ひっくり返しの世紀の大事業
カセットコンロの青い炎が「ゴォー」と静かに燃え続け、フライパンの上ではニギリ先輩の底面が見事な飴色に染まりつつあった。
香ばしい焦がし醤油の香りが波風に乗って漂い、ポカポカ諸島全体のお腹を「ぐぅ」と鳴らす。
「よし……! 片面は完璧なカリカリ具合だ。ついにこの時が来たぞ……!」
踏み台の上のキビ丸が木べらを両手で握りしめ、ゴクリと唾を飲み込んだ。
そう、焼きおにぎり調理における最大にして最高の難所——「ひっくり返し」の瞬間である。
「モチ太! フライパンの角度を三度だけ手前に傾けろ! 重力を利用して、一気にニギリ先輩を反転させるんだ!」
「さ、三度スか!? 無理だよキビ丸ぅぅ! 僕のぷにぷにの腕はもう限界を超えて、限界のあとのボーナスタイムに入ってるんだよぉぉ!」
フライパンの取っ手を必死に支えるモチ太の身体は、プルプルと激しく振動していた。
その振動がフライパンに伝わり、ニギリ先輩が「カタカタカタ」と小刻みに揺れる。
「モチ太、落ち着くのだ」
ニギリ先輩が、地鳴りのような重厚な声で言った。
「私の重心は、中央に詰まったツナマヨによって絶妙なバランスを保っている。君が揺れれば、中のツナマヨが偏り、反転した瞬間に分裂してしまうかもしれん」
「えぇぇ!? 分裂ニギリ先輩になっちゃうの!? それは絶対に阻止しなきゃ!!」
モチ太は歯を食いしばり、必死に足を砂浜に踏ん張った。
その緊迫した空気を破ったのは、穴から顔を出したモグだった。
「ねえねえ! ボクのフォークで下から『えいっ』てテコの原理で押し上げてあげようか!?」
「絶対にやめて!!」
キビ丸とモチ太の叫びがハモる。
「モグのフォークなんて刺さったら、ニギリ先輩のお米がボロボロ崩れちゃうでしょ! おとなしく引っ込んでて!」
「ちぇーっ、親切心だったのにさー。じゃあボクは下に落ちてくるかもしれないお米の粒をキャッチする準備しておくね」
「落ちる前提で待たないで!」
沖合では、アヒル船長に乗ったパイロンくんが釣竿を両手で構え、固唾をのんで見守っていた。
「がんばれ〜キビ丸くん! がんばれ〜ニギリ先輩〜! アヒル船長も応援してるよ〜!」
「ガー! ガー!」
浅瀬に浮かぶチェリーちゃんも、ハラハラしながらさくらんぼを揺らしている。
「お願い……無事にひっくり返って……! 失敗して砂浜に落ちたら、ニギリ先輩が『砂おにぎり』になっちゃう……!」
「砂おにぎりは嫌だ! 誰も得しない!」
キビ丸は呼吸を整えた。木べらをニギリ先輩の底面に滑り込ませる。
「行くぞ……! 三、二、一……そりゃぁぁぁ!!」
キビ丸の力強い一声とともに、木べらが弧を描いた!
巨大なニギリ先輩の身体がフワリと宙に浮き、空中を綺麗に半回転する。
海苔の巻かれた真っ白な背中が上を向き、香ばしいおこげの面が空を舞った。
「うおおお! 浮いたぁぁぁ!」
そして次の瞬間——「スチャッ!」という心地よい音とともに、ニギリ先輩は見事にフライパンへと着地したのである。
「……決まった」
ニギリ先輩が静かに呟く。
ひっくり返った上面からは、完璧な黄金色に焦げた醤油の輝きと、食欲をそそる煙が立ち上っていた。
「やったーーー!! ひっくり返し大成功だーーー!!」
キビ丸が木べらを掲げて大歓声を上げる。
モチ太は「助かったぁぁ……」と砂浜にへたり込み、モグは穴の中で悔しそうにフォークを噛んだ。
「見事な空中回転だったよ〜!」
とパイロンくんが拍手を送り、タコ島さんも頭のタコちゃんとともに「ぷしゅ〜!」と祝福の潮を吹いた。
ポカポカ諸島の一大プロジェクトは、ついに後半戦へと突入するのだった。




