第16話 海霧の日
※基本は一話完結。スキマ時間にどうぞ。
「……本当に、真っ白」
カウンターの中から、びみょるの大きな窓の外を見つめ、小さくため息を漏らした。
いつもなら窓の向こうには、断崖絶壁の荒々しい岩肌と、その向こうに広がるニューイブスキの美しい青い水平線が見えるはずだった。
けれど、今日の景色は違った。
朝から海辺の街を襲ったのは、数歩先も見えなくなるほどの深い海霧だ。
まるで世界そのものが白い絵の具で塗り潰されてしまったかのように、視界のすべてが白一色に染まっている。
普段なら、観光客や買い物客を乗せて元気に斜面を登っていく『スカイトロッコ』も、今日ばかりは安全を考慮して、いつもの半分以下の速度で運転しているらしい。
そして「カーーーーーン……カーーーーーン……」と鳴る音が、どこか遠い世界の出来事のように響いていた。
街の喧騒は完全に沈黙している。
「ちはるさん、今日の分のカンパーニュ、焼き上がりました」
厨房の奥から、パティシエのまことが静かに声をかけてきた。
いつもなら、新しい試作スイーツが爆発しただの、それを見たオーナーが面白がってからかっていじり倒すだのと騒がしい厨房だが、今日ばかりは二人とも、この霧の静けさに圧倒されているようだった。
「ありがとう、まことさん。……でも、今日は本当に、誰も来ないかもしれないですね」
私は手元のグラスをネルの布でそっと拭きながらつぶやいた。
いつもなら、未経験の接客に緊張して「失敗したらどうしよう」「迷惑をかけたらどうしよう」と肩に力が入りがちな私の「気にしい」な心が、今日に限っては、この白い静寂に守られているように穏やかだった。
いつものように客がいない時間が多いびみょる。
のんびりしていてもバチは当たらないかもしれない。
ホッとしたような、だけど少しだけ寂しいような気持ちで湯気を立てるコーヒーのポットを見つめていた、その時だった。
カランコロン、と。
まるで霧に吸い込まれるようなカウベルの音がして、お店のドアが静かに開いた。
「いらっしゃいませ……」
私が少し驚きながら声をかけると、入ってきたのは、仕立ての古い、だけど折り目の正しい上着を着た初老の男性だった。
あ……確か、半月ほど前の雨の日にも来てくださった、地元の……
毎日ではないけれど、時折こうしてふらりと現れる、寡黙な常連のお客様だ。
男性は帽子についた霧の水滴を静かに払うと、いつもの特等席ではなく、窓際の席へと腰を下ろした。
「……ブレンドと、その焼き立てのカンパーニュを」
「はい、かしこまりました」
私は丁寧にコーヒーを淹れ、まだ温かいパンを切り分けて彼の席へと運んだ。
いつもなら「失礼いたします」とだけ言って、相手の邪魔をしないようにすぐに下がるところだった。
けれど、窓の外の真っ白な世界と、コトコトと鳴るポットと揺らめくコーヒーの湯気が、いつもより少しだけ大胆にさせた。
「……今日は、一段と深い霧ですね」
本当に、小さな、邪魔にならない程度の、そっと添えるような一言だった。
男性は、手元に置かれたコーヒーのカップを見つめたまま、しばらく黙っていた。
やはり話しかけられたくなかったかしら、と私が内心で「気にしい」を爆発させ、慌てて身を引こうとした、その時。
「……この霧が出るとね、思い出すんだ」
男性は顔を上げず、ぽつりと、だけど深く響く声で話し始めた。
「まだこの街が、今のような『遺構都市』などと観光地になる前の頃の話だ。……いや、もっと前だな。私たちがこの星に不時着し、あらゆる知識を失った『失われた200年』の、本当の地獄を知っていた、私の祖先の話をね」
コーヒーの温かい湯気の向こうで、男性の目が、遠い過去を見つめるように細められた。
