第31話 完璧な世界の隙間
※基本は一話完結。スキマ時間にどうぞ。
「いやぁ、ちはるさん! この記事、マニアたちの間で本当に大好評ですよ! 見てください、この『週刊サルベージ』の電子版のアクセス数を! ちはるさんのこの、緊張で限界まで引きつったドアップの顔ーー21世紀初頭のリアルなメイドの緊張感が再現されていて実に見事です。実にね!」
営業終わりの『びみょる』の店内に、ふらりと戻ってきたオーナーが、大はしゃぎで分厚いポータブル端末の画面を突きつけてきた。
「もう、オーナー! からかわないでください! この前なんて、この記事のせいで娘たちにアルバイト先がバレて、内緒でお店に突撃されちゃったんですから!」
ちはるは少し頬をぷくっと膨らませて、パタパタとテーブルを拭く手を早めた。
家ではただのパン屋さんのアルバイトだと言い張っていたのに、あのフリフリのメイド服姿を高解像度で惑星中に晒した張本人は、間違いなくこの目の前のオーナーだ。
「ガハハ! それは素晴らしい。ご家族にも君の『奉仕の精神』が伝わったというわけですね。実に結構!」
オーナーはちはるの抗議などどこ吹く風で、上機嫌に笑いながら、目の前に置かれたコーヒーのカップを手に取った。
そのカップを置いたのは、厨房担当のまことだ。
まことは何も言わない。
けれど、オーナーが一口すすった瞬間に満足そうに目を細めたのを、ちはるは見逃さなかった。
まことは、オーナーが好むお湯の熱さ、そして豆の深いコクを完璧に把握して、何も言わずに差し出している。
その二人の姿を、ちはるは手元のふきんを見つめながら、ふと観察してしまった。
片や、古の地球文化に魂を売り、わざわざ不便なレトロを愛する、押しが強くてノリの軽いオーナー。
片や、寡黙で職人気質、いつも穏やかで優しい眼差しで美味しいパンやお菓子を作り、コーヒーを淹れ、厨房を支えるまこと。
(そういえば……)
ちはるはふきんを置き、少し首を傾げて二人に問いかけた。
「あの、ずっと気になっていたんですけど……まことさんとオーナーって、どうして出会ったんですか? なんだか、全然タイプが違う気がするんですけど」
「おや」
と、オーナーがニヤリと眉を上げた。
「気になっちゃいますかね? まことさんの、あの灰色の青年時代が」
「……オーナー、余計なことを言わないでください」
まことが困ったように小さく息を吐いた。
しかし、ちはるが興味津々で目を輝かせているのを見ると、彼は少し照れくさそうに、自分の大きな手のひらを見つめた。
「たいした話じゃないんです、ちはるさん。ただ……僕が、自分のやりたいことを見失って、完全に壊れていたときに、オーナーに拾われたというだけで」
まことはぽつり、ぽつりと、静かに昔語りを始めた。
その声は、夜のびみょるの空間に、心地よく染み渡っていく。
◇
十数年前、若き日のまことは、お菓子作りへの強い情熱を持ってこの業界に飛び込んだ。
幼い頃に食べた、手作りの素朴なお菓子の温もりが忘れられず、自分も誰かを笑顔にするパティシエになりたい。
そう願って、最先端の技術が集まる大手企業の、食品開発部門へと就職した。
だが、彼が配属されたのは、彼が夢見ていた「小麦粉をこね、オーブンの前に立つ厨房」ではなかった。
そこは、真っ白な壁と無機質なデスクが並ぶ、巨大な研究室のような場所だった。
(俺たちの仕事は、お菓子を作ることじゃない。ただ、数式を入力することだ)
まことは、そう思い知らされた。
そこでの製菓プロセスは、すべて最新のシステムによって統治されていた。
顧客の年齢、性別、その日の脳波のデータ、バイタルサインから逆算された「人間が最も美味しいと脳で感じる最適解の味」。
それを、AIの数式通りに一ミリグラム、一パーセントの狂いもなくプログラミングしてデータ化していくーーそれがまことの仕事だった。
人間が食べるのは、感情を揺さぶるお菓子ではない。
脳の報酬系を最も効率よく刺激し、必要な栄養素を最も無駄なく摂取するための「完璧に計算された物質」
画面上の数値を弄り、システムの指示通りにボタンを押せば、最新の全自動調理器が、人間の手など一切触れることなく「完璧なスイーツ」を大量生産していく。
『素晴らしいぞ、まことくん。君の作ったデータは、先月の顧客満足度で100パーセントの数値を叩き出した。我が社の利益も右肩上がりだ』
上司は画面のグラフを見ながら彼を絶賛した。
同僚たちも、効率よく成果を上げるまことを優秀な人間として扱った。
けれど、まことの心は、その100パーセントという数字を見るたびに、少しずつ、確実に削り取られていった。
(これは……本当にお菓子作りなのか? 俺はただの、機械の調教師なんじゃないのか)
ある日、自分のプログラミングした最高傑作のスイーツを、まことは自分で食べてみた。
科学的には完璧だった。
脳が、舌が、「美味い」と激しく信号を出している。
なのに、胸の奥には冷たい風が吹き抜けるだけで、何の温もりも感じられなかった。
俺は一体、何のために生きているんだろう。
誰の、どんな笑顔のために、この数字を入力しているんだろう。
これでいいのか、という疑問が一度芽生えると、もう止まらなかった。
毎日、息を吸うだけで胸が苦しくなり、お菓子への情熱さえもすり減って心が完全に摩耗してしまったまことは、ついにすべてを投げ出して会社を辞めた。
行く宛てもなく、自分の存在価値すら見失ったまことは、街の片隅にある冷たいベンチで、自動温度調整ウェアの電源も入れず、灰色の顔をしてただ座り込んでいた。
