第29話 レシピにない温度
※基本は一話完結。スキマ時間にどうぞ。
「ーーよし。完璧。計量、温度、マニュアル、すべて狂いなしです!」
パンカフェ『びみょる』の厨房に、ユラの凛とした声が響いた。
ステンレスの作業台には、整然と並べられた製菓道具。
その中で、ユラは小ぶりなノートをいとおしそうに閉じ、エプロンのポケットへと収めた。
そのノートは、ユラにとって命の次に大切な宝物だ。
以前働いていた都会の一流洋菓子店。
怒声が飛び交う厳しい職場。
そこで盗める技術のすべて、完璧な温度管理、分量の黄金比を必死に書き留めてきた、いわばユラの血と汗の結晶ーー
『絶対のマニュアル』
である。
「ちはる先輩! いよいよ今日から、私の特製マカロン・ド・びみょるをメニューに加えます! 以前のお店でも一番人気だった、温度管理が死ぬほどシビアな最高傑作です!」
「わあ、すごい! 楽しみにしてるね、ユラちゃん!」
開店準備をしていたちはるが、満面の笑みで応える。
その応援を受け、ユラのモチベーションは最高潮に達していた。
ニューイブスキの住民たちに、笑顔を届けたい。
何より、自分を受け入れてくれたちはるに「美味しい」と言ってもらいたい。
ユラはノートの記述通り、一分の隙もない手際でマカロンの生地を仕込んでいった。
卵白の泡立て、粉の混ぜ合わせ、そしてオーブンの温度設定。
すべてが完璧。
一流店のマニュアルに間違いなどあるはずがなかった。
しかし。
数十分後、オーブンのタイマーが電子音を鳴らしたとき、厨房に異変が起きた。
「……え?」
焼き上がったトレーを引き出したユラの手が止まる。
そこに並んでいたのは、ふっくらと丸く膨らみ、表面がなめらかに輝く美しいマカロンーーではなかった。
表面はベチャベチャと湿り、形は不揃いに歪み、底のほうは空洞ができてスカスカになっている。
売り物はおろか、試作品としてもゴミ箱行きにするしかない、無惨な失敗作だった。
「な、んで……?」
ユラの顔から、すうっと血の気が引いていく。
「計量は一グラムもズレてない。室温も湿度も、エアコンの表示は設定通り。手順だって、秒単位でマニュアル通りにやったのに。」
すぐにノートをひったくるように開き、指でなぞりながら答え合わせをした。
「なぜ……なぜ崩れるの……!?」
これまでの自分の努力、一流店で培ってきたプライドが、目の前で音を立てて崩壊していくような感覚。
パニックと絶望のあまり、ユラの身体はガタガタと震えだした。
次の瞬間、お馴染みの土下座スタイルに突入し、そのままぴたりとフリーズしてしまった。
「ううう……ちはる先輩、申し訳ありません……。私はプロを名乗る資格のない、ただの無能パティシエールです。土に還ります……」
「ユ、ユラちゃん!? 大丈夫だよ、最初は誰だって失敗するし……!」
ちはるが慌てて駆け寄った、そのとき。
トツ、トツ、と静かな足音が厨房に響いた。
奥から姿を現したのはまことだった。
彼はフリーズしているユラを一瞥すると、無言でトレーに近づき、失敗したマカロンの生地を大きな人差し指でそっと触った。
まことは眉間をわずかに寄せ、ぽつりと呟いた。
「……冷た過ぎます。生地が寒がっていますよ」
その一言を残し、まことは何事もなかったかのように自分の作業台へと戻っていった。
だが、その言葉は、どん底にいたユラの心にチクリと刺さった。
床に額を押し付けたまま、ユラは悔しさと理不尽さで奥歯を噛み締める。
(寒がっている……? 生地が……?)