「あの頃は、一度海霧が出ると、本当に一歩も動けなかったんだ。情報デバイスも、ナビゲーションシステムもない。資材艦『カイモンダケ』からサルベージした旧式の機械も、この霧の中では何の役にも立たなかった。自分が今、どこに立っているのかさえ分からなくなる暗黒の白だ。……そんな中でね、人間はどうやって生きているかを知ったと思うかね?」
ちはるは言葉を無くし、ただ男性の言葉を待った。
「音だよ」
男性は窓の外、霧の奥から響く「カーーーーーン、カーーーーーン」という音に耳を傾けた。
「何も見えない暗黒の白の中でね、みんなで錆びた鐘を叩き合ったんだそうだ。カン、カン、とね。お互いに見えなくても、その音を聞けば『ああ、あそこに誰かが生きている』と分かった。遭難しかけた者も、その不器用な鐘の音だけを頼りに、なんとか命を繋ぎ止めてお互いの生存を確かめ合っていた」
男性は、焼き立てのカンパーニュを一口小さくちぎり、口に運んだ。
「今じゃあスカイトロッコの霧の徐行運転時の警告用でしかない。だがね、昔の人間にとっては、あの頼りない音こそが『そこに誰かがいる』という、何よりの救いの音だったんだよ。この街の人間は、そうやってお互いの存在の音を鳴らし合って、200年を生き延びて、このニューイブスキを築いたんだ」
カーーーーーン、カーーーーーン……。
霧の奥から響く音が、ちはるの胸の奥に、じわじわと染み込んでいく。
いつも、他人の目ばかりを気にしていた。
「変に思われていないだろうか」「私の接客は迷惑じゃないだろうか」と、自分のことばかりを気にして、勝手に疲れていた。
けれど、この街の先祖たちが鳴らし合っていた音は、そんな窮屈なものじゃない。
ただ、「私はここにいるよ」「あなたもそこにいてね」と、お互いの存在を静かに祈り、思いやるための音だったのだ。
他人の目を気にしてしまうのも、根っこにあるのは「誰かに不快な思いをさせたくない」という、相手を思いやる気持ちからだったのかもしれない。
そう思うと、自分のこの面倒くさい「気にしい」な性格が、ほんの少しだけ、愛おしいもののように思えてくるから不思議だった。
「……少し、喋りすぎたな。どうもこの霧は、年寄りの口を軽くしていけない」
男性は、きれいに空になったカップと皿を見つめ、いつも通りの少し無口な顔に戻って、小さく笑った。
そしてカウンターに代金を置くと、ふと、思い出したように付け加えた。
「……トキワだ。名乗りもせず、長話をしてしまったね」
「あ……私、ちはるです! あの、お話……とても、素敵でした」
「うん。……ごちそうさん、ちはるさん」
トキワさんはそれだけ言い残して、再び白い霧の中へと消えていった。
カラン、とカウベルが鳴る。
その余韻に浸るように、ちはるはしばらくその場に立ち尽くしていた。
客が店を出て行ってからしばらくすると、あんなに深かった海霧が、どこからか吹いてきた優しい風に流されて、ゆっくりと薄くなり始めた。
窓の外に、少しずつ明るい太陽の光が差し込んでくる。
白い帳が上がっていくように、ニューイブスキの青い海が、断崖絶壁の力強い姿が、再びその輪郭を現していく。
遠くの駅の方から、いつもの速度を取り戻したスカイトロッコの賑やかな音が響き始めた。
「よし! ちはるさん、霧も晴れてきましたし、午後も頑張りましょう! 新作の『霧をイメージした綿あめ激辛カレーパン』のアイデアが浮かびました!」
「まことさん、それは絶対に味が大爆発するからやめましょうね!」
厨房から勢いよく飛び出してきたまことの声に、カウンターの奥でオーナーが「おや、それは面白そうだ」とニヤニヤしながら頷いている。
いつもの、賑やかで、少しだけ不便で、だけど愛おしい『びみょる』の日常がゆっくりと戻ってくる。
片付けたカップを胸に抱きしめながら、もうすぐ消えるであろう音に耳を澄ませた。
心の中の霧も、すっきりと晴れ渡ったような、そんな温かい余韻を噛み締めながら。
ちはるは新しいお客様を迎えるために、大きく息を吸い込んだ。




