第10話 笑顔の値段
※基本は一話完結。スキマ時間にどうぞ。
売り切れの知らせが売り場を埋め尽くしている頃のパンカフェ『びみょる』
カフェの奥にひっそりとあるバーカウンター、その一席でグラスを片手に佇んでいるオーナーは、この時間を好んでいた。
自らコレクションした骨董品。
彼がデザインしたどこか不器用で温かい店内。
それらに囲まれて芋焼酎を舐めているのが心地よかった。
そしてそれは、昔を思い出し、初心という戒めを心に打ち直す、絶好の場所であり時間でもあった。
◇
数十年前ーー。
オーナーはなんら輝きもない学生時代を終えようとしていた。
突然社会という水槽に放り込まれた絶望感と焦燥感。
その渦の中で自分を見出せず、表現もできずに、濁った水の中を右往左往している魚のようだった。
そんな時、大都市の一等地に並ぶ高級カフェでアルバイトを始めた。
仕事をこなしていくうちに接客の面白さにのめり込んでいった。
客をもてなすことに、生きがいすら感じ始めていた。
「こうすれば、もっと喜んでくれるかもしれない」
夢中になる中で、いろいろなアイデアが湧いた。
幸いにも自分のアイデアを実行させてもらえる環境が与えられ、それが店舗の売り上げや、自分自身への評価に直結していくプロセスがたまらなく面白かった。
数年の間、評価を上げ続け、厳しい先輩にも鍛えられ、カフェのフロアを任される責任者となった。
次第にその手腕を買われ、店舗拡大の店長候補の筆頭に名を連ねることになった。
「君には、この新店舗を任せる。より一層がんばってくれよ」
そういって計画書を渡してきたのは、世間でも有名になりつつあった若き敏腕社長であった。
任される新店舗は、近年人気を博している高級マンションが立ち並ぶウォーターフロントのメインストリート。
若き日のオーナーは、新たな挑戦の場を提供してくれた社長に大いに感謝し、胸に熱い闘志を燃やしていた。
店長として、店の細部のデザインやテーブルの配置、新人の教育。
寝る間も惜しんで全てをこなし、翌週いよいよオープンを迎える、というところまで漕ぎ着けた。
そんな時だった。
社長から新たな指示が下されたのは。
その内容には、どうしても納得がいかなかった。
「……コーヒー豆の仕入れの原価を大幅にさげる、どういうことですか?」
眉間にシワを寄せている社長に問いただしていた。
「それも事前に工場でローストされたものを使うと?」
「店内でローストすることが売りだったはずではなかったのですか?」
「この豆では今までの味は出せません。提供価格も下げるのですか?」
若さゆえの正義感でまくし立てた。
しかし、社長は表情一つ変えずに言い放った。
「いや、価格は据え置きだ。とにかく仕入れ原価と提供コストを徹底的に削り、利益率を最大化するんだ」
その言葉には、かつて「お客様に最高の笑顔を」と語っていた頃の熱は、微塵もなかった。
利益を上げたい企業倫理はわかる。
しかし、お客様が愛してくれているあの味を出すには、安価な豆では絶対に不可能なのだ。
これまでもどれほど検討し、試行錯誤してきた結果が今のコーヒーか、フロアの責任者だった自分が一番よく知っている。
カフェにおいて飲料の利益率がどれほど重要かも理解したうえで、それでも食い下がった。
「しかしこの利益率はあきらかに……」
全てを言い終える前に、言葉を遮られた。
「ぼったくり、と言いたいのかい?」
社長は冷徹な視線とともに、胸ポケットからタバコを一本取り出した。
カフェは全席禁煙だった。
「君にいいことを教えてやろう」
タバコに火を灯し、一呼吸置いた。
「金持ちが高いお金を出して買ってくれることはぼったくりとは言わないんだよ。彼らは、高いお金を出して『特別なものを買う自分』というステータスに金を払っている。それで喜んでいるんだ」
ジワジワと喉の奥に違和感が込み上げてくるのを覚えた。
「我々は、彼らに大金を使わせて、自己満足を満たすための劇場を提供している、それだけだ」
ゆがんだ口元から白い煙を吐き出しながら、社長はまだ完成したばかりの新店舗を後にした。
(自己満足の……劇場……)
取り残された空間で、オーナーはこれまで自分がやってきたことを思い出していた。
客層はたしかに、土地柄もあり裕福な人々が多かった。
高級感を売りにしていたのも事実だ。
しかし、これまで見てきたお客様は、もっと純粋に、笑顔や、くつろぎや、美味しいコーヒーを求めて足を運んでくれていたはずだった。
それをこのカフェは提供してきた。
価格は高くとも、それ相応の最高の時間を提供してきた自信があった。
以前の社長は、そんなことを言う人ではなかったはずだ。
お客様に最高のものと、最高の笑顔を届けようというのが、共に掲げた信条ではなかったのか。
(金持ちは、ステータスを買って喜んでいるーー)
社長の言葉が、耳の奥にこびりついて離れようとしなかった。
問いが頭を巡れば巡るほど、これまで信じてきたお客様の笑顔が、店の豪華な内装が、そして胸を張って立っていた自分の姿さえもが、ひどくみすぼらしく、薄汚れたものに思えてきた。
客はカフェで「優雅に笑顔になっている自分」を演じ、自分は客が笑顔になってくれたことに「喜びを抱く優秀な店員」を演じていた。
もてなすも、もてなされるも、すべてただの「ごっこ遊び」だったのだろうか。
どれもこれも、あれもこれも、すべてが作り物、中身のない箱。
若き日のオーナーは、翌日、辞表を出した。
そして、目に見えない、数字では測れない「本物」を探すために、宛てのない旅に出たのだった。
◇
「ちょっと、オーナー! あんまり飲みすぎると体に悪いですよ?」
不意にかけられた現実の声に、オーナーはゆっくりと目を開けた。
グラスを小さく揺らす。
溶けて小さくなった氷が、音もなく静かに浮いていた。
目の前には、トレーを胸に抱え、眉を八の字にしてこちらを心配そうに覗き込んでいるメイド姿の女性。
「ーーちはるさん」
「はい?」
「この仕事は、楽しいですか?」
あまりに唐突でシリアスな問いに、ちはるは意表を突かれたように瞬きをした。
それから、何か変なことでも言ったかしらと視線を泳がせ、少し照れくさそうに、けれど誤魔化しのない笑みを浮かべて答えた。
「……そりゃあ、ドジばっかりで毎日胃が痛いですけど。でも、とても……楽しいですよ。私が運んだパンやコーヒーで、目の前のお客さんが、美味しそうに笑顔になってくれるのを見られるのは……やっぱり、嬉しいですから」
「ーーそう……ですか……」
「な、なんですか改まって! もしかして、私の接客にまた星が足りないとか、そういう小言ですか……っ?」
すぐに先読みしてオロオロし始めるお馴染みの姿に、オーナーは小さく吹き出し、グラスに残った焼酎を一気に飲み干した。
「いえいえ♪ ちはるさんの接客は、いつでも最高ですよ」
パンカフェ『びみょる』の狭いバーカウンターに並べられた二つの笑顔ーー
値札は、どこにも付いていなかった。




