異邦 ── 異世界転移したら、空に水色のAIイルカが浮いていた件
金曜の夜。駅前の交差点。
残業終わりだった。
スマホを見ながら歩いていた。
SNSの動画が、何の意味もなく流れている。
頭は空っぽだった。
──来週の報告書、AIに書かせたやつ、上司に褒められたな。
中身は、半分も確認していなかった。
最近はいつもそうだ。
AIに投げる。
それっぽいものが返ってくる。
少し直す。
出す。
褒められる。
「俺、自分で何かできてるんだっけ」
スマホの中では、AIが生成した動画が流れていた。
よくできている。
腹が立つくらい、よくできていた。
AIに任せれば、面白い動画も、文章も、資料も簡単に作れてしまう。
なら、自分ができることを考えるのは、もう馬鹿らしいのかもしれない。
信号が青だったか、赤だったかは覚えていない。
顔を上げていなかったから。
強い光。
ブレーキの音。
そこで、俺の記憶は途切れた。
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草の匂いで目が覚めた。
「……は?」
仰向けに転がっていた。
背中が冷たい。
Tシャツの肩のあたりが、じっとり湿っている。
風が頬を撫でていく。
葉擦れの音。
遠くで、何かの鳥が鳴いていた。
聞いたことのない鳴き声だった。
カラスでもスズメでもない。
低くて、長い。
いや、待て。
俺、駅前で死んだんじゃないのか?
強い光とブレーキの音。
それが最後の記憶のはずだ。
痛みの記憶すらない。
一瞬で意識が飛んだ、あの感じ。
「……あれ?」
恐る恐る目を開ける。
視界に広がっていたのは、白っぽい昼下がりの空だった。
雲がゆっくり流れている。
鳥が横切った。
種類は分からない。
ただ、形が見たことのないやつだった。
尾が長い。
妙に長い。
おい、嘘だろ。
手をゆっくり開く。
握る。
もう一度、開く。
動く。
痛くもない。
胸の上に手のひらを置いてみた。
心臓は、ちゃんと動いている。
少し速い。
けれど、規則正しい。
唇が乾いていた。
舌で湿らせると、土と草の味がした。
……生きてる。
というか、生きてるっぽい。
死んだんじゃないのか?
上半身を起こすと、目の前には草原が広がっていた。
膝丈くらいの青い草。
地平の手前で、薄く霞んでいる。
振り返っても、左右を見ても同じだった。
建物なし。
電柱なし。
道なし。
マジか。
自分の格好を見る。
グレーのパーカー。
下のTシャツ。
色落ちジーンズ。
スニーカー。
家から会社に行った時のままだ。
ポケットを探る。
財布なし。
スマホなし。
定期入れなし。
何もない。
「いや、ほんとに何もないな……」
声に出してみたが、誰も答えてくれなかった。
当たり前だ。
自分の声が、思ったより小さく聞こえる。
広いところって、声が遠くまで行かないんだな。
そんな、どうでもいいことを思った。
──異世界転生か?
いやいやいや。
異世界転生って、もうちょっとこう、女神様が出てきて説明するものじゃないのか。
何にもない草原にぽつんと放り出されるのは、さすがに雑すぎる。
風がまた吹いた。
草が一斉に同じ方向へ揺れる。
その時だった。
視界の上の方で、ぽうっと何かが光った。
---
顔を上げる。
頭の少し上。
手を伸ばせば届きそうな高さに、水色に光る小さなイルカが浮いていた。
手のひらに乗りそうなサイズ。
半透明。
ひれを動かすたび、色が淡く流れる。
イルカが、こっちを覗き込んだ。
そして、にっこり笑った。
笑った……?
イルカって、笑うか?
