神界の残響、戦神の休息
神殿の回廊には、打ち水がなされたばかりのような清々しい空気が満ちていた。
エリは、隣を歩く主席神官カルミナに、ふわりと柔らかな微笑みを向けた。
「カルミナ、本当にありがとう。あなたがいてくれなかったら、あの酒神バッカス様をあそこまで完璧にやり込めることはできなかったわ」
カルミナは居住まいを正し、その理知的な瞳をわずかに細めて一礼する。その手には、神界の不正を暴き出したあの分厚い帳簿が、戦利品のように抱えられていた。
「いえ、エリ様。私こそ、エリ様のお役に立てたのであれば、神官としてこれほど喜ばしいことはございません。事務方の執念、神々といえど侮れぬと思い知ったことでしょう」
「ふふ、そうね。これで、地上からの切実な祈りが酒の肴に化けることもなくなるはずよ。祈祷が成就する確率も、少しは上がるんじゃないかしら」
「ええ。そうなれば、信者も民も、真の意味で神の慈悲を実感することになるでしょう。エリ様がもたらした変革は、この国の希望です」
心地よい充足感に包まれながらも、エリの肩には確かな重みが残っていた。慣れない神界での大立ち回りは、想像以上に彼女の精神を削っていたのだ。
「……なんだか、天界で暴れすぎて少し疲れちゃった。悪いけれど、少し休ませてもらうわね」
自室に戻ったエリを待っていたのは、安らぎをくれる二人の忠実な者たちだった。エリはナイトホークとオーエンに、神界で起きた出来事を丁寧に報告し、心からの感謝を伝えた。
「オーエン、あなたが調べてくれた資料がなければ、神様たちをあそこまで論理的に追い詰めることはできなかったわ。あなたの調査能力は、もはや神域に達しているわね」
「もったいないお言葉です、エリ。真実は常に数字と記録の中に宿るものですから」
オーエンが恭しく頭を下げる傍らで、漆黒の衣を纏ったナイトホークが静かに佇んでいる。
「ナイトホーク、あなたも。背後に控えてくれているだけで、あなたの正体に気づいた神々が震え上がっているのが分かったわ。その威圧感、本当に心強かった」
「何の。それくらいで良ければ、いつでも使ってくれ。主を脅かす不届き者がいれば、神であろうと私が喰らってやろう」
ナイトホークの不敵な言葉に、エリはくすりと笑い、ようやく深くソファへ身を沈めた。
すると、脳内に鈴を転がすような、それでいてどこか感慨深げなミリエルの声が響いた。
『エリ。あなたが堕落した神々を快刀乱麻に裁くのを見ていて、他人事ながら本当に気持ちが良かったわ』
「ミリエル、あなたもあそこで飲んだくれていたの?」
『心外ね。私は飲まないわ。私が酔い潰れた姿なんて、一度も見たことがないでしょう?』
「だったら、神々に『飲み過ぎよ』って注意してくれればよかったのに。
あんな風に糾弾するのは、私だって心が痛むんだから」
エリの言葉に、ミリエルは一瞬の沈黙のあと、慈しむような溜息をついた。
『……そうね。でも、それは私の仕事じゃないと思っていたの。神々も、そして私も、あなたという新米の女神が――これほどまでに気高く、神とも渡り合える最強の「戦神」へと成長するなんて、思ってもみなかったから』
「ミリエル……?」
『正直、いつかあなたが、かつてのミリシアのように、その清廉さゆえに神界の淀みに飲み込まれて消えてしまうのではないかと心配していたわ。でも、もうその必要はなさそうね。あなたは、あなた自身の足で、神界の理さえ書き換えてしまったのだから』
「私は、ただの女子高生よ。ミリシアがどうだったかは知らないけれど、私は私らしくいたいだけ。……でも、消えないって言ってくれるのは、嬉しいわ」
エリは目を閉じ、窓から差し込む午後の柔らかな光を全身に浴びた。
神界を震撼させた「戦神」の、それは束の間の、けれど揺るぎない休息のひとときだった。




