第34話 鐘を継ぐ人、リンタ
※基本は一話完結。スキマ時間にどうぞ。
穏やかな午後の陽だまりが、パンカフェ『びみょる』のテラス席に差し込んでいた。
「……ち、ちはるさん。これ、新しく、買ったんです」
そう言って、少しだけ誇らしげに黒くて薄いモバイルルーターを見せてくれたのはユウトだった。
以前、壊れたルーターを直すために「電気屋さんまで行ってみます」と、震える足で外の世界へ一歩を踏み出して以来の再訪だ。
彼のその一歩が、決してまぐれではなく本物だったことを目の当たりにして、ちはるは自分のことのように嬉しくなった。
そんなユウトが、今日は小さな頼み事を持ってきたのだった。
「実は……いつも見ているネットの掲示板で、こんな質問が立ったんです」
彼が差し出した端末の画面には、ニューイブスキに関するスレッドが表示されていた。
『霧の日に聞こえるあのカーンって鐘の音、あれ何? 誰が鳴らしてるの?』
その書き込みに対する返信は、どれも雑な憶測ばかり。
『自動制御の電子音でしょ』
『崖の幽霊の仕業だよ』
『ただの環境音の録音流してるだけ』
「あはは、幽霊って……」
「そうなんです。でも、僕……なんだかちゃんと知っている人がいる気がして、確かめたくなって。ちはるさんなら、何か知っていませんか?」
ちはるは人差し指を顎に当てて考える。
「由来なら、知っています。以前、トキワさんという寡黙なお年寄りの常連さんから聞いたんです。人類がこの星に入植したばかりの苦難の頃に、海霧で視界が閉ざされた中で錆びた鐘を叩き合って、お互いの生存を確かめ合ったのが始まりなんだそうですよ」
「生存の、確かめ合い……」
「はい。でも、『今、誰が、どうやって鳴らし続けているのか』までは、私、知らなくて」
そこまで言って、ちはるの『気にしいアンテナ』が、ある一つのピースとカチリと繋がった。
朝の立ち売り。
いつも会計のわずかな数秒間、架線の方向へ鋭く耳を澄ませている、あの若手整備士の青年の姿が。
「あの人なら知っているかな? お客様にスカイトロッコの整備士の方がいらっしゃるんですよ」
「……あの、もしよかったら」
ユウトが、パーカーのフードを目深に被り直しながら、消え入るような声で言った。
「ち、ちはるさんから、その整備士さんに聞いておいて、もらえませんか?」
やはり、知らない人と直接言葉を交わすのは、彼にとってまだ高すぎるハードルなのだ。
「あ、いいですよ、私から聞いておきーー」
言いかけて、ちはるは喉の奥でその言葉を飲み込んだ。
前回の来店時、ユウトは人と接するのは怖いけど、頑張って外に出てきたと言っていた。
まことはその怖さを見た目が似ている「二つのパン」の中身がわからないことに例えた。
わからないなら、食べてみよう、と諭した。
他人から教えてもらうのではなく、自分で行動して知ることこそが、怖さに打ち勝つ秘訣だと。
それに、私が先回りして代わりにやってあげるのは、その人が一歩を踏み出す大切な瞬間を横取りすることだって、ミワとユラの一件でも改めて気づかされたばかりだった。
彼を助けたい。
でも、代わりにやってあげることだけが助けることじゃない。
ちはるは緩めのメイド服の胸元をそっと押さえ、それから優しく微笑んだ。
「ねぇ、ユウトさん。もしよければ、明日の朝7時前に、びみょるの立ち売りに来られませんか?」
「えっ、朝の、7時……ですか?」
「はい。その時間に、あの整備士のリンタさんが来るんです。……大丈夫です、私も隣にいますから。一緒に聞いてみましょう」
手を引いて引っ張るのではない。
ただ、彼の背中にそっと手を添えるように。
ユウトは酷くためらうように視線を彷徨わせた。
朝7時の外出など、引きこもりがちな彼には果てしないミッションだ。
けれど、彼は端末の画面をじっと見つめ、小さく息を吐いた。
「……き、聞きたいのは、僕じゃなくて、掲示板のあの人、なので。……僕、明日、がんばって来てみます」
画面の向こうにいる、名前も知らない誰かのために、外に出る。
その優しくて不器用な理屈で、彼は自分の背中を自ら押し出したのだった。
◇
翌朝。
うっすらと白い海霧が漂う、ひんやりとした朝だった。
びみょるの店先に、パーカーのフードで顔を半分埋めたユウトが、本当に立っていた。
少し緊張で小刻みに震えているが、逃げずに待っている。
そこへ、駅の方から「ゴツ、ゴツ」と重い足音が近づいてきた。
「ちはるさん、おはようっす! いつもの、頼むっす!」
現れたのは、もちろんリンタだ。
いつものようにぴったりのコインをカウンターに置き、三十秒で去ろうとする。
「リンタさん、少しだけいいですか?」
ちはるの呼びかけに、リンタはピタリと足を止めて、首を傾げた。
