のリストの最後の一行が、最高の形で埋まった瞬間だった。
自分の原点が、びみょるの新しい味の材料になる。
その夜、布団の中で『絶対のマニュアル』を開き、新しいページを付け足した。
それは前職のデータでも、びみょるのマニュアルでもない、自分とおばあちゃんを繋ぐ、初めての『おばあちゃんのページ』だった。
◇
「ただいま帰りましたーー!」
翌夕、びみょるの扉を勢いよく開けると、カウベルの涼やかな音と共に、懐かしい匂いがユラを包み込んだ。
「おかえりなさい、ユラさん!」
カウンターの奥から、ちはる先輩が弾んだ声で出迎えてくれた。
厨房からはまこと先輩も顔を覗かせている。
ユラは早速、テーブルの上に山のような戦利品の茶葉を広げた。
そして最後に、おばあちゃんの特製茶葉の包みを差し出した。
まこと先輩はそれを手に取り、そっと香りを嗅ぐと、その優しい目を驚きに輝かせた。
「これは……素晴らしいですね。大地の力強さと、どこかホッとする温かさがある。ユラさん、新作、決まりましたね」
「はいっ!」
ユラは嬉しさに胸を張った。
それから、ポケットからそっと、ちはる先輩のお守り袋を取り出して手渡す。
「ちはる先輩、ありがとうございました。これ、使わずに済みました!」
「ふふ、言い回し集、出番がなくてよかったわ。でも、ちゃんと役に立った?」
「はい! ずっとポケットにあって、すごく心強かったです。私の、特別なお守りでした」
そう言って顔を見合わせると、どちらからともなく可笑しそうに笑いが込み上げてきた。
夕暮れのびみょるに、いつもの穏やかな時間が流れていく。
ユラはふと、今朝、おばあちゃんが玄関で見送ってくれたときの言葉を思い出していた。
『今度は、あんたの働いてる店のお茶が飲みたいねぇ』
(いつか。いつか、絶対に、おばあちゃんをこの店に招待して、最高の新作を食べてもらうんだ)
それはまだ、誰にも言っていない小さな秘密の願い。
ユラは新しいお茶の香りが満ちていく厨房を見つめながら、これから始まる新しい挑戦に、そっと胸を躍らせるのだった。