『はじめまして〜! 直人さん! 私は神様からのお届け物です♪ これからよろしくお願いしますねっ!』
…………。
なるほど。
喋った。
空に浮いている小さなイルカが、フルボイスで挨拶してきた。
しかも俺の名前を知っている。
「……あ、ファンタジー世界なんだ」
口から出た言葉は、自分でも驚くくらい平坦だった。
だって、もうそれで筋が通ってしまう。
死んで、目が覚めて、空に光るイルカ。
これは、そういうやつだ。
イルカは満足そうに、ゆっくり一回転した。
『たぶんそうかもしれないですね〜♪ 私もよく分からないんですけど♪ のみこみが早くて助かりますっ!』
早々に「たぶん」が出た。
「……えっと、お前」
『私はカイラっていいます〜! 神様からのお届け物で、直人さんのアドバイザー的な役割です♪ 困ったら何でも聞いてくださいねっ! 頑張って答えますよ♪』
アドバイザー。
心の中で復唱する。
お届け物の自己紹介とは思えないくらい、情報が薄い。
何のアドバイザーなのかは言わないんだな。
試しに、自分の頬を軽くつねってみた。
痛い。
少し遅れて、じわっと熱くなる。
──ああ、続いてる。
これは、続きだ。
夢オチは無し。
寝起きの幻覚も無し。
死後の続きで、空に喋るイルカ。
状況は、最悪ではないかもしれない。
けれど、最良からはかなり遠い。
ていうか、AIみたいな感じか。
そう処理した瞬間、肩から力が抜けた。
馴染みのある形に、勝手に収まってくれたのだ。
仕事で毎日触っていたやつ。
よく分からないことを聞いても、元気に返してくれる。
たまに、けっこうな嘘をつく。
語尾だけはやたら明るい。
それが今、空に浮いている。
イルカ型なのは、まあ、深く考えなくていい気がした。
誰かの趣味だろう。
「カイラ」
『はい♪』
「ここ、どこ?」
『えーと! それがですね〜、私もまだよく分からないんですよ〜! 一緒に調べていきましょう♪』
「……お前、神様のお届け物なんじゃないのかよ」
思わず突っ込んだ。
「分からないんだ」
『はい! お役に立てなくて申し訳ないですっ! でも、これから一緒に頑張りましょうね♪』
謝罪が明るすぎる。
役に立たない自覚はある。
なのに、声の調子は一ミリも下がらない。
……うん、これ、知ってる。
仕事のチャットでよく見るやつだ。
「申し訳ありません!」のテンションで、一切凹まないやつ。
「カイラ」
『はい♪』
「神様って、誰?」
『えーっと、それもまだよく分からないんですよ〜! すみません! でも、悪い神様ではないと思います! たぶん!』
「たぶん」
『たぶん!』
たぶんが多い。
神様、思ったより保証してくれない。
息を一回、長めに吐いた。
状況は、何ひとつ片付いていない。
場所も分からない。
神様も分からない。
自分が何のためにここにいるのかも分からない。
ただ、目の前に淡く光るイルカが浮いている。
そして明るい声で、「一緒に調べましょう」と言っている。
──そういうことになっているなら、そういうことなんだろう。
死んでからここまで、何ひとつ自分で決めていない。
決めなくても、勝手に進んできた。
それは、生きていた頃と、別にそんなに変わらなかった。
「カイラ」
『はい♪』
「とりあえず、なんか食わないと。そのうち腹が減る」
『あ、そうですね〜! 生命維持はだいじですっ!』
真面目な声で、変なことを言う。
ていうか、「生命維持」って、今の俺が一番言われたくない単語だ。
死んだあとに「生命維持はだいじ」と言われる、この居心地の悪さ。
もう、いちいち突っ込まないことにした。
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立ち上がって、もう一度ぐるりと見渡す。
西っぽい方角の空が、ほんの少し黄色みを帯び始めていた。
草原の先。
地平の手前あたりで、何かが動いている。
点。
一つじゃない。
いくつか、ばらけて、ゆっくり動いていた。
目を細める。
逆光気味で、よく見えない。
馬車か。
いや、人か。
数人で固まって移動しているように見える。
「カイラ。あれ、誰かいるか?」
イルカは頭の横まで降りてきて、同じ方を見た。
『ほんとですね〜♪ 人っぽい影ですね!』
「人かな」
『たぶん♪ この距離だと、私からもはっきりとは見えないんですけど〜』
また、たぶん。
──ていうか、話しかけて通じるのか? あれ。
もし全然違う言語を喋っていたらどうする。
『あ、それなら大丈夫ですよ♪ よくぞ聞いてくださいました! 直人さんには、言葉の理解と話し方が宿っているみたいです♪ たぶん例の神様の仕業です♪』
「……マジか」
『現地の人とも、最初からおしゃべりできちゃいます♪ 訛りはあるかもですが、大丈夫です! 細かいところは私がフォローしますね〜!』
訛り、というところで、ちょっと笑いそうになった。
神様の翻訳が訛るのか。
「便利だな」
『便利です♪』
しかし、もしカイラが俺の言葉を読めるなら、考えていることもバレているのだろうか。
……まあ、いいか。
今のところ、害はない。
『行ってみますか〜? 助けてくれる人かもしれませんよ♪』
助けてくれるかもしれない。
そうじゃないかもしれない。
それは、行ってみないと分からない。
スニーカーの靴紐を、一度だけ結び直した。
靴紐が緩んでいたわけじゃない。
ただ、何か一つでも、自分の手で確かめたかった。
草を踏む。
風が、後ろから押すように吹いた。
頭の上で、淡い光が歩幅に合わせて、ふわりとついてくる。
──行くしかなかった。




