第21話 白い新風
※このお話は前後編の【後編】です。前の話からお読みいただくのがおすすめです。
※基本は一話完結。スキマ時間にどうぞ。
「はい! そして、ニューイブスキにアパートを借りて、もう引っ越しも済ませました!」
「順番が前後してる! それはずるいよ!」
思わずまことが吹き出し、店内の空気が少しだけ和らいだ。
しかし、まことはすぐに真面目な顔に戻り、申し訳なさそうに眉を下げた。
「事情や経緯は、よく分かりました。でも、本当に申し上げにくいのですが、僕は弟子を取っていません。そもそも、僕自身まだまだ半人前で、誰かに教えられるような大層な人間じゃないんです」
そんなことないと思うけどねぇ……
まことさんのパンもお菓子も、世界一美味しいのに。
ちはるは心の中でそっと呟く。
オーナーから「まことの自信をなくさせないように」と釘を刺されているが、本人は相変わらず自己評価が低いままだ。
「でも、どうしても……! ここで学びたいんです!」
ユラの真っ直ぐに澄んだ目が、あまりにも清々しくて、ちはるの胸にちくりと小さな痛みが走った。
ここまで自分の「やりたいこと」に対して、リスクを恐れず、全ての情熱を傾けられる強さ。
すごいなぁ、ユラさん。……羨ましい。
私も『お母さん以外の自分』を探しにここに来たけれど、こんな風に、命がけで夢に飛び込むような勇気は持てなかった……
自分の押しが弱く、気にしいな部分と対比して、ちはるはユラの中に眩しいほどの光を見ていた。
「あの、まことさん」
ちはるは思わず、口を挟んでいた。
「ここは一つ、お試し期間みたいな感じで、びみょるで少し働いてもらうとかって、どうですか?」
「うーん……。でも、それって僕の一存じゃ決められないですし、オーナーに相談って形になりますよね」
「ぜひお願いします! お願いします!」
ユラが何度も頭を下げる。
まことは少し困ったように頬を掻きながら、ふと思いついたように厨房を振り返った。
「……じゃあ、ちょっと厨房に入ってみますか?」
「えっ、いいんですか!?」
「まあ、ランチの時間まではまだ間がありますし、お客さんも来ないでしょうから。……それで良いのかって話もありますが、お菓子の様子を見るくらいなら」
「ありがとうございます!」
まことに導かれ、ユラと、そしてちはるも一緒に『びみょる』の厨房へと足を踏み入れた。
「そうだ、まことさん。何か簡単なお菓子を作ってもらったらどうですか? それでユラさんの技量みたいなものが分かるんじゃないでしょうか」
ちはるの提案に、まことは「なるほどですね」と頷いた。
「うーん、では、シンプルなクッキーを作ってみましょうか。材料や道具はここに揃っているものを自由に使ってください。オーブンはそちらのーー」
その時、ユラが「あっ!」とびっくりした声を上げた。
厨房の最奥に鎮座する、石造りの古めかしい塊を見つめている。
「もしかして、この窯……地球の石で作られた窯ですか!?」
「ああ、ご存知ですか? 僕も詳しくは分かりませんが、オーナーがそう言ってました。何でも、最初の移民たちが地球から持ち込んだらしいですよ」
「都市伝説だと思ってました……! ほんとに、本物が存在するなんて……!!」
ユラが感動のあまり目を輝かせ、窯に近寄ろうとした、その時。
あ、あら……?
