第37話 ユッキのヤキモチ
※基本は一話完結。スキマ時間にどうぞ。
ここ数日、パンカフェ『びみょる』の厨房では、ちょっとした不穏な空気が流れていた。
「……おかしいなぁ。温度管理は完璧なはずなのに」
ユラが、焼き上がったばかりのカヌレを前に、うーんと首を捻っている。
彼女は今、石窯を使った新作の焼き菓子に挑戦中だった。
この街特有の海風や気候の癖はすっかり学習したはずなのに、なぜかカヌレの表面に原因不明の焼きムラができてしまうのだ。
焦げつくほどではないけれど、綺麗なツヤが出ない。
せっかくのユラの技術が、どこかで空回りしているようだった。
まことは自分のパンの仕込みに集中しているし、ユラも「自分の腕が足りないせい」と思い込んでいるけれど……
ちはるは、その真相に気づいていた。
ふと視線を上げた石窯の上。
そこに、ぷいと横を向いて、いかにも不機嫌そうに腰を下ろしている小さな妖精の姿が見えた。
「わしは知らん。あの小娘の菓子など、絶対に知らんのじゃ」
ちはるの耳にだけ、ツンと尖った窯の妖精ユッキの声が届く。
「……大体な、この前も見たんじゃ。あの小娘、まことに手ずから、手まで重ねられて生地を混ぜ混ぜしおって。デレデレ、ウキウキしおって……! わしはな、いつでもこの窯の上から、ぜーんぶ見ておるんじゃぞ」
(……ユラちゃん、あの時は生地の声を聞くのに必死で、ウキウキどころか半泣きだった気がするけど……)
どうやらユッキは、あの日の光景を"そういうふう"に受け取ってしまったらしい。
ユッキは、決して邪魔をしているわけではなかった。
まことの焼くパンには、今日も全力で完璧な加護を与えている。
ただ、ユラの作るお菓子にだけは、いっさい手を貸していないのだ。
妨害ではなく、加護の出し惜しみ。
それが、この微妙な焼きムラの原因だった。
◇
夕暮れ前の客が途切れる時間帯、ちはるはフロア奥の席に座り、ユッキと向かい合った。
「厨房の匂いが、変わってしもうた」
ちはるにしか見えない妖精の姿で、テーブルの上にちょこんと腰を下ろしたユッキがぽつりと言った。
彼女の口から、ずっと胸の奥に溜め込んでいた本音が、初めて溢れ出す。
「ここはな、ずっと窯とまこととわしの、三人だけの場所じゃった。それなのに……あの小娘は、まことの隣に当たり前の顔で立ちよる。わしは、姿も見せられんのに」
ユッキは、切なそうに小さな拳を握りしめた。
実は、少しでもまことの役に立ちたくて、少女の姿になって厨房に立とうとしたこともあったらしい。
けれど、体が軽すぎてボウルの計量すらまともにできず、何よりーーいざまことの前に出ようとすると、どうしても恥ずかしくて隠れてしまうのだという。
そんな空回りの悲しさが、ユラへの小さな嫉妬になってしまっていた。
(……今までの私なら、きっと何も言えなかったな)
胸の奥がちくりと痛む。
これまでのちはるなら、波風を立てないことを最優先にして、黙ってユッキの機嫌が直るのを待っていただろう。
(でも、それではダメなんだ)
このままではユラは自分の腕を疑い続けて傷つくし、ユッキは意地を張ったまま、ずっと一人きりで寂しい思いをすることになる。
言わない我慢は、誰も救わない。
関係を良くするためなら、言いにくいことだって、ちゃんと口にしなきゃいけないんだ。
「ユッキちゃん」
ちはるはゆっくりと、けれど真っ直ぐに彼女を見つめた。
「ユラちゃんがあの窯で焼いてるのはね、まことさんと同じ、『お客さんを笑顔にするためのお菓子』だよ。……それを冷たくしちゃうのは、ユッキちゃんがずっとやってきたお仕事と、反対のことなんじゃないかな」
「お主に……お主に何が分かるんじゃ!」
図星を突かれたユッキは、顔を真っ赤にして、そのまま店を飛び出して行ってしまった。
ちはるは特に呼び止めもせず、一呼吸おいて席を立ち、ユラに断りを入れて、ユッキを迎えに行くために店を出た。
