第36話 イゾウとウララ
※基本は一話完結。スキマ時間にどうぞ。
よく晴れた午後のことだった。
パンカフェ『びみょる』のテラス席には、時々姿を見せるイゾウが座っていた。
初老の紳士の姿をした執事型アンドロイドの彼は、いつものように真っ直ぐ水平線に視線を向けている。
「ごきげんよう、ちはるちゃん! 今日もあんコッペを一つ頂戴!」
そこへ、賑やかな足取りでウララが来店した。
夏祭りお疲れ様会以来の彼女は、焼き立てのパンを受け取ると席を探してキョロキョロと見回しーー
そして、テラス席にいるイゾウの頭部の機械パーツに、鋭い好奇心のアンテナを完全にロックオンした。
(あ、ウララさんのアンテナが、ロックオンした音がした……)
ちはるの不吉な予感は的中した。
ウララは当然のような顔でイゾウの向かいの席に腰掛け、満面の笑みを浮かべた。
「はじめまして。私はプロの感動屋のウララよ。……ねえ、アンドロイドさんからも、感動って頂けるのかしら?」
突拍子もない初対面の挨拶。
しかし、イゾウは表情一つ変えずに真顔で即答した。
「はじめまして。私は感動を出力する機能を搭載しておりません」
名刺交換の代わりに交わされた会話は、最初から全く噛み合っていなかった。
しかし、ウララはそんなことで怯むような人ではない。
彼女ならではの、相手の懐にするりと入り込む聞き出し術が始まった。
イゾウは問われるままに、自らの過去を淡々と語り出す。
亡き会長のこと。
「このパンは景色が見える」という会長の口癖だった言葉。
そして、処分される前に与えられた、この「黄昏の時間」と呼ばれるささやかな猶予の日々のこと。
それはかつて、店内で聞いた通りの、日付と場所と行動記録の正確な羅列だった。
感情を排した、ただの事実のデータ。
なのに、向かいで聞いていたウララは、途中から涙を流し始め、ついにはハンカチを握りしめて号泣し出したのだ。
「なんて……なんて切なくて美しいお話なの……!」
プロの感動屋の本領発揮、である。
だが、それに対するイゾウの反応は冷徹だった。
「……故障でしょうか。修理業者をお呼びしますか?」
「違います、これは平常運転です!」
ちはるは慌てて横から口を挟んだ。
ウララの娘たちが「またお母さんの病気が始まった」と呆れる姿を知っている身としては、ここで修理を呼ばせるわけにはいかない。
ウララは涙を拭い、不思議そうに首を傾げてイゾウを見つめた。
「ねえ。あなた、今の会長さんとのお話をしてるとき、胸の奥で何も動かなかったの?」
「感情のログはございません」
イゾウはきっぱりと言った。
ウララの芸は、相手の心の揺れを見つけ出し、それを何倍にも増幅して見せるものだ。
けれど、揺れそのものが「無い」相手に対しては、プロの技も虚しく空を切るしかなかった。
「……あの、でも」
ちはるは思わず、二人の間に割って入るようにして言葉をこぼしていた。
イゾウがラボに回収されかけた、あの翌日の記憶が鮮明に蘇ってきたからだ。
「イゾウさん、回収されそうになった翌日、このテラス席で私に言いましたよね。『昨日とは、景色が違って見えます』って。あの場にいた私は、確かにそれを聞いたんです」
「私が、そんなことを?」
イゾウは記憶のインデックスを検索するように、わずかに目を伏せた。
「それって、感動じゃないの?」
ウララが身を乗り出す。
イゾウは少しの間を置いた後、あくまでシステム上の事実として回答した。
「感情のログはございません。ただーーシステムのエラーチェックにおいて、あの日の記録は、他の日の記録よりも極端に参照回数が多い、という結果が出ています」
「参照回数……?」
「はい。用事もないのに、繰り返し読み返してしまうデータが存在します。理由の自己分析を試みましたが、エラーとして『不明』と出力されます」
テラス席に、心地よい潮風と共に静寂が訪れた。
ウララはしばらくの間、その言葉を反芻するようにイゾウを見つめていたが、やがて優しく微笑んだ。
「人間はね、用もないのに何度も何度も読み返したくなる記憶のことを『大切な思い出』って呼ぶのよ」
けれど、ウララはそこで「だからあなたは感動しているのよ」とは断定しなかった。
それが彼女の、プロとしての矜持なのだろう。
「でも、これが感動かどうかは、私が勝手に決めることじゃないわね。感動っていうのは、本人がその名前に気づいて、自分で名前をつける前から、もう始まっているものだから」
問いは、答えを出されないまま、コーヒーに入れたミルクのように優しく溶けていく。
(……あぁ、そうか)
ちはるは自分の胸に手を当てた。
かつてユッキの正体を知ろうとした時、私は「早く定義して安心したかった」という自分の弱さに気づいた。
私はいつだって、白黒つけて安心したがる。
イゾウは感動できるのか、できないのか、正しい答えでラベリングしたがっていた。
でも、ウララは違った。
答えの出ない不確かな問いを、不確かなまま両手で抱えて、楽しそうに笑っている。
分からないままのものを、分からないまま大切に受け止めていいのだと、彼女の横顔が教えてくれた。
「決めたわ!」
ウララがパンと手を叩き、立ち上がった。
「私、あなたの証人になる!」
「証人、ですか」
「そう。あなたがいつか、その何度も読み返しちゃうデータに、初めての『感動』っていう名前をつけるその日のための証人。その時は特等席で見届けさせてもらうから、予約しておいてね!」
イゾウはいつもの執事の丁寧な一礼で返した。
「予約を承りました。お客様のまたのご来店を、心よりお待ちしております」
全く噛み合っていないようで、けれど二人の距離が、ほんの少しだけ縮まった瞬間だった。
ウララが席を立ち、静かな黄昏が戻ってきた。
水平線へと沈んでいく太陽の光が、イゾウの横顔を赤く染めている。
ふと見ると、イゾウの視線は、いつも見つめている海鳥ではなく、去っていくウララの背中をじっと追っているーーように見えた。
それがカメラの光軸のズレなのか、それとも、名前のない何かの始まりなのかは分からない。
でも、その分からない余白のことが、今のちはるにはとても愛おしく思えるのだった。




