第39話 引きこもり、外で働く
※基本は一話完結。スキマ時間にどうぞ。
『ニューイブスキ』はいつもより少しだけ海霧が深く、霧の日の鐘の音が遠く響いていた。
家族の用事を済ませて数日ぶりに出勤したちはるは、エプロンの紐を結び直しながら、パンカフェ『びみょる』の厨房へと顔を覗かせた。
「おはようございます、まことさん。私がいなかった間、お店は大丈夫でしたか!?」
「あ、ちはるさん。おはようございます。ええ、ユラさんも頑張ってくれましたし、おかげさまで順調でしたよ」
いつも通り穏やかに微笑むパティシエのまことだったが、ふっと思い出したようにトングを止めた。
「そうそう、驚きの報告があるんです。実は……ユウトさん、バイナリさんのところで働き始めたんですよ」
「ええぇ!?」
ちはるの口から裏返った悲鳴が飛び出した。
(あの、つい最近まで画面の向こうに引きこもりがちだったユウトさんが、外で働く!?)
まことの語る経緯はこうだった。
ちはるが休みの間、バイナリがいつものようにケーキを受け取りに来店した際、山積みの書類への愚痴をこぼしたらしい。
「一人は気楽って言ったけど、五年分の書類の山はもう限界なのよねぇ」と。
そこに、たまたま来店していたユウトが、ぽつりと応えたのだという。
「……ぼ、僕、そういうの……えっと、得意、です」
(ーーユウトさんが、自分から、手を挙げた)
かつては文字でしか話せなかった彼が。
前は誰かのための勇気だったけれど、今回は自分の意志で一歩を踏み出したのだ。
「う、嬉しい……心から嬉しい、です。でも……」
喜ばしいはずなのに……
(その歴史的瞬間に、なぜ私は居合わせなかったのか……)
ちはるの気にしいセンサーが妙な方向へ作動し始めた。
(わ、私、もう必要とされてない!? お母さん役は卒業!? これからユウトさんが立派に社会復帰して、この店には私のサイズに合わないきついメイド服だけが残されて、私だけが孤独に卒業していくのねーー!?)
「……ちはるさん? 顔が怖いですよ」
「はっ! すみません、ちょっと一人妄想劇場を開催していました……」
まことの苦笑いで、ちはるは慌てて現実へと引き戻された。
◇
数日後の午後、ユウトがやってきた。
相変わらずフードは深く被っているものの、カウンター越しに注文する声は以前よりずっとはっきりしている。
「き、聞いて、もらえますか。仕事の話」
ユウトが自分から物語を語りに来てくれた。
その姿自体が、彼の大きな成長のメーターだった。
ちはるは注文の紅茶を淹れながら、身を乗り出して耳を傾けた。
「職場での作業は週2日、他の作業は自宅で行います。ぼ、僕が無理のない範囲でバイナリさんが設定してくれました」
ユウトの職場は、定期船でニューイブスキから海上20キロの場所にある入植記念館だ。
「ふ、船、毎回、緊張します。でも甲板の風は、ちょっと、好きです」
はにかむように言う彼は、入館手続きの際、持ってきた端末もルーターもすべて預けさせられたのだという。
ネット依存気味だった彼にとって、それは命綱を取り上げられるに等しい行為だった。
「頭が真っ白になって……て、手が、勝手にスクロールの動きを……」
「幻肢スクロールですか!?」
思わず突っ込むと、ユウトは小さく吹き出した。
そんな恐ろしい経験を、今は笑い話にできている。
彼の仕事は、発掘担当のバイナリと、応用・公開側の分析チームとの『あいだ』に立つ索引づくりだった。
記念館の奥に堆積した、五年分の「些末」と仕分けられた文脈不明のデータ断片。
これらはコピー不可で二分で消えてしまうため、すべて手書きやプリントで残されている。
ユウトはそれらを見出しとタグで整理し、分析側が検索できるようにしているのだ。
「端末が使えないので、紙のカードに手書きなんです」
ユウトは自作の整理カードを一枚、ちはるに見せた。
画面のフォントしか知らなかった彼の、初めて見るインクの文字。
それは意外なほど、丁寧で綺麗な文字だった。
