第40話 遠出の買い出し
※基本は一話完結。スキマ時間にどうぞ。
ニューイブスキの崖の上に建つパンカフェ『びみょる』
その厨房から、何やら唸り声が聞こえてきたのは、よく晴れた平日の午後のことだった。
「うーん……やっぱり、この茶葉じゃ香りが立たないな……」
パティシエのまことが、いくつかの小さな茶碗を前に腕を組んでいる。
まことは現在、サルベージされた新作レシピの試作中だった。
このレシピは数日前……
「こ、これ……レシピ、かも、しれません。バイナリさんに、ま、まことさんに渡しておくように言われました」
と、ユウトが立ち寄ってくれた時に渡してくれたものだった。
茶葉を使った『ほうじ茶のシフォンケーキ』というレシピのようだが、肝心の素材の選定で行き詰まっていた。
「良い茶葉は、やっぱり山あいの産地まで直接行かないと手に入らないんですよね」
まことが困ったように眉を下げたとき、その隣で熱心にメモを取っていたユラが、すっと手を挙げた。
「その遠出の買い出し、私に行かせてください!……実はその茶葉の産地、私の故郷なんです」
驚くちはるとまことを前に、ユラは大きな目を少しだけ揺らし、小さな声で付け足した。
「……ついでに、おばあちゃんに、マカロン・ド・びみょるを、届けたくて」
それは、以前この店で生まれ、今や看板メニューの一つとなったあのマカロンだった。
故郷のおばあちゃんに、今の自分の仕事を届けたい。
その真っ直ぐな瞳を見て、まことは嬉しそうに頷いた。
「分かりました。では、ユラさんにお願いしてもいいですか?」
「はいっ! お任せください!」
ーーと、非常に綺麗で温かい先輩後輩のやり取りだったのだが。
(……? ちょっと待って。産地がユラちゃんの故郷? それって出来すぎじゃない?)
ちはるはそっとまことの横顔を窺った。
(この人、ユラちゃんが里帰りできるように、わざわざその茶葉を選んだんじゃ……)
「まことさん。……もしかしてなんですけど、全部わかってて言いました?」
「え? 何がですか?」
まことはきょとんと目を丸くして、心の底から不思議そうに首を傾げた。
(……この人は、こういう人だった)
オーナーなら、間違いなく仕組んでいる。
でも、まことは仕組まない。
ただ良い茶葉が欲しかっただけで、そこにユラの故郷が重なったのは、本当にただの偶然なのだ。
なんだか、そのほうがずっと嬉しい。
ーーなどと、しみじみしていられたのは、そこまでだった。
そして次の瞬間、ちはるの「気にしいセンサー」および「お母さんモード」が大爆発を起こしていた。
(山あいの産地!? ニューイブスキからスカイトロッコやらなにやら乗り継いで、一体どれだけ時間がかかるの!? もし途中で道に迷ったら? お腹が空いて倒れたら? 急な雨で風邪をひいたらーー!?)
居ても立ってもいられなくなったちはるは、その日から猛然と買い出しの準備を始めた。
手書きで何枚もコピーした詳細な乗り継ぎ表、小腹が空いたとき用の非常食(びみょるのラスク大量)、靴擦れ用の絆創膏。
さらには、現地の商店で価格交渉や道を聞くときに困らないための『困ったときの言い回し集』までルーズリーフに書き殴り始めた。
「あの、ちはるさん……? ユラさんはもう立派な大人ですよ……?」
まことが引き気味に声をかけてくるが、耳に入らない。
気分は完全に、娘の「初めてお使い」に挑む母親である。
そんな準備の途中、荷物の隙間にラスクを詰め込んでいると、ユラがぽつりと呟いた。
「おばあちゃんには……前の大きなお店を辞めたこと、まだちゃんと言えていないんです」
手紙では「元気にやってます」とだけ伝えているのだという。
効率最優先の店で心をすり減らし、飛び出すようにしてここへ来たこと。
おばあちゃんに心配をかけたくなくて、優しい沈黙を守り続けているユラの横顔を見て、ちはるは胸が締め付けられる思いがした。
「だったら、今回ちゃんとお話ししてーー」
言いかけて、ちはるは自分の口を両手で塞いだ。
ーー違う。
これは、自分が口を出して背中を押すことじゃない。
先日のユウトの件で学んだはずだ。
信じて「何もしない」という選択肢もあるのだと。
マカロンを渡すとき、どんな言葉を選ぶかは、ユラさん自身が決めるべきことなのだ。
出発の前夜、まことがユラに一枚の買い出しリストを渡した。
そこには、まことの几帳面な字で、求める茶葉の条件や、良い素材を見分けるための目利きのポイントが細かく並んでいた。
だが、ユラはそのリストの最後の一行を見て、息を呑んだ。
『あとは、ユラさんが「これだ」と思ったものを、ひとつ』
目利きを任されるということは、自分の味覚と判断を信頼されたということだ。
それは単なるパティシエの弟子としての使い走りではなく、お店の「仲間」としての買い出しを意味していた。
「……っ、はい! 必ず、良いものを持ち帰ります!」
ユラは声を詰まらせながら、そのリストを両手でそっと受け取ると、深く、美しく一礼をした。
あの、びみょるに弟子入りを志願したときに見せた、彼女の決意が詰まった真っ直ぐな礼だった。
その夜、ちはるはユラのために用意したパンパンの巨大なリュックを前にして、ふと手を止めた。
(……この大荷物は、本当にユラさんのためなんだろうか)
そうじゃない。
ただ、自分が安心したいためだけに、自分の不安の分だけ荷物を詰め込んでいただけではないのか。
彼女の肩に、ちはるの心配という重荷を背負わせようとしていただけではないのか。
翌朝、ユラに手渡した荷物は、昨夜の半分になっていた。
もちろん、心配性が完治するわけではないのでゼロにはしない。
小さな手作りの「お守り袋」と、どうしても捨てきれなかった『言い回し集』だけをリュックのポケットに忍ばせておいた。
早朝のスカイトロッコ終着駅。
一泊二日の遠征へと赴くユラは、それでもまだ大きなリュックを背負って、駅のホームに立っていた。
「行ってきます、ちはる先輩、まこと先輩! この命に代えても最高の素材をーー!」
「命は絶対に代えちゃダメです! お茶よりユラさんの命の方が一億倍大事ですからね!?」
拳を握りしめるユラに、ちはるが全力で突っ込むと、駅にまことの優しい笑い声が響いた。
ガタゴトと音を立てて、スカイトロッコが動き出す。
断崖を這うようにして、ユラを乗せた箱がどんどん小さくなっていく。
ちはるはその姿が完全に見えなくなるまで、ずっと手を振り続けた。
心配は、まだ胸の中に波打っている。
けれど、それを荷物にして無理に持たせないこと。
彼女の力を信じて、笑顔で送り出すこと。
それが、たぶん今の私にできる「信じる」ということなのだろう。
遠ざかるスカイトロッコを目で追いながら、ちはるは彼女の旅路が無事であるよう、心の中で小さく祈った。




