第15話 頼られないほうが、寂しい
※基本は一話完結。スキマ時間にどうぞ。
びみょるの扉が珍しく、幾度となく慌ただしい音を立てていた。
「いらっしゃいませ! ーーあ、はい、テイクアウトのサンドイッチが二つですね! 少々お待ちください!」
カウンターの中で、ちはるは半分悲鳴のような声を上げながら、手書きのオーダー票を握りしめていた。
三十路を過ぎて始めた、パンカフェ『びみょる』でのアルバイト。
胸周りはゆったりしているのにウエストだけが妙にタイトな、オーナーお手製のメイド服。
いつもならそのクラシカルな装いに少しだけ背筋が伸びるような心地よさを覚えていたのだけれど、今日ばかりは、そのウエストのきつさが物理的に呼吸を浅くさせていた。
時刻は午後1時。
いつもなら穏やかな時間が流れるはずの平日の昼下がり、店の中は異例の『大荒れ』を見せていた。
断崖絶壁をのぼる自走式ロープウェイ『スカイトロッコ』が、今日に限って臨時の団体客を乗せて到着し、その二十人近い観光客がこぞって『びみょる』になだれ込んできたのだ。
さらに、沖合にある資材艦『カイモンダケ』の入植記念館でのイベント帰りの客までが、テイクアウトを求めてレジに殺到している。
(落ち着いて、ちはる。大丈夫、私は二人の子供を育ててきた主婦なんだからっ!)
「あの、すみません! A卓のコーヒーまだですか?」
「あ、申し訳ありません! すぐにお持ちします!」
ちはるはトレーを抱えて狭い店内を小走りで往復する。
ちはるの自宅があるネオマクラザキなら、こんなパニックは起こり得ない。
買い出しも、調理も、片付けも、すべてAIを搭載した高度な機械が自動で代行してくれる「子育てに最適な街」だからだ。
けれど、ここニューイブスキは高度な情報デバイスや自動化技術の持ち込みが一切禁止されている、あえて不便さを残した街。
つまり、この店を回しているのは、すべて人間の手と足だけなのだ。
「ちはるさん、テイクアウトのチキンサンド、三つ上がりました!」
「はい! ありがとうございます、すぐにお渡しします!」
厨房の奥から、パティシエ兼厨房担当のまことが汗を拭いながら声を張り上げる。
彼も彼で、急な大量オーダーのパンを焼き上げるために完全に手一杯のはずだった。
胸の中に、数日前から燻っていた「気にしい」の虫が、ここぞとばかりに騒ぎ立てていた。
私は接客未経験で雇ってもらった身。
ただでさえ、まことさんの爆発試作スイーツの試食係くらいしか役に立っていないんだから。
こんな時こそ、ちゃんとしなきゃ。
戦力として役に立っているところを見せないと、みんなに迷惑がかかっちゃう……!
「あ、お客様お釣りは、ええと、六百、いや、二百……っ」
ネオマクラザキのような自動電子決済はない。
慣れない手動でのレジに焦れば焦るほど、頭の中の数字がごちゃごちゃになっていく。
結局、指を折って数え直し、なんとか正しい額を差し出した。
しかしまだ頭の隅で小さなアラートが鳴り響く。
あ、B卓のお客さん、最初にお水を出したっけ? 触ってない気がする。
あ、でもあっちのC卓の片付けもまだだし、入り口には新しいお客さんが並びそう……!
「ちはるさん、無理をしないで、僕もホールにーー」
「大丈夫です! まことさん、パンが焦げちゃいます! 私は平気ですから!」
厨房から顔を出そうとしたまことを、強い声で遮ってしまった。
迷惑をかけちゃいけない。
自分で処理しなきゃ。
我慢して、空気を読んで、完璧に動かなきゃ。
視界がパチパチと火花を散らすように狭くなっていく。
ちはるは焼き上がったばかりのクロワッサンのバスケットを両手で抱え、足早にカウンターへと向かおうとした。
その時、視線はすでに次の卓へと向いていて、足元が完全に疎かになっていた。
「あっーー」
自分のメイド服の長い裾を踏んだのか、それとも、ただ床の木目に引っかかったのか。
世界がぐらりと傾いた。
両手のバスケットが手放され、床に美味そうなクロワッサンが散らばるビジョンが脳裏をよぎり、ぎゅっと目を瞑った。
最悪だ。
みんなに、大迷惑をーー
しかし、衝撃は来なかった。
カサリ、と、白いエプロンの清潔な生地の音がして、ちはるの身体は強い力でせき止められた。
「……危ないっ!」
ちはるが目を開けると、いつの間にか厨房から飛び出してきたまことが、両腕をがっしりと掴んでいた。
バスケットは、彼の長い腕がギリギリのところで挟み込んで守られていた。
店内が、一瞬だけ静まり返る。
カウンターの奥からは、白シャツに黒ベスト姿のオーナーが、整えられたひげを指で触りながら、いつもの飄々としたにやにや系スマイルを消してこちらを見ていた。
「……ちはるさん」
まことの声は、いつもより少しだけ低く、そして強かった。
彼の手のひらから、じんわりとした体温が袖越しに伝わってくる。
「一人でやろうとしすぎです。どうして、僕を呼んでくれなかったんですか」
その真っ直ぐな言葉が、いっぱいいっぱいになっていたちはるの心に、冷や水を浴びせられたような衝撃を与えた。