「このユウトさんが、スカイトロッコの霧の日の鐘について、聞きたいことがあるそうなんです」
ちはるがユウトを視線でそっと促すと、ユウトはフードの奥から、勇気を振り絞って声を絞り出した。
「あ、あの……! 霧の日に聞こえる鐘は、あれは……誰が、どうやって鳴らしているんですか? 自動、なんですか……?」
リンタは目を丸くした。
それから、
「ーー兄ちゃん、いいとこに目ぇつけたな!!」
朝の空気がビリビリと震えるほどの大声。
ユウトが驚いて、猫のように「ひゃっ」と跳び上がった。
「自動なわけねぇだろ! あれはな、俺たちが手で鳴らしてんだよ! ほらあそこ見てみな!」
ちはるとユウトは、リンタが指さす先に、小さくも重厚な鐘が据え付けられているのを見つけた。
「あんなところにあったんですね! 知らなかった……」
駅舎や架線などに紛れ、鐘があることにこれまで気づかなかった。
目を凝らしよく見ると、驚くほど美しく、磨き上げられている。
朝の光を鈍く反射して静かに佇んでいた。
「霧の日は、相棒ーースカイトロッコが徐行運転になる。その時、俺たち整備士が車両の窓から身を乗り出して、駅の通過に合わせてこの鐘を手で鳴らすんすよ。……ニューイブスキの中で使えるセンサーやスピーカーはいくらでもある。自動で音を鳴らすシステムなんてのも、簡単に組める。でもな、親方がいつも言うんす」
リンタはその鐘を眺め、愛おしそうに目を細めて続けた。
「『霧の日の鐘は、規則じゃなくて約束だ』って」
「約束……ですか?」
ユウトが呟く。
「そう。規則なら機械でいい。でも約束は、人と人が交わすもんだ。霧の海で何も見えなくなっても、この鐘の音が届きさえすれば、姿は見えなくても『おい、俺はここに生きてるぞ! お前も大丈夫か!』って伝わる。ずっと前からこの不便な街はそうやって声を掛け合って命を繋いできたんすよ。だから、今も絶対に、人間の手で鳴らさなきゃ意味がないんす」
リンタの言葉を、ユウトは深く、息を呑むようにして聞いていた。
そして、パーカーのフードを少しだけ下げて、その澄んだ鐘を真っ直ぐに見つめた。
「……け、掲示板と、同じだ」
「え?」と、リンタが尋ねる。
「顔が見えなくても、姿が見えなくても……文字が、音が、『ここに誰かがいる』ってことを教えてくれるから。僕、人が怖くて、ずっと画面の向こうに逃げていたつもりだったけど……。あの場所も、この街の鐘と、同じだったんだ……」
ユウトの声は、もう震えていなかった。
彼が救いを求めていた、顔の見えないインターネットの掲示板。
それは現実逃避の場所などではなく、ずっと昔からこの街で生きる人々が、姿の見えない霧の中で生存を確かめ合っていた「鐘」そのものだった。
リンタは大きく目を見開いた後、豪快に笑って、ユウトの肩をポンと叩いた。
「なんだ、兄ちゃんのそれも、立派な鐘じゃねぇか! 顔が見えなくても繋がってるって、そういうことだろ? かっこいいっすよ!」
ユウトの顔が、じんわりと赤くなる。
自分がずっと頼りにしてきた大切な場所を、この街の古い歴史の側から肯定されたその瞬間、ユウトの瞳に、確かな光が灯っていた。
その場で、ユウトは少し震える手で、大切そうにモバイルルーターと端末を取り出し、掲示板に返信を打ち始めた。
『鳴らしているのは、機械じゃなくて、人でした。今日、その人に会ってきました。霧の日は、今も人間の手で、約束のために鳴らされているそうです』
外の世界の現実と、画面の向こうの見えない世界が、確かに一本の温かい線で繋がった瞬間だった。
数秒後、画面の向こうの見えない誰かから、短い返信が届く。
『そうなんだ。ありがとう。今度霧の日に、ちゃんと聴いてみるよ』
それは冷たい文字の羅列のはずなのに、びみょるの店先まで、ほのかな温もりを運んできてくれた。
「また来いよ、兄ちゃん! 今度は本当の霧の日に、本物を間近で見せてやるよ!」
リンタは大きく手を振り、持ち場へと戻っていった。
うっすらと残る朝霧の向こうから、スカイトロッコがゆっくりと動き出す走行音が響いてきた。
今日は晴れの予報だから、本物の鐘は鳴らない、普通の静かな朝の音だ。
けれど、それだけでちはるの胸は、とても優しく満たされていた。
まことさんは二つのパンでユウトさんの背中を押した。
今日の私がしたことなんて、朝の7時に待ち合わせを一つ作っただけ。
背中を押すって、きっとこういう、小さなことでいいんだ。
誰かの背中に、そっと手のひらを添えるような、優しい誘い。
ちはるは自分の手を見つめ、端末を操作しているユウトの背中を見た。
彼の被るパーカーのフードは、いつの間にか、肩のあたりまで完全に下ろされていた。
吹き抜ける潮風が、彼の髪を優しく揺らしている。
それだけで、今日はなんだか素晴らしい一日になりそうな予感がした。