行き先に心当たりは一つしかなかった。
あの不器用な妖精が、この街で逃げ込める場所なんて他にない。
なによりーーあの子が「俺、いっつもここにいるから」と言っていた場所だから。
夏祭りの時の言葉を頼りに辿り着いた平地神社の境内には、案の定、小さな人影が二つあった。
「なんか怒ってんの、君」
竹箒を手にして、夕方の掃除をしていたレンが、石段にぽつんと膝を抱えて座るユッキに声をかけていた。
「別に、じゃと……っ! あ、いや、別にっ!」
勢いで素の口調が漏れてしまい、慌てて口を塞ぐユッキ。
レンは少し怪訝そうに頭を掻きながら、ふっと笑った。
「相変わらず、やっぱ君って普通の子と違うよな」
レンはそれ以上、彼女が怒っている理由を聞き出そうとはしなかった。
ただ、静かに竹箒を動かし、境内の落ち葉を集めていく。
「うちの神社さ、お祭りの日くらいしかみんな来ないだろ。普段は誰も見にこない。……でも俺、ここを掃くの、結構好きなんだよな。誰にも見られてなくても、こうやって綺麗にしとくとさ……なんか、いいだろ」
ザッ、ザッ、と響く箒の音。
レンはただ、自分の話を淡々としているだけだった。
説教をするつもりなんて、これっぽっちもない。
けれど、その言葉はユッキの胸に、雷のように突き刺さったようだった。
(わしが今まであの窯の火を整えてきたのは、まことに好かれるためじゃったか……?)
違う。
誰も見ていなくても、美味しいパンが焼ける瞬間が好きだった。
それを食べた街の人たちが、幸せそうに笑う顔を見るのが、たまらなく好きだったからだ。
あのユラという小娘も、きっと自分と同じ、その「美味しい瞬間」が好きなだけなのだ。
「……迎えに来たよ、ユッキちゃん」
ちはるが石段の下から声をかけると、ユッキはゆっくりと立ち上がった。
レンに小さく頭を下げてから、ちはるの元へと歩いてくる。
「……張り合うても、しょうがないのう」
帰り道、夜風に吹かれながら、ユッキがぽつりと呟いた。
「わしの本当の持ち場は、まことの隣ではのうてーーあの窯の中じゃ。あやつを見守るのが、わしの役目じゃからの」
彼女の横顔には、もうトゲトゲした寂しさはなかった。
誰かと競い合うのではなく、自分の愛する場所で、大好きな人たちを見守る。
長い長い年月の孤独を抱える妖精が、一歩進んだ瞬間だった。
◇
翌朝。
厨房の石窯は、昨日までの不機嫌さが嘘のように、パチパチと心地よい音を立てて熱を放っていた。
「わあ……! すごい、綺麗に焼けました!」
焼き上がったカヌレを確認したユラが、歓声をあげる。
表面は均一な深い褐色に染まり、美しいツヤが宝石のように光っていた。
「この窯、今日はなんだか、私の味方をしてくれてる気がします!」
嬉しそうに目を輝かせるユラの後ろで、石窯の上から、ふん、と鼻を鳴らす声が聞こえる。
「……ふん、勘違いするでないぞ。ただの窯の気分じゃ」
声の主であるユッキは、思いきりツンとすましているけれど、口元にうれしさを抑えきれないでいる。
「うまく焼けたやつじゃ。……あやつの掃除した境内で食うたら、少しはうまいかもしれんからの」
(ふーん、なるほどね)
「ユラちゃん、これ、一つ包んでくれる?」
ちはるは焼き立てのカヌレを一つ指差した。
包みを受け取り、店の外に出て、少女の姿になったユッキに渡した。
何も言わず、顔を赤くして、神社の方へ走っていくのをちはるは見送った。
レンとの距離は、ほんの少しずつ、けれど確かに縮まっているみたいだ。
口を出すのは、やっぱり今でも怖い。
嫌われるかもしれないし、大きな波風が立つかもしれない。
でも、波風を恐れて立ち止まっているだけじゃ、大切な人の本当の笑顔には辿り着けない。
その波風の向こうにしか、行けない場所がきっとあるのだ。
今日のご機嫌な石窯の熱を感じながら、ちはるは明日のパンの準備へと、力強く一歩を踏み出した。