ノートの数字と理論を信じて生きてきたユラにとって、それはあまりにも非科学的で、オカルトめいた精神論に聞こえた。
(まこと先輩は、私のマニュアルを……これまでの私の努力を、そんな古い根性論で否定するんだ。やっぱり、私はこのお店に必要ないんだ……)
心を完全に閉ざしてしまったユラは、そのまま小さな肩を震わせるしかなかった。
◇
その日の夜。
営業を終えたカフェの客席で、ユラは一人、ポツンと座っていた。
テーブルの上には、あのマカロンのノートが開かれたままだ。
「ユラちゃん、お疲れ様。これ、よかったら飲んで?」
トントン、と優しい音を立てて置かれたのは、湯気がたちのぼる大きなマグカップだった。
中には、ちはる特製のカボチャの温かいポタージュが入っている。
「……ちはる先輩。すみません、お気遣いなく。私はただの、マニュアルがないと何もできない木偶の坊ですから」
自嘲気味に笑うユラ。
そんなユラの隣に、ちはるはそっと腰掛けた。
そして、テーブルの上のノートへ視線を落とす。
「うわあ……これ、ユラちゃんが自分で書いたの?」
「え……? あ、はい。前のお店で、怒られながら必死にメモしたもので……」
「すごいよ、これ。文字がぎっしりで、イラストも細かくて……ユラちゃんがどれだけ一生懸命、お菓子作りに向き合ってきたかが、この一冊だけで全部伝わってくる。本当に、ユラちゃんの宝物なんだね」
ちはるはノートを否定しなかった。
それどころか、愛おしそうな目で、ユラの努力の軌跡を百パーセント肯定してくれた。
その温かい言葉に、ユラの頑なだった心が、カボチャの甘味のようにじんわりと溶けていく。
「でも……」とユラは声を詰まらせた。
「このノートの通りにやっても、びみょるでは失敗してしまいました。まこと先輩にも、生地が寒がってるとか、わけのわからない精神論を言われて……」
「ふふ、まことさん、口下手だからね」
ちはるは優しく微笑み、ユラの手をそっと包み込んだ。
「ねえ、ユラちゃん。前の一流店って、すごく綺麗で、空調もボタン一つで完璧に管理されてたでしょう?」
「はい。最新のシステムでした」
「でもね、このニューイブスキは違うの。すぐそこに海があるでしょう? 夕方になると急に冷たい潮風が吹き込んだり、大雨が降ると信じられないくらい湿気が上がったりする。エアコンの温度計が『24度』って言っていても、厨房のステンレスの作業台の上は、海風のせいで本当はもっと冷え込んでるの」
ユラはハッとして顔を上げた。
「あ……」
「まことさんはね、いつも自分の『手のひら』で生地の温度を測ってるんだよ。数字じゃなくて、今、自分の目の前にある生地そのものが、この土地の空気の中でどう感じているかを見てるの。まことさんは、ユラちゃんのノートを否定したんじゃないよ。そこに『ニューイブスキの天気』を足してあげて、って言いたかったんだと思うな」
ちはるは料理だけは多少はわかる自信がある。
「レシピ本の10分」よりも、目の前のお肉の焦げ目のほうが信じられる瞬間があるのだ。
「マニュアルはとっても素敵。でも、お菓子は機械じゃなくて、このニューイブスキの自然の中で、ユラちゃんの手で作るんだもん。数字に隠れている『生地の声』に、耳を傾けてみたらどうかな?」
お母さんのような、包み込むようなちはるの言葉。
ユラは開かれたノートを見つめ、それから自分の手のひらを見つめた。
(私は、ノートの文字ばかり見ていて……目の前の生地を見ていなかった……)
すとん、と胸のつかえが落ちた。
ユラはマグカップを両手で持ち、温かいスープをゴクリと飲み干した。
お腹の底から、新しいエネルギーが湧いてくるのが分かった。
「……ちはる先輩。私、もう一度だけ、やってみます」
「うん! 応援してるよ!」
◇
翌朝。
まだお日様が昇りきる前、誰もいない厨房にユラは立っていた。
作業台の上にマカロンのノートを開く。
しかし、ユラはあえてそこから一歩、目を離した。
ノートを見るのをやめ、目を閉じて、じっと深呼吸をする。
(感じるんだ。今の、びみょるの空気を……)
耳をすませば、遠くから静かな波の音が聞こえる。
今朝は少し霧が出ている。
エアコンの数字は昨日と同じだが、ステンレスの作業台に触れた指先は、昨日よりも明らかに、じんわりと冷たい。
「……確かに、冷えてる」
ユラは慎重に卵白をボウルに入れ、泡立てを始めた。
マニュアルの時間を忘れ、自分の目でメレンゲのツヤを確認する。
メレンゲに粉を加え、ゴムベラで生地を合わせていく。
冷たい作業台の上で、生地が少し固そうに縮こまっている気がした。
(これが……寒がっている、ということ……!)
