目覚めの刻(とき)、百薬の長
「……失礼。言葉が過ぎたようだね」
エリの瞳に宿る冷徹な光を認め、バッカスは慌てて両手を挙げて降参の意を示しました。神としての誇りよりも、今はこれ以上の「清め」を避けるのが先決だと、本能が告げたのでしょう。
「確かに、私が悪かったよ。だがね、聞いておくれ。……かつての神々というのは、これほどせっせと働かなくとも、世の中は勝手に回っていたものなのだ。君も、ゼウスという神の名を聞いたことがあるだろう? あいつなど、仕事そっちのけで女神や地上の美女の尻ばかり追いかけていた、救いようのない色欲の神だったんだから」
「……奥方である女神ヘラ様が、そのたび大層お怒りになっていたというお話は、私も存じ上げておりますわ」
エリが淡く微笑みながら応じると、バッカスは「そう、それだよ!」と、同調を得られたことに気を良くして身を乗り出しました。
「そうなんだ。あの時代の神というものは、何もしなくても神でいられた。座して供物を待っていれば済んだのだよ」
「バッカス様。……今はもう、そのような時代ではないのです」
エリは、諭すような柔らかな声で彼の言葉を遮りました。
「神々が慈しみを持って見守り、手を貸さなければ、地上は容易に不幸に沈んでしまいます。……それに、お酒も。本来は、ほんの嗜む程度にとどめるのが、粋というものではなくて? 前後不覚に酔い潰れ、理性を失うのは、神としても……一人の殿方としても、決して美しくございませんわ」
バッカスは、エリの言葉を噛みしめるように視線を落としました。彼女の言葉には、現代的な合理性と、この世界を愛する者としての切実さが混じり合っています。
「……私は、時代遅れになっていたのだね」
「時代遅れ、というよりは……。古き良き夢の中で、長く微睡んでいらしたのでしょう。ですがバッカス様、これからはどうか目を覚まして、神界と地上の『現実』を直視してくださいまし。……お酒が百薬の長となり、人々の心を繋ぐ助けとなることは、私も決して否定はいたしませんから」
その温かな言葉に、バッカスは救われたような表情を浮かべ、恐る恐るエリの顔を覗き込みました。
「それじゃあ……僕のことは、許してくれるのかい?」
エリは、潤んだ瞳で縋ってくる酒の神を見つめ、ふっといたずらっぽく、それでいて揺るぎない微笑みを返しました。
「バッカス様。……それは、これからのあなたの『行動』次第ということにさせていただきますわ」
その返答に、バッカスは背筋を伸ばし、まるで新入社員のような神妙な面持ちで深く頷くのでした。天界に漂っていた酒の香りは、いつの間にか、清々しい朝の風に押し流されていました。




