天界の不条理と、震える秩序の神
空のさらに高み、白銀の雲がどこまでも続く天界の門を、エリは迷いのない足取りで踏み越えていきました。背後には、人化して寡黙な従者の姿をとったナイトホークが、鋭い眼光を光らせて付き従っています。
エリは、神殿で見せる慈愛に満ちた微笑を今は封印し、凛とした声を天界の静寂に響かせました。
「地上の民草からの『苦情』を届けに来たわ。責任を持って対応できる担当の神を呼んで頂戴」
その声に反応するように、幾重にも重なる光の向こうから、一人の神が姿を現しました。手には仰々しい金縁の法典を抱え、いかにも真面目そうな——悪く言えば少し頼りなげな風貌の男神です。
「……私が、神界の秩序を司る神、ノモティオスにございます。新しき女神エリよ、神界の静寂を破ってまでの用向き、お伺いしましょう」
「神界の秩序を司る、ですって? ちょうど良かったわ」
エリはわずかに目を細め、一歩、彼との距離を詰めました。その双眸には、現場で戦ってきた者だけが持つ、逃げ場のない圧が宿っています。
「海の魔獣レヴィアタンを長期間放置し、結果としてアルセリアに深刻な干ばつをもたらした。農家は泥を啜る思いで田畑を世話し、人々は飢えに苦しんだわ。……さて、この一連の不祥事、一体どこの誰の責任なの?」
ノモティオスは、エリの気圧されるような迫力に一瞬たじろぎましたが、すぐに抱えた法典をめくり、事務的な口調で答えました。
「それはですね……。法典に基づきお答えしますと、海の魔獣を看過した『海の神』、干ばつを座視した『雨の神』、そして凶作を食い止められなかった『農業の神』。この三柱に重い責任がございます」
あまりにも理路整然とした「縦割り行政」の回答に、エリの口角がわずかに跳ね上がります。それは、彼女が最も怒っている時に見せる、美しい断罪の予兆でした。
「そう。それぞれの担当に非があることはよく分かったわ。……で、それらすべての怠慢を知りながら、放置していた神界の秩序を司る『あなた』には、一切の責任はないと言うのかしら? ノモティオス」
「ヒッ……!」
エリが至近距離で静かに問い詰めると、秩序の神は情けない悲鳴を上げて凍りつきました。法典を持つ手が、小刻みに震えています。
「……あなたがそんな具合だから、他の神々からも舐められるのよ。現場の苦労も知らないで、雲の上で責任逃れの練習ばかりしているなんてね」
エリの容赦のない言葉に、ノモティオスはついに耐えかねたように、縋るような視線で言い訳を漏らしました。
「そ、そう仰られましても……! 私とて手を尽くそうとはしたのです! ですが、古の時代より君臨される酒の神バッカス様が、毎日毎日、盛大な酒宴を開いては他の神々を呼び寄せ、一向に言うことを聞いてくださらないのです……!」
「……バッカス?」
エリの脳裏に、オーエンから報告のあった「酒の肴のような供物リスト」が結びつきました。
「なるほど、全ての元凶は、その『飲み会好きの神様』にあるというわけね」
パチン、と指を鳴らしたエリの背後で、ナイトホークが静かに口角を上げました。それは、これからの天界に「物理的な嵐」が吹き荒れることを予感させる、不敵な笑みでした。




