鳥は彼方へ飛び去った(下1)
その後何回かの停車階を経て、次第にエレベーター内から人がいなくなっていった。
時計を見ると、ボックスで同席してから二時間程経っていた。
打ち解けて話し込んでいれば早いもので、次は終点である。
乗っているのはたぶん、僕らしかいない。
「そういえば、どちらまで行かれるのですか」
「こいつを飛ばしに最上階へ」
そういって荷物の中の包みをひとつ開けた。急な光で驚いたのか、檻の中で羽根をばたつかせた。
彼女が目を見開いた。
「……何ですかこれ」
「たぶん白鳥」
「ハクチョウっていうのは?」
「見ての通り鳥の一種」
「あ、これがトリなんですか。へぇ……」
「君、鳥を見たことがないのかい」
「どういったものかは親から教わっていましたが、実際にはないですね。それにこの階層の人間で『トリ』を知っているのは少ないと思います。知っていても仕方のないことだと役所に思われているんでしょうね。――ところで、もう1つの包みの方は」
今度はこちらから目線を合わせ、ゆっくりとかぶりを振った。
一瞬僕の瞳を覗きこんだあと、彼女はそれ以上深く追求しなかった。
「そういう君はどこへ行くんだ。K層の2万7千8百階はとうに通り過ぎているのに」
「多分あなたと行き先は同じです。K層の最果ての階まで」
『最果ての階』?
その意味について尋ねようとしたとき、轟音と激しい揺れと共に照明が落ちた。
暗くて何も見えない。
停電だと気付くまでにずいぶんとかかった。
慣性の法則でしばらく上昇していたエレベーターは重力と安全装置の作動によって止まった。同時に僕の思考もほんの数秒間停止していたようだ。
「あの、大丈夫、ですか?」やけにうわずった声が正面から聞こえる。
「ああ」
「そうですか。揺れた拍子に怪我とかは」
「ない。ないよ。大丈夫だから」
もっとも、こちらも自分の声が自分のものではないようだった。わずかに喉が震えているのを感じる。
本当に何も見えない。
時間が経ったら復旧すると思いこんでいたが、事態はそう甘くないらしい。
10分待っても、20分待っても。
……1時間待っても相変わらず照明は落ちたままだった。
足元の荷物を引き上げて、カートに載せた。
壁に埋まった備え付けの非常灯を引き抜く。
仕方ない。
「ここからは徒歩かな」
「それ、きつくないですか? 待っていたほうが」
「悪いが待てない理由がある。終点まで残り数分のところまで来ていたんだ。エレベーターもかなり減速していたし、たぶん何とかなる」
有給休暇の期限が差し迫っていた。自分の時間はもう、あまり残されていない。
とりあえず、最果ての階に行かなければならない。
「わかりました。私も行きます。道案内しますから」
「ありがとう。助かる」
手探りで非常用の取手を掴んでドアをこじ開け、外に出た。
ここもまた暗く、冷えた風が吹き抜けていた。
前方を照らすと、運よく作業用の足場と通路らしきものが見えている。エレベーターはそこから約1階分上で止まっていた。思わず身震いしたが、飛び降りられない程の高さではない。
「足元に気をつけろよ。落ちたら――」
試しに客車の下方を照らすと、光は全て暗闇に吸い込まれた。少し胃が捩れた。
「――きっとどこまでも落ち続けるぞ」
「は、はい」
先に飛び降りて、彼女にカートを落としてもらった。程なく彼女も着地する。この高さに僕はかなり恐怖を覚えていたが、彼女はそれなりに度胸があるらしかった。
周囲は静寂に包まれていて、変わらずに暗い。非常灯がなければ、目を開けても閉じてもたいした差はないのだろう。
「ところで、最果ての階っていうのは」
カートを引いて通路を歩きながら、何気なく尋ねた。足音が二人分とカートのローラー音がかなり遠方まで反響している。
先ほども言いましたけど、と最初に加えた。
「たぶんあなたが今向かっているところと同じです。呼び方が違うだけで」
すぐ隣から声がした。
「その先に何もないんです。最上階というより、あそこは世界の果てなんです。初めて来たとき、本当にそう思いました」
「君は最果ての階に何をしに行くんだ」
「ただ行くだけです」
「行くだけ?」
「そうです。たまに登ってみたくなるんですよ」
通路の先に業務用のエレベーターを見つけた。試しに乗り込んでみると、驚いたことに停電の中でも動くようだった。
「ガス圧か何かによる独立したものなんでしょうね。駆動音が全然違う」
「ガスなんて使うのか? この階層は」
「下方階層ではガス漏れが起きれば大災害ですが……最上階が近ければ使えてもおかしくないんじゃないですか? 仮に何か事故が起きたとしてもそのまま空へ抜けて、濃度が薄くなれば無害ですし」
空。
知ってはいたが、あまり聞かない単語だった。これからそれを目にするのだ。
しばらくしてエレベーターが止まった。そこは最上階に一番近い無人駅、二時間程早く辿り着くはずだった終点のプラットホームだ。薄暗い改札を抜ける。
「ここからは私についてきて下さい」
彼女の先導でカートを引きずりながら最寄の階段を登り始めた。停電はまだ続いていて、非常灯で足元を照らしながら歩を進める。
無骨なコンクリートの階段を数階登ったあと、階段が鉄骨式に変わった。上へ下へ、靴音が反響する。そこからさらに数階登って、やがて天井が見えてきた。
階段を登り終えて、彼女が無骨な鉄のドアをゆっくりと開けた。
「着きましたよ」
そして、僕は目にした。
「最果ての階です」