ちはるは、窯の奥の暗がりに、ゆらゆらと揺れる小さな、けれど妙に自己主張の激しい影を見つけた。
気のせいか、その影はユラに向かって「不審者が来た!」と言わんばかりに、ものすごい剣幕で睨みつけているように見える。
あちゃー……あれって、窯の妖精ユッキちゃんよね。
なんだか別のトラブルの予感がするわ……
「今回はこちらのオーブンで作ってみてください」
さすがにこの窯は使わないのね。
よかったわ。
ユラさんが使おうものなら嫉妬の炎で大火事になってしまうんじゃないかしら。
ちはるが密かに冷や汗を流している間にも、ユラは「はい、ではお借りいたします!」と、エプロンを締め直して作業に取り掛かった。
その瞬間、厨房の空気が一変した。
ユラの動きには、一切の迷いがなかった。
粉をふるう手つき、バターを練るタイミング、ボウルと泡立て器が触れ合う音すら、必要最小限の心地よいリズムを刻んでいる。
無駄のない、緩急のある鮮やかな手捌き。
ちはるは、その姿にただただ見惚れてしまった。
何より、ユラの真摯な瞳の奥に、キラキラと煌めく「夢」の残像が、見ているこちらにまで熱として伝わってくるようだった。
やっぱり、羨ましいな……
私には、あんな風に何かに没頭できる才能も、若い情熱もない。
ただの気にしいの主婦だもの……
ほんの少しの寂しさを覚えながらも、ちはるは焼き上がるクッキーを待った。
やがて、オーブンから、胸が締め付けられるほどに甘く、香ばしい香りが漂ってくる。
香りだけで、その辺の高級店のお菓子を遥かに凌駕する美味しさだと確信できるレベルだった。
チーン、と小気味よい音が鳴り、焼き上がったクッキーが取り出される。
「……いただきます」
まことが慎重に一口、口に運んだ。
ちはるも「私も、ちょっと失礼して……」と、焼き立てを一つ、口に含んだ。
「ーーっ!!」
その瞬間、ちはるの口内に、優しく解けるような至福の食感が広がった。
サクッとした歯触りの後に、アーモンドと上質なバターの豊かな風味が鼻に抜ける。
香ばしさだけでなく、舌触りが何とも絶妙で、飲み込んだ後も幸福な余韻が続く。
「美味しい……! とても美味しいです、ユラさん!」
「うん、素晴らしい技術だ。こんなに美味しいものが作れるなら、どこのお店でも即戦力としてやっていけると思うけれど……」
まこととちはるが心からの笑顔を浮かべると、ユラは本当に嬉しそうに、けれどどこかホッとしたように肩の力を抜いた。
カランコロン。
その時、入り口のカウベルが鳴り響いた。
「ああ、お客様だ。もうランチの時間ですね。まことさん、ランチの準備をしましょう」
「了解です。……ユラさん、申し訳ありませんが、今日はこの辺で。……やっぱり、僕が『弟子』を取るというのは、どうしても難しいです」
ユラの顔から、さっと血の気が引く。
「でも! クッキー、本当に美味しかった。すばらしい腕前、あなたならどこに行っても、お客さんを笑顔にすることができますよ」
「……ありがとうございます……」
ユラは嬉しさと悔しさが入り混じったように、きゅっと口元を噛み締めていた。
やっぱり、このまま帰しちゃうのは少し勿体無いな。
一緒にお仕事できたら、お店がもっと賑やかになるのに……
ユラは手早く完璧に片付けを終えると、二人に深く一礼した。
そして、少しだけ肩を落とした後ろ姿で店を出て行った。
厨房には、彼女が残していった情熱の熱気か、あるいはオーブンの残り香か分からない暖かさが、しばらくの間満ち満ちていた。
◇
翌日早朝。
まことがいつものように、仕込みをするために『びみょる』の重い木製の扉を開けた、その時のことである。
「おはようございます、まことさん! すでに小麦粉の計量と、オーブンの予熱、全ての準備は完了しております!」
「はぇっ!?!? えええええ!?」
厨房の入り口で、まことが間抜けな叫び声をあげてひっくり返りそうになっていた。
そこには、昨日お貸ししたものではない、仕立ての素晴らしい真っ白なコック服に身を包み、ビシッと背筋を伸ばしたユラが立っていたのだ。
「え、え? なんでユラさんがここに……!?」
混乱するまことが視線を横にずらすと、バーカウンターの椅子に浅く腰掛けたオーナーが、いつものように髭をいじりながら、にやにやと胡散臭い笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「おはよう、まことさん。彼女、夜が明ける前から店の前で待っていましてね」
「『悪い人に見えないので採用』ということで、我が店の新しい仲間です。さあ、まことさん! 今日から先輩パティシエとして、ビシバシ指導してあげてください!」
「オーナーーーーーーっ!!! 相談なしですか!?」
まことの絶叫が響き渡る中、少し遅れて出勤してきたちはるは、厨房から溢れるあまりの熱気に目を丸くした。
「ユラさん!!」
「まこと先輩、ちはる先輩! 今日からよろしくお願いします!」
これまでの人生で一度も呼ばれたことがない先輩呼びが、なんだかこそばゆい。
頭を抱えているまことを横目に、ちはるは満面の笑みでユラを迎えた。
「ユラさん、こちらこそよろしくね!」
新風どころか、台風のような情熱娘が加わった『びみょる』
ちはるはこれからの日々がますます騒がしく、そして温かくなる予感を抱かずにはいられなかった。