掲示板で培ったスレッド整理やタグ付けの技術が、今、生まれて初めて紙の上で活かされているのだ。
「でも、あのバイナリさんと一緒に作業して、緊張しませんか?」
「バ、バイナリさんの話し方って、掲示板の文字に、似てるんです。……用件だけで、圧が、なくて。僕がどもっても、待ってるあいだ普通に自分の作業してるんです。……あれ、すごく、楽です」
気遣われないことに救われる。
同情も励ましもない、機能と用件だけの関係が、今の彼には一番呼吸しやすい場所だったのだ。
「それに……アシュラって、巨大な、掲示板なんです」
ユウトは遠い目をして、愛おしそうにカードを見つめた。
「はるか昔の、顔も知らない人たちの書き込みが、ずっと、返事を待ってて。……返信は、できないんですけど、僕が整理すれば、誰かがまた読める。それって、遅れて届く、レスみたいだなって」
はるか昔の誰かから届いた声を、未来の誰かへ繋ぐ。
それは彼なりの、新しい世界の捉え方だった。
◇
その日の夕方、バイナリがケーキの受け取りにやってきた。
「あの、バイナリさん。……ユウトさんの、その、手続きなんですけど」
箱を差し出しながら、まことが珍しく言い淀んだ。
「今回はちゃーんと正規の臨時登録よ。安心して」
「よ、よかった……」
心底ほっとした顔で胸を撫で下ろすまことに、バイナリはにやりと笑ってみせる。
(まことさんが一番ほっとしちゃダメなやつでは……! まことさんらしいけど……)
ちはるは込み上げてきた言葉を、笑顔の裏に必死で押し込んだ。
ユウトの様子を尋ねると、彼女は眼鏡の奥の目をギラリと光らせてオタクスイッチをオンにした。
「聞いてよちはるさん、信じらんない! 彼、私の五年分の混沌を一週間で島分けしたのよ!? 見出しの付け方にセンスあるじゃんって言ったら『ス、スレタイは掲示板の命なので』って! 何それ最高じゃない!?」
早口で捲し立てるバイナリは、本当に嬉しそうだった。
そして、ふと素の口調に戻って何気なく呟いた。
「私、気を使うの苦手なのよね。だから何もしてないわ。仕事を渡して、放っておいただけ」
その一言が、胸に深く刺さった。
気にしいの塊であるちはるにとっては、卒倒してしまいそうな放任主義。
でも、ユウトを一番楽にしたのは、その「何もしない」という信頼だったのだ。
ちはるがいなかった日に、ちはるの知らないところで、縁が勝手に結ばれていた。
手を貸さなくても、大好きな人たちは勝手に元気になっていく。
(あの日私は、頼られないほうが寂しいって知った。だから今、少しだけ寂しいーーはずだった。でも、違う)
それは寂しいという音じゃない。
海霧の日に響く、あの鐘と同じだ。
姿が見えなくても、その音が響けば「ここで生きてるぞ」と伝わってくる。
自分のいない場所で縁が回る音は、温かく、力強い鐘の音そのものだった。
◇
翌朝の立ち売り。
賑やかな列の中に、ユウトの姿があった。
彼は掌の小銭を丁寧に数え、パンを二つ注文した。
「は、はじめての、お給料なので。……一つは、バイナリさんに。仕事仲間、なので」
少しだけ誇らしげに「仕事仲間」と言った彼の笑顔を私は忘れない。
ぴったりのコインを置いて瞬時に去っていく常連のリンタの隣で、たどたどしく、けれど確かに自分の足で立つユウト。
ニューイブスキの朝の風景に、また新しい色が加わっていた。
◇
その夜、ちはるは自宅で静かに微笑んでいた。
端末を開くと、いつもの匿名掲示板に新しいスレッドが立っているのが目に入った。
『【報告】引きこもりだけど、外で働き始めた』
そこには、たった数行の、けれど確かな一歩が綴られていた。
すぐにいくつかの返信が付く。『おめでとう』『無理すんなよ』ーーそして、
『この前の、鐘の人? よかったね』
かつて彼が画面の向こうへ送った優しさが、巡り巡って、彼のもとへと返ってきていた。
今回は手を引くでもなく、背中に手を添えるでもなく、ただ話を聞かせてもらっただけ。
それでも、縁は回っていく。
夜の静寂の中、その回る音が、ちはるの心の奥底まで、優しく響き渡るのを感じていた。




