第33話 ミワのブログと、ユラの秘密
※基本は一話完結。スキマ時間にどうぞ。
午後2時。
ランチタイムの喧騒が引き、海を臨むテラス席から心地よい潮風が吹き込んでくる時間帯。
パンカフェ『びみょる』の店内は、穏やかな空気のなかに、どこかそわそわとした緊張感が漂っていた。
原因は、いつもの定位置で手帳を大きく広げている常連客のミワと、厨房の出入り口を行ったり来たりしている新人パティシエールのユラだ。
「ちはるさん、実はね、新メニューの『マカロン・ド・びみょる』をちゃんとブログの記事にしたいの」
ミワがきらきらとした目を向けながら申し込んできた。
「今回はただの食レポじゃなくて、作った人のインタビュー付きで紹介したくて! ユラちゃんにお話を聞いても大丈夫かしら?」
「あ、はい! もちろんです。ユラちゃーー」
呼ぼうとして、言葉を飲み込んだ。
厨房の様子がおかしい。
ユラは、出て来ては引っ込み、トレーの上のマカロンを何度も並べ直しては、ミワの席をちらちらと盗み見ている。
完全に挙動不審だ。
えっ、どうしたんだろう……。
ユラちゃん、もしかしてミワさんが苦手?
まさか私、二人の間で何か粗相をしちゃったっけ!?
ちはるの「気にしいアンテナ」がいつものように異常を検知し、心臓がトクトクと暴れだす。
だが落ち着かせるように一つ深呼吸をして、もう一度ユラの背中を観察した。
ーー違う。
あれは嫌がっている背中じゃない。
何か言いたいことがあるのに、何も言えなくて足踏みしている背中だ。
よく知っている。
自分自身が何百回、何千回と繰り返してきた、情けないくらいに愛おしい行動だから。
「……ユラちゃん、大丈夫だよ。ミワさんが、マカロンのインタビューをしたいんだって」
ちはるが優しく声をかけると、ユラはびくっと肩を揺らし、意を決したようにトレーを抱えてテーブルへと歩み寄ってきた。
「ーーうーん! やっぱり美味しい! 外はサクッとしてるのに、中は信じられないくらいしっとり。この絶妙な甘さと酸味のバランス、本当に最高!」
インタビューが始まると、前半の実食パートは快調そのものだった。
ミワは大袈裟なほど身振り手振りを交えて絶賛し、猛烈な勢いで手帳にペンを走らせている。
ユラも、お菓子の技術的なこだわりを聞かれると、いつもの職人気質な表情に戻ってハキハキと答えていた。
しかし、ミワがペンを止め、ふっと柔らかい笑みを浮かべて問いかけた瞬間、空気が変わった。
「ねえ、ユラちゃん。そもそも、どうしてこの『びみょる』に来たの? こんな辺境の崖の上にある小さなお店を選んだ理由を、ぜひ読者のみんなにも紹介したくて」
その質問に、ユラは完全にフリーズした。
口を半分開けたまま、視線が宙を彷徨う。
それは彼女がこの店にやってきて、土下座で弟子入りを志願したあの日の、どこか張り詰めた表情の再演だった。
ちはるの喉の奥まで、出かかった言葉がせり上がる。
(実はユラちゃん、ミワさんのブログを見て、この街に、この店に来たんだよーー!)
それを言えば、この場は一瞬で丸く収まるだろう。
ミワさんは驚き、そして大喜びするはずだ。
この真実を、ユラちゃんが店に来たあの日からずっと知っているのだから。
でも、心のなかの「気にしい」が、今回は違う方向から私を押し止めた。
ーーだめだ。
これは、私が言っちゃいけない。
ユラちゃんが、ユラちゃん自身の言葉で伝えるべきことだ。
先回りして代弁してしまうのは、あの子が人生をかけて踏み出した一番大事な瞬間を、ないがしろにしてしまうのではないか。
誰かに頼ることを覚え、少しずつ「お母さん以外の自分」を取り戻してきたからこそ、「待つこと、見守ること」の大切さが、痛いほどによく分かった。
ちはるはそっと、空になったミワのカップに、新しく淹れたハーブティーを注いだ。
「ゆっくりで、いいからね」
言葉にはせず、空気だけをそこに置いて、ちはるはカウンターの奥へと一歩下がった。
場を整え、主役たちに舞台を譲る。
(それが、今のお給仕担当である私にできる、最高の役割だ)
沈黙が数秒、店内の古時計の秒針の音だけが響く。
やがて、ユラは深く息を吐き出すと、エプロンの大きなポケットから、ボロボロになった一冊のノートを取り出した。
彼女の宝物であり、技術のすべてが詰まった『絶対のマニュアル』だ。
ユラはノートをめくり、技術メモがぎっしり書かれた最後のページの、さらに先ーー裏表紙の内側をミワの前に差し出した。
そこには、これまでの整然としたレシピとは明らかに違う、感情をぶつけるように、びっしりと手書きで書き写された文章の束があった。
「これ……私のブログの記事……?」
ミワが目を見開く。
「はい」
ユラは、ぽつりぽつりと語り始めた。
