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鳥は彼方へ飛び去った(中)

 そもそもこのエレベーターに乗っていること自体、彼がきっかけだった。

 彼と会ったのは偶然だった。

 会ったときには既に別れもはっきりと見えていた。

「もう長くねぇんだから」

 それが彼の口癖だった。そういって空虚に笑った。

 そう諦めるなよ、とか、普段無責任にも脳裏に浮かぶ第三者の意見すら会ったときに消えていた。

 彼と出会ったときに、僕はもう巻き込まれていたのだ。 

 会社の出張帰りに道に迷った。電波状況は最悪で、現在地が全くわからない。見知らぬ区画で、助けを求めようにも人通りは極端に少なかった。方々をどれだけ歩き回ってもなにも変わらなかった。最悪遭難して行き倒れも考えられた。それはあまり珍しいことではなかったからだ。ここで道に迷うことは限りなく死に近かった。行き倒れで死ぬ奴は僕が生まれる前から何千何万といただろうし、僕と同じ運命を辿る奴はこれからも数え切れないほど現れるだろう。

 無骨なコンクリートの壁と天井に、僕のふらついた足どりが遠くまで反響する。

 息を吸い込むと喉が凍りついた。吐いた息がホコリと一体になってひび割れたアスファルトに舞い落ちる。時間の感覚はとうに消失していたし、僕の意識も凍りつつあった。

 歩くのを諦めようとしたときだった。

「おい、そこに誰かいるのか」

 野太い声が近くのドアの向こうから聞こえた。明かりが漏れている。

助けを求めた。

 彼はここ一体の地理に明るかった。僕が彼から熱い飲み物を御馳走になっている間、丁寧な見取り図を書いてくれた。何度も頭を下げた。おかげでその日は無事に自分の部屋に帰ることが出来た。

 次の休日、彼にお礼をしに訪問した。彼の見取り図は精緻で、もう道に迷うことはなかった。

 そして、彼が長くないことも最初に出会ったときに既にわかっていた。それでも、いやそれだからこそ僕は来なければならないと心の底から思っていた。

ベッドで身を起こすと頭が天井につっかえ、擦れていた。

 もう満足に動くこともままならなかった。

 見た目だけなら彼は健康そのものだったし、病気もない。だがもう、生きてはいけなかった。普通に部屋の中を歩くことすら出来ず、扉から外に出ることもできないのだ。

 彼は他の大多数の人々に比べて巨大だった。ただそれだけが原因だった。

 原因不明の過度成育症候群。第2次性徴期に平均をはるかに逸脱して身体が巨大化し、結果として日常生活に著しく支障をきたす。有効な治療法は未だ確立されていない――

 巨人症(マクロソミア・シンドローム)

 そう名付けられ、恐れられていた。

 これはこの社会システムの中で誰かが必ず迎える最後でもあった。誰かが必ず遂げる理不尽な最後だった。

 何層何万階にも連なり挟まれた部屋は大きくすることはできない。壁を広げようにもどこもかしこも満員なのだ。そして部屋の容積に個人差をつけようとしても、彼の周囲に住む彼以外の住人がそれを許さない。公共施設を除けば、どこもかしこもいっぱいだった。

会社から有給休暇をもらって彼と過ごせたのはほんの2日間だった。

 泊まり込ませてもらって、部屋の隅の椅子を一つ借りて、時間を忘れてどうでもいいことをひたすら語り合った。

 平凡に生きてきた僕のこと。

 平凡に生きてきた彼のこと。

 小さい頃はこの区画は人通りが多く、縦横無尽に遊び回っても安全だったこと。

 病気になってからの話には一切触れなかった。

 それと驚いたことに、同い年であった。

「先日友達になってくれたお前さんにひとつ頼みがあるんだが」

 壁際の椅子で姿勢を正した。僕にできることなら何だってすると決めていた。 

 差し出されたのは、檻に入れられた1羽の鳥。

「ネットで競り落としたやつなんだが、これが可愛くてな」

 いとおしげに檻をなでる。

「こいつの本当の名前とか、そういうのはよく分からない。ただ今言えるのは、ここはこいつの居場所じゃねえってことだ、なぁ?」

 太い声が震えた。

「おれはこの身体に生まれ育って後悔はしちゃいねぇ。神様がくださって、両親が手塩にかけて育ててくれたんだ。もし後悔なんてのがあるとしたら、どこもかしこもいっぱいなここで生きなきゃならなかったことだよ」

 全身からその生の全てを絞り出すようにいった。涙は僕が来る前に枯れていたらしい。

「やっとここから出られるんだ。そしたらおれとそいつをどこか広いところに連れて行って、見せてくれ。そいつが高く高く飛ぶところを」

 そういって、満面の笑顔を僕にくれた。

「お前が来てくれたことで決心がついた。ありがとうよ、我が親友」

 その瞬間、僕にとっての彼は想い出になってしまった。

 あくる日、彼は死んだ。合法的な方法で自らを薬殺した。

 役所の係員がやってきて遺体は四肢切断され、ようやく部屋から出ることができた。家族に先立たれていた彼の遺体を引き取る者はいなかった。高熱滅菌処理を施され、ダストシュートに放り込まれた。果てしなくまっすぐに下へと伸びるその先がどうなっているのか、僕には知るよしもなかった。

 行き倒れと同じく、何処にでもある話だった。

 違うのは死んだのが誰かということだ。そう思いたかった。もしかしたら、それすらも違わないのかもしれないが。

 彼の遺品は迅速に整理・処分され、部屋は業者が徹底的なクリーニングをかけた。

 空っぽになった彼の部屋。彼の痕跡はもう、どこにもない。

 ただ解っているのは、空いたなら誰かがここで死んだことだけだ。

 まだ何もない広い部屋。

 どこかで生まれた誰かにあてがわれる部屋。

 そして――

 僕は包みを二つカートに入れて、部屋を出た。会社に休暇の延長を連絡した。



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