零落の竜鱗
かつて聖域の頂点に君臨した主席神官カルミナを包んでいるのは、静謐な神殿の空気ではなく、じっとりと肌にまとわりつくような敗北感だった。
事の始まりは、元部下であったエリが神の座へと昇華したことにある。かつての「格下」から神罰を下されるという屈辱。カルミナにしてみれば、自分が行ったことは神殿の利益と公共の福祉を天秤にかけた、極めて現実的で合理的な判断に過ぎなかった。魔物の残滓を有効活用しようとしただけなのだ。
しかし、その執念の結果として手元に残ったのは、鈍い光を放つ五枚の竜鱗。たったそれだけだった。
「これっぽっちの鱗で、一体何ができるというのよ……!」
執務室に響くカルミナの罵声は、日に日に険しさを増していく。神官たちは腫れ物に触れるかのように彼女を避け、廊下でその姿を見かければ、申し合わせたように足早に角を曲がった。
「オーエン様、いい加減カルミナ様を諫めていただけませんか? 皆、生きた心地がしないのです」
若き神官に縋られたオーエンは、困ったように眉を下げて首を振った。
「勘弁してくれよ。僕だって、今の彼女に噛みつかれたくはないんだ。嵐が過ぎ去るのを待つのが一番さ」
数日が経って、ようやく気持ちが落ち着いたカルミナ。換金のために自らその鱗を手に市場へと足を運んだ。神官としての威厳を鎧のように纏い、馴染みの商人に鱗を突きつける。しかし、返ってきたのは期待していた感嘆の声ではなく、ひどく困惑した同情の眼差しだった。
「神官様……。申し訳ないのですが、今この鱗は、ご希望の価格で買い取ることは叶いません」
「……なんですって? 寝ぼけたことを言わないで。これは女神によって採取を十枚に制限された、極めて希少な魔物レヴィアタンの竜鱗よ。それがなぜ、端金にしかならないと言うの」
カルミナの瞳に鋭い怒りが宿る。だが、商人は首を横に振った。
「それが……今、市場にはこの鱗が大量に出回っているのですよ」
「大量? おかしいわ、そんなはずがない! 女神が許した数を超えて流通するなど、あり得ないはずでしょう!」
「それが、持ち込んでいるのは陸の者ではないのです。マーメイド族ですよ」
その名を聞き、カルミナは眉をひそめた。深海に棲まう、人間とは相容れぬはずの海棲民族。
「彼らは水中に棲んでいますからね。沈没船の積み荷や、海底に沈んだ魔物の死骸などからの採取物をよく持ち込んでくるんです。どうやら今回は、伝説の海獣レヴィアタンの巨大な死骸が海底に届いたとかで、あちらさんはお祭り騒ぎのようですよ。供給が飽和しているんです」
「レヴィアタン……海棲の魔物の王がマーメイド族に渡るなんて……?」
カルミナの口元が、醜く歪んだ。自分が命がけで、神の怒りに触れる様な真似をしてまで手に入れた五枚の鱗。それが、海の底では掃いて捨てるほどの「お溢れ」として扱われている。
(エリ……。あなたが守ろうとした秩序の裏で、世界はこんなにも身勝手に回っているのね)
「……この件、エリに知らせる必要がありそうね」
低く呟いた彼女の瞳には、かつての敬虔な神官の面影はなく、ドロリとした執念の炎が再燃していた。
(エリ、あなたは神としてマーメイド族をどう裁くのかしら)