情けなさと、恥ずかしさと、焦燥感が一気に押し寄せてきて、喉の奥から尖った声を絞り出した。
「だって……! まことさんは仕込みで忙しいし、オーナーだって全体を見てくれているし……私、これ以上みんなに迷惑をかけたくなかったんです! ちゃんと、足手まといにならないように、ひとりで出来るって証明したくて……!」
気にしいで、押しが弱くて、いつも肩に力が入りがちなちはるの、それが本音だった。
人に迷惑をかけるくらいなら、自分がすり減った方がマシだ。
ずっとそう思って生きてきた。
けれど、まことは怒らなかった。
彼は一瞬だけ、本当に悲しそうに、胸を突かれたような顔をしてから、ぽつりと静かにこう言ったのだ。
「……頼られないほうが、寂しいですよ」
「え……?」
「僕たち、そんなに頼りないですか? ちはるさんが一人でパンクしそうになって、こんなに苦しんでいるのに、厨房の奥でそれに気づけなかった僕のほうが、よっぽど情けないです。迷惑なんて、思ったこと一度もありません。僕らは、お店の仲間じゃないですか」
まことの言葉は、飾りがなくて、どこまでも誠実だった。
頼られないほうが、寂しい。
そんな風に考えたこともなかった。
迷惑をかけないことが「優しさ」で「正しさ」だと思っていたけれど、それは同時に、相手の優しさを受け取らないという壁を作っていたのかもしれない。
「そうですよ、ちはるさん」
いつの間にかすぐ側に立っていたオーナーが、いつもの胡散臭くも憎めない笑みを浮かべて、ちはるの肩をポンと叩いた。
「あなたは、私やまことさんのことを、まだ信頼してくれていないんですか?」
「そんなっ、そんなわけありません! お二人とも、すごく温かくて、信頼しています!」
「なら、泥臭く頼りなさい」
「ここニューイブスキには、全部を完璧に処理してくれる便利な機械なんてありません。その代わり、不器用だけど融通の利く人間が、ここに三人もいるんですからね」
オーナーの言葉に、店内のあちこちから、様子を窺っていたお客さんたちの温かい笑い声が漏れた。
「そうだよ、お姉さん! 水の出し忘れくらい気にしなさんな!」
「こっちの会計、まとめてでいいからゆっくりやりなよ!」
その言葉を聞いた瞬間、視界を覆っていた張り詰めた霧が、すうっと晴れていくような気がした。
「……はい。すみません。まことさん、レジの行列、手伝ってもらってもいいですか?」
「はい! 喜んで!」
まことが弾んだ声でレジへと向かう。
ちはるは深呼吸をして、散らばりかけたバスケットを抱え直した。
夜。
激動の一日が終わり、閉店後の『びみょる』。
昼間の嵐が嘘のように静まり返った店内のシンクには、団体客が使った大量のコーヒーカップや皿が、山のように積み重なっていた。
いつもなら、ここで「これは私の仕事ですから! お二人は先に帰ってください!」と意地を張り、一人で泣きそうになりながら皿を洗っていたはずだ。
ちはるはシンクの前に立ち、スポンジを握りしめた。
すぐ隣の厨房では、まことが明日の仕込みの片付けを始めている。
ちはるはぎゅっとメイド服の裾を握りしめ、それから、小さく息を吸い込んだ。
「あの……まことさん」
「はい、何ですか? ちはるさん」
まことが振り返る。
胸の奥の「ちゃんとしなきゃ」という重い鎧を、そっと横に置くような気持ちで言葉を紡いだ。
「もし……もしよかったら、なんですけど。この大量のお皿、少しだけ……拭くの、手伝ってもらっても、いいですか……?」
言えた。
初めて、自分から口にした、かっこ悪くて、完璧じゃない「助けて」。
まことは一瞬だけ丸い目をさらに丸くして驚いたけれど、次の瞬間には、パッと花が咲いたような、嬉しそうな笑顔になった。
「はい! もちろんです! 僕、お皿拭くのめちゃくちゃ早いですよ。職人技を見せちゃいます!」
「ふふ、頼もしいですね。じゃあ、お願いします」
まことが隣に並び、清潔なふきんを手にする。
洗った先から、彼がリズミカルに皿を拭いていく。
ガチャン、カチャン、と静かな夜の店内に響く食器の音は、昼間のパニックの時とは違って、驚くほど心地よく、温かいメロディのように聞こえた。
カウンターの奥では、オーナーが楽しそうに『週刊サルベージ』の録画テープを片付けながら、にやにやと見守っている。
ネオマクラザキの便利な機械たちは、私の「助けて」なんて待たずに、全部を完璧に、無機質に片付けてくれた。
だから私は、誰にも弱みを見せちゃいけない、失敗しちゃいけないんだと思っていた。
でも、違ったんだ。
完璧じゃないからこそ、人は誰かと隣り合うことができる。
弱さを見せられること、泥臭く助け合えること。
それこそが、この不便な街の、この店が持つ、本当の『信頼』のカタチなのだ。
「あ、ちはるさん、次の皿どうぞ!」
「はい、今渡しますね」
ふっと大きく息を吸い込む。
不思議なことに、いつもは少しだけ窮屈に感じていたメイド服のウエストが、今はすっかり馴染んで、とても軽くなったような気がした。




