神界の帳簿と、清めを呼ぶ鉄槌
「……それで、バッカス様は今どちらに?」
エリの問いに、秩序の神ノモティオスは震える指で、黄金の回廊のさらに奥を指し示しました。そこからは、神聖な場所には似つかわしくない、喧騒と甘ったるい酒の香りが漂ってきます。
「案内は不要よ。……あ、それから。協力者を一人連れてきているから」
エリが静かに指を鳴らすと、背後の空間が柔らかく波打ち、一人の女性が姿を現しました。かつて聖ミルトス神殿で誰よりも規律を重んじた主席神官、カルミナです。彼女は神界のあまりに放蕩な空気に眉をひそめながらも、脇に抱えた分厚い革綴じの帳簿を、まるで聖遺物のように強く抱きしめていました。
「……エリ、呼び出しが急すぎるわ。地上の神殿の在庫整理で手一杯だというのに」
「ごめんなさい。でも、カルミナにしか頼めない『敵』がいるのよ」
エリが視線を向けた先。巨大な藤棚の下で、数柱の神々が顔を赤らめて杯を酌み交わしていました。その中心で、だらしなく衣をはだけて笑っているのが、酒の神バッカスです。
「あはは! ほら、もっと飲みなよ! 地上の連中が捧げたこの『カラスミ』、この上ない逸品だねぇ!」
その光景を目にした瞬間、カルミナの瞳に氷のような冷徹な光が宿りました。
「……あら。あそこで酒の肴にされているのは、私が三日三晩、一睡もせずに調整して、ようやく信徒たちから集めた『国家安泰祈願』の特別供物ではないかしら」
「いい反応ね、カルミナ。……よし、不届き者に『指導』を始めましょうか」
エリは心に浮かべたイメージを、聖なる光の粒子へと変えていきます。彼女が放ったのは、最新の光音響魔法——「天の雷鳴(またの名をスタングレネード)」。
——キィィィィィン!!
「な、なんだぁ!? 目が、目が開かない!」
「耳の奥が痛む! どこの神の悪戯だ!」
悶え苦しむ神々の前に、エリは凛とした足取りで歩み寄りました。そして、視界が定まらずにうろたえるバッカスの鼻先に、カルミナが静かに、しかし重々しく帳簿を突きつけたのです。
「酒の神バッカス様。聖ミルトス神殿主席神官として、厳正なる監査の結果をご報告に参りました」
「な、なんだお前は……人間風情が……」
「黙りなさい。……この一年間、あなたが『神託』と偽り、地上へ強いた酒肴の総量、およびそれに伴う地上の経済損失の試算にございます。加えて、雨の神や農業の神に美酒を贈り、本来の神務を放棄させた教唆の証拠も、ここにすべて記されております。これ、神界の法典に照らせば、その座を追われても文句は言えませんわよね?」
カルミナが淡々と奏でる数字の羅列は、どんな呪文よりもバッカスを追い詰め、その顔からみるみる余裕を奪っていきました。
「お、おい、それは……ただの『お裾分け』のつもりで……」
「言い訳は不要よ。……エリ様、準備は?」
カルミナが冷たく問いかけると、エリは背後に、巨大な「浄化の放水陣(高圧放水車)」を具現化させていました。
「バッチリよ。……バッカス、まずはその腐った根性とアルコールを、この『神界仕様・高圧洗浄魔法』で洗い流してあげるわ! ロックオン完了、放水開始!!」
「ぎゃあああああああ!」
神界の静寂を破り、強力な放水の音が響き渡ります。
現代の事務能力と最新兵器の前に、古の神がこれほどまでに無力であることを、神界の神々は戦慄と共に思い知ることになるのでした。