ユラは、生地に自分の温もりを分けるような気持ちで、優しく、しかし力を込めてゴムベラを動かしていく。
だが、以前の店でのリズムとは違う環境に、どうしても手の動きが迷い、わずかにブレそうになった。
そのとき。
背後から、影が差した。
振り返る間もなく、ユラの両手の上から、ゴツゴツとした大きな、温かい手が重なった。
「え、先輩……っ!?」
驚くユラに、まことは何も言わない。
ただ、ユラの手を包み込んだまま、ゆっくりと、一定のリズムで生地を混ぜ合わせていく。
まことの手は、驚くほど熱かった。
そして、その手を通して、まことが普段どんなスピードで、どんな圧力を生地にかけているのか、その『体感覚』がダイレクトにユラの脳内に流れ込んでくる。
「……この冷たさだ」
まことが、耳元で静かに呟いた。
「……数字じゃなくて、手のひらで。この気温なら、生地がとろりとリボン状に落ちるまで、もう少し……。ユラさんの手の温もりを、分けてあげるみたいに」
「……! はい……はい、先輩!」
まことが手を離す。
ユラはもう迷わなかった。
教わったリズムのまま、自分の手の温もりを全て生地に注ぎ込むように、一心不乱に手を動かした。
まことはそれを見届けると、満足したように小さく頷き、自分の定位置へと戻っていった。
やがて、絞り袋で天板に絞り出されたマカロンは、表面がうっすら乾いて薄皮を張るまで休ませてから、再びそっとオーブンへと吸い込まれていった。
焼き上がるまでの数十分間、ユラは祈るようにオーブンの窓を見つめ続けた。
ちはるも横に並び、そっとユラの肩に手を置く。
ピピピッとタイマーが鳴り、ユラはゆっくりと扉を開けた。
中から溢れ出たのは、甘く香ばしい、昨日とは明らかに違う濃厚な香り。
引き出されたトレーの上にはーー。
ニューイブスキの朝日のような、ふっくらとした美しい丸みを帯び、底には綺麗なギザギザの層ができた、完璧なマカロンが並んでいた。
「できた……。や、焼けました……!」
ユラは歓喜の声をあげ、その場を飛び跳ねた。
「すごーい! すっごく綺麗、ユラちゃん!」
「ちはる先輩! 私、やりました! 生地の声が、ちょっとだけ分かりました!」
二人は手を取り合って大はしゃぎし、厨房の奥では、まことがほんの少しだけ、嬉しそうに口元を緩めていた。
◇
営業を終えた厨房で、ユラは一人、宝物のノートを開いていた。
以前の一流店で書いた、完璧なマニュアルのページ。
そのすぐ隣にある、真っ白だった次のページに、ユラは新しいペンを走らせる。
『★ニューイブスキの朝は、海風で作業台が冷える。
エアコンの数字を信じるな。自分の手のひらで測ること。
生地が寒がっているときは、手の熱を分けるつもりで、リボン状になるまでしっかりマカロナージュする!』
文字の横には、大きな手と小さな手が重なっている、下手くそだけど温かいイラストが添えられた。
一流店のマニュアルを超えて、この土地で、この仲間たちと作る、世界に一つだけのレシピ。
ユラの宝物ノートに、新しくて最高に美味しい1ページが、今、新しく刻まれたのだった。