前の店で効率と数字だけを求められ、心がすっかり磨り減ってしまっていた夜のこと。
偶然、ネットで見つけたのが、ミワの書いた『びみょる』の記事だったこと。
写真に写るスタッフやお客さん、そして文章を紡ぐミワ自身が、心の底から笑っているように見えたこと。
ユラの口から紡がれる言葉は、あの日の土下座のときよりもずっと深く、温かかった。
「……そして居ても立ってもいられなくなって、次の日に店を辞めました。その退職を決めた夜、震える手で、この記事の文章を全部、このノートに書き写したんです」
ユラは愛おしそうに、ノートの文字をなぞった。
「ネオマクラザキみたいな先進都市なら、端末を開けばいつでも読み返せます。でも、画面のなかの軽い言葉のままにしておきたくなかった。私がこれまで、先輩たちの技術を盗むときにそうしてきたように、自分の手で紙に書いて、血肉にして、この宝物のノートに刻み込みたかったんです。それが、私なりの『退路を断つ儀式』でした。写真は写せなかったですけど……何度も何度も読んだから、皆さんの顔は、ここに来る前から全部覚えていました」
「じゃあ、どうして今まで教えてくれなかったの?」
ミワの声が、かすかに震えている。
ユラは少し申し訳なさそうに眉を下げた。
「『あなたの記事のせいで、一人の女の子の人生が狂っちゃいました』なんて言ったら、重すぎるじゃないですか。ミワさんに余計な責任を感じさせちゃうかもって思ったら、ずっと言えなくて……」
ユラの秘密。
それは、相手を傷つけまいとする、あまりにも不器用で優しい沈黙だった。
「わ、私の記事のせいで、お仕事辞めちゃったの……!?」
案の定、ミワは一瞬で顔を青ざめさせた。
ユラが恐れていた通りの反応だ。
けれど、ユラは即座に、強く首を振った。
「せい、じゃないです。おかげ、です!」
その瞳には、一点の曇りもなかった。
「私、びみょるに来て、まこと先輩の隣でマカロンを作って、ちはる先輩にお客さんのところへ運んでもらって……パティシエになって初めて、いま自分は『生きてる』って思えたんです。あの記事は、私の人生の恩人なんです」
ミワは絶句した。
手帳とペンを机に置き、自分の拙い言葉が一字一字、他人の手によって丁寧に写し取られたページを見つめる。
そして、そっと指先でその文字をなぞりながら、ぽろぽろと大粒の涙をこぼした。
「そっか……。アクセス数とか、いいねの数とか、コメントの数とか……そういう数字じゃなくて。私の言葉、ちゃんと『人』に届いてたんだ……」
かつてユラが前職で味わった「数字だけで血の通っていない世界の渇き」。
それを、実は書く側のミワも、画面の向こう側で同じように抱えていたのだ。
二人の渇きが、手書きのノートという不便な媒介を通して、今、癒されていく。
「たった一人にでも、こんな風に届くことがあるならーー私、もう書くのやめられないなあ」
ミワは涙を拭いもせず、鼻をすすりながら、小さく笑った。
「よし! 取材再開!」
メイクが落ちるのも気にせず、ハンカチで豪快に顔を拭いたミワが、今日一番の猛烈な速度でペンを走らせる。
「もう記事のタイトルは決めたわ。『そのマカロンは、ブログがくれた』……なーんてね! ちょっと気取りすぎかしら?」
「最高だと思います!」
ユラが満面の笑みで応じる。
カウンターの奥で、その光景を静かに見守りながら、私は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。
味わう人、作る人、そしてそれを記録して伝える人。
それぞれが自分の役割を全うし、人と人が繋がる瞬間。
それは劇的な大事件なんかじゃなく、こんな風に静かで、だけど世界をひっくり返すくらいに大きい。
(私は今日、あのテーブルにお茶を淹れ直して、一歩下がれただけで、もう十分)
お給仕担当としての小さな誇りが、ちはるの胸を優しく満たしていく。
「ちはるさん」
いつの間にか厨房から様子を窺っていたまことが、そっとちはるの隣に並んで、穏やかに微笑んだ。
「今の、最高のお給仕でしたね」
「ふふ、ありがとうございます」
ちょっとだけ照れくさくて、メイド服のフリルをきゅっと握りしめた。
「帰ったら速攻で書きますからね! 楽しみにしていてちょうだい!」
ミワはいつもの決め台詞を残して、風のように去っていった。
「ミワさん、ありがとうございましたーー!」
ユラが店先まで飛び出して、深々と一礼する。
かつてこの店にやってきたときの、あの必死な土下座とは違う。
まっすぐで、晴れやかで、自分の居場所をここで見つけた女の子の、美しいお辞儀だった。
カランコロン、と入り口のカウベルが優しく鳴り、びみょるにいつもの、心地よい静寂が戻ってきた。




