鳥は彼方へ飛び去った(下3)
その先には何もなかった。彼女の言うとおり、何もなかった。
ゆるやかに風が吹いている。
黒く、暗かった。それなのにぼんやりと明るい。
これが。
これが――空。
「晴れてますね。星がよく見えます」
彼女の声がやけに遠く感じた。
大きく身震いする。
その果てから目が離せなくなっていた。
足元がおぼつかない。ここはどこだ?
僕は一体どこに立っている?
上に向かって引っ張られた気がした。上に向かって落ちていく。
いや、もっと速い。吸い込まれる。
吸い込まれる!
「大丈夫ですか!」
気がつくと、コンクリートの地面に倒れこんでいた。
上を見るのが怖くなっていた。怖くてたまらなかった。
「落ち着いて――私も初めて来たときは、あなたと同じ状態になりました」
呼吸をゆっくりと整えたところで、ごろりと仰向けにさせられた。
ただ、ひたすらに圧倒的だった。
「しばらくそのままで、リラックスしましょう」
彼女が隣に寝転んだ。
急に眠気が襲ってきて、そのまま少し眠った。
目を開ける。時計を見ると、あまり時間は経っていなかった。
「大丈夫ですか?」
「ああ……」
少しの間ぼんやりとしていた。
「本当に、永遠に届かないほどに遠いんだな」
「そうですね」
空を見ることへの恐怖はいくらか薄れていた。
不意に羽音がした。そこで我に返った。
「その子、待ちくたびれてたみたいです」
彼女が笑って言った。
そうだ。僕にはやらなければならないことがあったのだ。
起き上がり包みを開けると、鳥が一心に上を見つめていた。
檻を解き放ち、本当の外に出してやった。
鳥には檻の中の記憶がないかのようだった。翼をいっぱいに羽ばたかせると、辺りを縦横無尽に飛び回った。
「飛んでる……そうか、飛んでるんですね。あの子」
「もう、戻ってくる必要もないんだ」
「なんでだろう。初めてみる光景のはずなのに、ずっと前からわかっていたような気がするんです」
「記憶というのは自分の脳の中にあって覚えている類のものではなく、今まで自分と関わった事物に触れる時突然に思い起こされるものだそうだ。君は鳥を知っていたし、何度もここに来ているんだろう?」
確かそんな話を、学生だった時分に聞かされた。そしてこのこともたった今思い出されたものだ。
「まるで、夢みたいですね」
「そうかもしれない」
忘れていた、とかそういうことじゃない。
逢ったときにすべてを思い出す。ただそれだけのことだ。
そして、もうひとつの包みもほどいた。
待たせたな。
遺体処分の際に譲り受けた、冷凍滅菌処理されて真空パックに入った彼の首だった。
それを見て、彼女の顔が少し引きつった。無理もない。
「それは……」
「話しただろう。『彼』だよ」
パックから取り出し、抱え持とうとした。だが、ふらついてうまくいかない。
「待って!」
彼女が手を添えた。
「私も持ちます。持たせてください」
「これが何なのかわかるよな? 怖くないのか」
「……びっくりしただけです」不思議なことに、強がっているようには聞こえなかった。
人の首というのはかなりの重量があるもので、カートで運ぶならまだしも支え持つとなると力がいる。互いの両手で支え合ってようやく安定した。
「すまないな。手伝わせてしまって」
「私はあなたに関わった。お礼を言うのは私です。ありがとうございます」
彼女の手は震えていた。
「大丈夫か? 持つよ。それが僕の役目でもあるんだし」
しかし彼女は決して首を離そうとしなかった。
はるか虚空を飛ぶ鳥を見上げながら、何となく彼に話しかけてみた。
「なあ。見えてるか? 気持ちよさそうに飛んでるぜ。あんたから預かった鳥」
『ああ、よく見える。本当にありがとうよ、我が親友』
どこからか、ひどく懐かしい声がした。
首の方から聞こえたわけではなかった。
何故か僕の中からだったような気がした。
『それからお嬢ちゃんも、ありがとう。これでようやく行ける』
「いえ、私は――」
静かな嗚咽が聞こえた。彼女は泣いていた。
ふと、両手の重みが無いことに気付いた。
「あれ?」
『本当にありがとうよ、我が親友』
今度は上の方から聞こえた。気のせいか、少しずつ声が遠ざかっている。
待て。
「あんた、どこにいるんだ」
この声はどこから聞こえてくる?
はるか上からのような気もする。本当に僕の中から響いている気もする。
「行ってしまうのですね」彼女はもう、わかっていたようだった。
『ありがとうよ、我が親友』
言葉が段々と短くなり、遠ざかる。もう時間がないのだ。僕が何をどんなに足掻いたとしても、それだけは絶対に変わらない。
彼は行ってしまうのだ。
『我が親友』
彼が行ってしまう。
その前に早く言わなければ。言うんだ。
これが本当に最後なんだ。
「あんたに会えてよかった。こちらこそありがとう」
『――――』
最後の一瞬で言い切る。やがて彼の気配は消えた。
遠くの空で白鳥が鳴いた。
僕たちはまたエレベーターに乗っていた。
人通りのあるところの電気は既に復帰していた。
この遥か下に僕の部屋は残されている。僕の職場もある。僕の時間も、そして記憶もまだこの中にある。
彼女だってそうだ。
ならば、僕らは帰らなければならない。帰るしかないのだ。
空っぽのボックス席にふたり腰を下ろして、『電子の鳥』を再生させる。
彼女にヘッドフォンの片方を差し出すと、会釈して受け取った。
僕はそのまま目を閉じた。彼女も目を閉じる。恐らくは一生消えることのない、ひとつのイメージをまぶたに浮かべて。
K層の途中で彼女はエレベーターを降りた。
「では、私はこれで」
「ああ。そうか」
「――また会えますか?」
「僕らには同じ行き先があるじゃないか。そう遠くないうちに、また」
「そうですか。そうですよね」
微かに安堵の笑いを含んだ彼女の言葉。
「そうだ、ひとつだけ聞かせてくれ」
彼女とまっすぐに目を合わせる。
「君は誰なんだ」
「道すがら出会った、あなたがよく知ってるひとです。それで充分でしょう?」
一瞬、視界が白で覆われる。そうか。
そう言われればそうだ。僕も彼女も、それで充分だった。
『電子の鳥』が終わりかけていた。疾走の旋律が細っていく。
彼女はヘッドフォンを返した。
フェードアウトの時間を僕に手渡し、彼女は会ったときと同じく一礼して去っていった。
「それでは、また」
エレベーターから降り、彼女の姿は人混みに溶けた。彼女は誰かになって、元いた場所へと帰っていった。ボックスには僕だけが取り残された。
エレベーターが下へと動き出す。次は僕が帰る番だ。
ヘッドフォンを両耳にあてて、僕は再び眠りに落ちた。
檻から出て頭上を何度か旋回していた鳥が大きく、大きく羽根をはばたかせている。
永遠に、決して使われることのない領域。
空虚にして無限。
それを見て、僕の中の鳥が騒ぎ出した。
外へ、外へ出たいと。
しかし、僕はここにいることしかできない。
ただ見上げるしかない。
そして、元いた場所に帰るしかない。
彼の電子の鳥はどこかへと飛び去った。
置き忘れはなく、全てをその身に捧げて。
遠い彼方へと飛び去っていったのだ。