時計の針が進むのすら、どうでもよかった。
完全に、システムエラーを起こした機械と同じだった。
そんなまことの隣に、ふらりと誰かが腰を下ろした。
骨董品を小脇に抱えた、風変わりな身なりの男ーー当時から「奇妙な過去の遺物ばかり集めている、おかしな資産家」として知られていた、後の『びみょる』のオーナーだった。
どうやら、掘り出し物を探す散歩の帰り道らしい。
オーナーは、隣でぐったりしているまことを気にする風でもなく、しばらく黙って空を眺めていた。
それから、ふと思い出したように口を開いた。
『おや。ずいぶんとくたびれた顔をしているね。……よかったら、一杯どうだね』
そう言ってオーナーが取り出したのは、金属製の、ひどく古めかしくて傷だらけの保温ビンだった。
オーナーはそこから、小さなコップに、真っ黒で、不気味な湯気を立てる謎の液体をトトトと注いだ。
『飲みたまえ。古の地球人が愛した、最高に無駄で、最高に贅沢な特効薬だ』
◇
「それが……コーヒーだったんですね」
ちはるが小さく呟くと、まことは優しく微笑んで頷いた。
「ああ。当時の僕は、そんなもの見たこともなかったんです。恐る恐る口に含んだ瞬間ーーあまりの苦さに、頭を殴られたような衝撃が走りましたよ」
◇
それは、最新の栄養ドリンクのように飲みやすくもなければ、脳を優しくケアしてくれる成分も入っていない、ただの植物の種を焦がして湯で出しただけの、強烈に苦い液体だった。
完璧に管理された世界には存在しない、計算外の「雑味」
だけど、その苦味の奥から、お腹の底をじわりと温めるような、強烈な人間の熱量のようなものが伝わってきた。
『どうだね? これが古の人間が、毎日あくせく働きながら、それでも一息つくために愛した味だ。数式にはない温もりがあるだろう?』
オーナーのその言葉に、まことの目から、堰を切ったように涙がボロボロと溢れ出した。
声を出して、子供のように泣き続けた。
自分が人間であることを、その一杯の苦いコーヒーが、思い出させてくれたのだ。
まことは、しゃくりあげながら、ぽつり、ぽつりと自分のことを話した。
本当はお菓子で誰かを笑顔にしたかったこと。
それなのに、来る日も来る日も数式を入力するだけの日々に、心がすっかり擦り切れてしまったこと。
オーナーは口を挟まず、ただ黙って、うんうんと頷きながら聞いていた。
そしてワンワン泣くまことの肩を、ガハハと笑いながら叩いて、こう言ったという。
『完璧な世界ってのはね、息をつく隙間がないんだ。だからね、私はこの世界の端っこ、ニューイブスキの崖の上に、その最高の「隙間」になる喫茶店を作ろうと思っているんだ。君、そこで私と一緒にお菓子やコーヒーを作らないか? 数式なんかじゃない、君の手の温もりを込めたお菓子をさ』
◇
「それからさ」
オーナーが自慢げに髭をなでながら、話を奪った。
「まことさんを連れて、二人でボロボロの古民家をトンカチで叩いて直してね。メニューを考えて、道具を集めて……。いやぁ、楽しかったねぇ。今や彼の作るアップルパイや淹れるコーヒーは、私のものよりずっと深くて美味い。『びみょる』の厨房を彼に任せて、本当に大正解だったよ」
「僕は、あの時のコーヒーの苦さと温かさを、一生忘れません」
まことは真っ直ぐにオーナーを見つめ、それからちはるを見た。
「オーナーが僕に、生きる隙間をくれました。だから、僕はこの『びみょる』の厨房で、同じように心が疲れてしまった人たちのための味を作りたいんです。数字も効率も忘れて、ただ、一口の温もりで一息つけるお菓子を」
ちはるは、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。
初めてこの店に来た日。
メイド服を着るなんて恥ずかしくて、パニックになって、何度も失敗をやらかした自分を、まことがいつも怒りもせず、穏やかな目で見守ってくれていた理由。
そしてこの前、ノートの数字に縛られて大失敗し、土下座のまま固まっていた後輩パティシエのユラに、優しく手のひらの温もりを教えてあげていた理由。
そのすべての根底には、まこと自身がかつてオーナーに救われ、ここで「居場所」をもらったという、優しさの記憶があったのだ。
「……まことさん。オーナー」
ちはるはきゅっと拳を握りしめ、顔を上げた。
その目には、いつにも増して強い決意の光が宿っていた。
「私、なんだかすごく、このお店がもっと大好きになりました。私、まだまだ未熟で、すぐパニックになっちゃうダメなメイドですけど……ここに来てくれるお客さんたちが、みんな笑顔で『隙間』を楽しめるように、明日からもっともっと、最高の奉仕をお届けします!」
「おお、素晴らしいね、ちはるさん!」
オーナーがパチパチと手を叩く。
「その意気だ! 明日はまた週刊サルベージを見て新しいマニアたちが来るかもしれないからね、最高の引きつり笑顔を期待しているよ!」
「もう! だから引きつってないですってば!」
ちはるが頬を膨らませて怒ると、まことがふわりと、いつもより少しだけ大きな、本当に優しい笑顔を浮かべた。
「頼りにしていますよ、ちはるさん。明日もよろしくお願いしますね」
「ーーはいっ! お任せください!」
夜の帳が下りた『びみょる』の厨房。
香ばしいコーヒーの残香と、三人の温かい笑い声が、静かに夜の海へと溶けていく。
完璧すぎるこの世界の片隅で見つけた、その小さな「隙間」
今日も誰かを温める明かりを灯らせていた。




